2007年6月15日金曜日

基層文化とは?




■植物の扱い方。カラムシ(苧麻)の幹から繊維を取り出す技法は、たとえば、6月になって食卓に載るフキ(蕗)の幹の外皮の剥ぎ方(はぎかた)と、同じだ。外皮の硬い繊維をむいて、そのなかの柔らかいところを食べる。流水にさらして、アクを抜く。

 カラムシは外皮を利用する。中の茎は利用しない(堆肥や、焚きつけとしてオガラとして利用する)。外皮のままで利用する場合もあるが、商品としては外皮をさらにオヒキして精製する。

2007年6月11日月曜日

例会は6月20日(水)18時、宮下・奥会津書房

■2007年6月20日(水)18時より、三島町宮下・奥会津書房にて会津学研究会定例会を開催いたします。なお『会津学3号』の原稿締め切り日にもなっています。

2007年6月4日月曜日

聞き書きの風景⑤ (野山を見るまなざし)



聞き書きの風景⑤ 野山をみるまなざし

■2007年6月1日(金)雨だったので、南会津町(田島)田部の花の農家の視察に父母を誘って行った。大岐から喰丸(クイマル)峠、標高1000mの船鼻(ふねはな)峠を超えて田島町に降りた。

 船鼻峠ではミズノキの白い花が咲いていた。トチの木の天に昇る穂の乳白色の花も咲いている。

「ことしは、山の樹が、これまでないぐらいに、たくさん花を咲かせている。ブナ以外は、、、、たくさん咲いている」

「山菜のコゴミや、クルミの木が生えてるところは、ジフクがよいから、畑なんかに起こしたりする」

 と、父が言った。

 ジフクというのは、よく使う言葉で、一般語であれば、土地が肥えていて地味が良い、というもの。
 地福と書くのだろうか?

 視察後は、船鼻峠を両原集落ではなく、大芦集落側に出て、矢ノ原高原経由で柳沢峠から大岐に戻った。道路工事、舗装をはがして、また舗装する、作業が船鼻峠の昭和村側で行われているので、道程を変えてみた。

 矢ノ原の代官清水で水を飲んだ。
 
 「沼には四郎がコイを放した」

 「鴨(カモ)も、よく、降り降り(オリオリ)した」

 半日の旅程で、耳に残った言葉だ。

■昭和村を含む奥会津地方の人びと、特に古い言葉を使う中で、その行為の確定度が高いものは、言葉の繰り返し用法がある。

 水鳥のカモが沼に降りた、、、、というのは、ほんとうに水面には、降りたのだろうが、たまに、であろう。

 しかし、「よく」という言葉とともに、「降り降りした」という「降り」×2回というのは、「ほんとうに、よく、カモが降りたのだ」という行為を強調していて、実際によく見たことであり、ウソが無いことを意味している。

■たとえば、であるが、「この山でよく、ゼンマイを採り採りした」という表現が出てくる。

 あるいは「馬に食べさせる草を、毎朝、ここでよく、刈り刈りした」と。ほんとうに毎日刈っていたんだ、という意味だ。

 「よく、拾い拾いした」
 
 「よく、やりやりした」、、、、ほんとうに、よく、やったものだ、、、、、

 思い出の中での、その作業、行為の繰り返しが日常を支えてきた。その表現方法をよく、耳をかたむけると、その作業が見えてくる。見えないものを見る方法は、まず、他者の言葉に耳をそばだて、そして、想像力とともに、聞き手の人生と人間力が試される。

 多くを聞くと、豊かな人生を受け継ぐことになるが、とても重いものを受け取って身動きできなくなることがある。その時は、また他者にそのことを話すことで、自分の承けを軽くすることができる。言葉の力は相当に重さを持つ。だから、他者に伝えることをしないといけない。その一部がひとつの物語として日記に書かれる。しかし、書かれない物語が多いし、書けないことが多い。

 できれば身近な人、小さな人びと、子供にむけ、自分が承けた物語を、自分の言葉でもって語ってほしい。

 野山は何も語らないが、そこで暮らした人たちの声には豊かな、苦しみが詰まっている。それを知ってもなんの得にもならないが、利益にならないことが社会を継続させる原動力となってきたのは事実だ。

 僕らが自分でつかむことのできる物語は、なぜそれを僕に語ってくれたのか?をいつも考えていたい。そうすることで、その物語を誰に伝えればいいのか、いつ、どのような形で伝えたらよいのかが分かる。時と場所を選ぶことが多いのだ。それは野や山や畑や田の土手で語ることで、染みいることが多い。場所と記憶が地域の基層文化と世代の大切な縁をつなぐ。(菅家博昭)