2012年5月23日水曜日
5月27日(日)15時より例会(西隆寺)
■2012年5月27日(日)午後3時から5時まで、大沼郡三島町西方の西隆寺において、会津学研究会の例会を開催いたします。なお、参加される方は25日までに、会津学研究会事務局の奥会津書房・遠藤由美子さんまで連絡をお願いします。内容は、朝日新聞福島県版連載中の「会津物語」の調査・聞き書き等の件、4月よりはじまった福島県立博物館での木曜講座「老媼茶話」について。その他、懇談。
2012年4月20日金曜日
老翁茶話(1)・福島県立博物館・木曜の広場
■2012年4月19日(木) 会津若松市内の城東町にある福島県立博物館で、新年度の木曜の広場が午後1時30分から講堂で行われた。毎月1回開催される。次回は5月17日(木)。館長の赤坂憲雄さん、学芸員の佐々木長生さん(日本民俗学)と川延安直さん(絵画担当)。
『老媼茶話』(ろうおうさわ)は江戸時代・寛保2年(1742)に会津の浪人・三坂大弥太(だいやた)春編(はるよし)が選んでまとめた奇談集で、幽霊・妖怪・狐・蛇など特に会津のものが多くある。明治時代に柳田国男・田山花袋により続帝国文庫『近世奇談集』に収録され、柳田の『遠野物語』にも大きな影響を与えた。これを1年間を通じて読む。
佐々木さんが準備したテキストA3版6ページを解説。赤坂さんが質問しながら講座は進められた。会津若松市のミニコミ誌『会津嶺(あいづね)』に2009年4月号から25回ほど連載された現代語への翻刻をした川延さんも語った。その挿絵の玉川岩男さんも、会場から絵の意味を語られた。
会津の近世の絵師・遠藤香村の図録編集等のための調査研究のなかで川延氏は香村が残した2種のメモ集に奇談が多く掲載されていること等を知り、会津若松市立・会津図書館で蔵書検索をしたところ奇談集としての『老媼茶話』筆写本を見つけ、それを読み下し、現代語に置き換えた、という。
佐々木さんは昨年の遠野物語を学ぶなかで、柳田らが読んだ『老媼茶話』を含め様々な写本が存在すること、古書(16巻本)を新たに昨年求めて、現在読み進めていることを紹介し、『老媼茶話』について現在まで知りえたことを、近刊の『遠野学』創刊号(遠野文化研究センター刊、所長赤坂氏)に寄稿していることを語られた。『老翁茶話』というものもあることも紹介された。
※次回は5月17日(木)で、猪苗代の山姥(やまんば)や天狗について学ぶ、という。前年度学習した『遠野物語』(本)も持参するよう求めている。同じような事例があることを紹介する、という。(未完、この後に継続執筆)
※茶話、とは茶飲み話。
■地域文化論として、重要な示唆を得る会合であった。特に、赤坂さんは、「物語のある風景を持つ地域は、文化的に豊かで、旅人からも魅力ある土地である」という発言と、「物語があると、風景が立ち上がる」という言及。
かすみ草の苗植えを早朝よりやりおえて、ようやく開催時間に間に合った。聞き応えがあり、人間と記憶、人間と自然・生物の境界など、考えなければならないことが、また多くわき出てきた。講座のなかでふれた『遠藤香村展示図録』(福島県立博物館、2008年、1500円)を求めてきた。
左より川延学芸員、佐々木さん、赤坂さん
■赤坂さん監修の朝日新聞福島県版金曜連載の「会津物語」を、赤坂さんの指名で、渡辺紀子さん27話、菅家が28話を、1話ずつ朗読した。
『老媼茶話』(ろうおうさわ)は江戸時代・寛保2年(1742)に会津の浪人・三坂大弥太(だいやた)春編(はるよし)が選んでまとめた奇談集で、幽霊・妖怪・狐・蛇など特に会津のものが多くある。明治時代に柳田国男・田山花袋により続帝国文庫『近世奇談集』に収録され、柳田の『遠野物語』にも大きな影響を与えた。これを1年間を通じて読む。
佐々木さんが準備したテキストA3版6ページを解説。赤坂さんが質問しながら講座は進められた。会津若松市のミニコミ誌『会津嶺(あいづね)』に2009年4月号から25回ほど連載された現代語への翻刻をした川延さんも語った。その挿絵の玉川岩男さんも、会場から絵の意味を語られた。
会津の近世の絵師・遠藤香村の図録編集等のための調査研究のなかで川延氏は香村が残した2種のメモ集に奇談が多く掲載されていること等を知り、会津若松市立・会津図書館で蔵書検索をしたところ奇談集としての『老媼茶話』筆写本を見つけ、それを読み下し、現代語に置き換えた、という。
佐々木さんは昨年の遠野物語を学ぶなかで、柳田らが読んだ『老媼茶話』を含め様々な写本が存在すること、古書(16巻本)を新たに昨年求めて、現在読み進めていることを紹介し、『老媼茶話』について現在まで知りえたことを、近刊の『遠野学』創刊号(遠野文化研究センター刊、所長赤坂氏)に寄稿していることを語られた。『老翁茶話』というものもあることも紹介された。
※次回は5月17日(木)で、猪苗代の山姥(やまんば)や天狗について学ぶ、という。前年度学習した『遠野物語』(本)も持参するよう求めている。同じような事例があることを紹介する、という。(未完、この後に継続執筆)
※茶話、とは茶飲み話。
■地域文化論として、重要な示唆を得る会合であった。特に、赤坂さんは、「物語のある風景を持つ地域は、文化的に豊かで、旅人からも魅力ある土地である」という発言と、「物語があると、風景が立ち上がる」という言及。
かすみ草の苗植えを早朝よりやりおえて、ようやく開催時間に間に合った。聞き応えがあり、人間と記憶、人間と自然・生物の境界など、考えなければならないことが、また多くわき出てきた。講座のなかでふれた『遠藤香村展示図録』(福島県立博物館、2008年、1500円)を求めてきた。
左より川延学芸員、佐々木さん、赤坂さん
■赤坂さん監修の朝日新聞福島県版金曜連載の「会津物語」を、赤坂さんの指名で、渡辺紀子さん27話、菅家が28話を、1話ずつ朗読した。
2012年4月14日土曜日
小中津川 善六麻
■4月12日(木)福島市、福島県立図書館。
庄司吉之助「幕末に於ける土地集積-商業的農業と金納小作料について-」
『東北経済』3号、1950年11月10日 福島大學東北經濟研究所
資料1)文久二年(1863)十月(伊南郷馬場文書)
金山谷 小中津川 善六麻
九月 多助参り候て 金十両渡し頼み置候、其後、多助荷造に参候節
川島九吾参り候て 買訳に相極め、右買訳の分 五郎口に売る。
一、麻三十一ヶ二つわり 二、四、五、天目十八、天天十三、天十一(品目)
代金 百四十九両一分三百三十九文 外に二分八〆五十二文(作りとりなら立)
三朱他太助二度行 一分一朱同人手間
一、三五、金四十五両二分 一〆二十五束 三十五ヶ代
引合金二両二朱五百十四文利 外に二両二分利足 是は右人ともよき利
〆金 四両二分五利に相成候
資料2)明治二年(1869)南会津伊南、金山谷両郷物産移出量
一、伊南、伊北谷(但し古町、和泉田、黒谷、大塩)
此高 一万八千七百余石 家数二千五百十三戸 人別九千五百五十四人
一、金山谷(但し大石、滝谷、大谷、野尻)
此高 一万千四百九十三石九斗三升一合
家数千九百八十五戸 人別一万九百七十三人
両谷合 二万四千百九十三石九斗三合一升 家数四千三十八戸 人別二万七百二十六人
此所入用見込
米 四千二百俵 坂下、高田、若松より買入米凡二万九千両
塩 三千俵 一人六升積 凡九千両也
木綿其外日用品々 二万五千両
御上納金並本途拝借金 凡三千二百両
合 六万千四百両
資料3)明治三年(1870)十一月 伊北村金山谷生産分局事件留記(含む野尻組)
生産出来金大則
生糸 百箇 凡三万両 一箇三百両積
麻 千五百箇 九百両 一箇六両
新かた出し筏 二百五十拜 凡三千両
紫蕨 五百 千二百五十両
五郎丸御上下地千疋 三千両
伊北晒 二十二箇 千両
友助 千疋 八百両
細布 千疋 七百両
蚊帳地 千五百疋 千二百両
西方紙 千両
青苧 三百箇 一万両
あせとり地其他 七百五十両
小羽板の外木地等山材類 千両
〆六万五千七百両
65700両-61400両=4300両
■下の見る・開くで書籍PDFが読める。32ページ(16ページ)に小中津川村善六麻。文久二年(1862) → 庄司吉之助 幕末に於ける土地集積
■ 南会津の今と昔 → 南会津生活記(2012年)
考える人・山折哲雄氏連載「柳田国男、今いずこ」
■2012年4月13日に書店より求めた本に新潮社の季刊雑誌『考える人』40号(2012年春号、5月4日発行)。
39号より山折哲雄氏が「柳田国男、今いずこ」を連載している。第2回目の今号は「『山の人生』に描かれた偉大なる人間苦」で、読みごたえのある論考である。
『山の人生』は『遠野物語』の注釈・頭注・脚注である、、、という指摘。本居宣長の古事記の注釈に通じる。
究明できない日本人観、司馬遼太郎の高田屋嘉兵衛の生涯を追った『菜の花の沖』を事例に引いている。
山の民・川の民
■2012年4月13日(金)曇り
昨日は隣集落の琵琶首で葬儀があった。3月下旬に続き2件目。大岐は行き来(通婚圏)があるため見舞いに行った人も多い。
今日の朝日新聞福島県版に掲載された会津物語28は旧・南郷村の故・月田茂さん(明治45年生まれ)に1986年3月17日に茂さんの自宅で聞いた話。南郷村史の縄文時代の遺物調査時のことで、月田農園の開拓で縄文早期の土器が出土していたので訪問した。茂さんは、禮次郎さんの父親。26年前に聞いた話。pdf → 行人岩と経塚
■2007年に赤坂憲雄氏の文庫版解説が巻末に掲載されている ちくま学芸文庫、井上鋭夫『山の民・川の民 日本中世の生活と信仰』は1981年に平凡社選書として刊行された。
この本への批判は、『季刊 東北学』第5号(柏書房、2005年)で、谷川健一「日本民間信仰史研究序説2」で「山の民・川の民 井上鋭夫批判を中心に」(231から251ページ)。
2012年4月3日火曜日
ACF福島学シリーズ1「地域を知る 地域に学ぶ 福島学総論」
地域を調べる 地域に学ぶ
■福島大学 3月15日発刊。福島学ブックレットが届いた。
ACF福島学シリーズ1「地域を知る 地域に学ぶ 福島学総論」(アカデミア・コンソーシアムふくしま)
清水修二、上遠野和村、西崎伸子、初沢敏生、柴崎直明、吉村仁作、遠藤由美子(奥会津書房)、夏井芳徳(いわき地域学会)、渡辺友彦(白河学研究会)、星一彰(福島県自然保護協会)、平出美穂子(郡山女子大)、菅野俊之(福島学院大学)、高橋充(福島県立博物館)、菅家博昭(地域の調べ方、85ページから90ページに書きました)。
ACFシリーズは1~4まで発刊。2「福島の水」、3「社会変革に生きた女性たち 三瓶孝子と丹野セツ」、4「いわき学をつくる」
地域に残された記録
■最近、会津藩の梁田家御用公用日記を読んで、大沼郡(南山御蔵入領)での芝居への見物禁止のことを読み、思い出した会津高田の文献を探した。25年前に読んだものでも、思い出せるものなのだと思った。
昭和62年(1987)10月25日発行、週刊朝日百科 日本の歴史80(通巻608号) 近世Ⅱ3 祭りと休み日・若者組と隠居
「若者たちの秩序 村芝居と若者組」国立公文書館員 氏家幹人
会津藩領の大沼郡高田村(現・会津美里町)の田中重好は、天保5年(1834)から万延元年(1860)にかけて暦の余白に極小のカタカナで、日記を書き続けた。
天野家所蔵・田中文庫史料
■17世紀から村に様々な神様が勧請されるが、それは村の新たな休み日(祭礼)を生み出していく、という視点。村休み日は村(集落)の春の総会で決められる。
■2009年3月に発刊された『和光大学現代人間学紀要 第2号』に研究ノート「『継声館日記』にみる近世在郷町の識字状況」を大田素子が書いている。会津高田の田中家の史料のうち、田中慶名の文化11年起の日記の分析である。田中重好、田中種富、田中重好らの記録の経緯も紹介している。→PDFファイル
■会津高田郷土史研究会が設立40周年の記念出版の2010年3月に発刊した『櫻農栞 市之巻・駅之巻』も田中文庫「高田郷頭田中家文庫」からのものです。
■2009年3月に発刊された『和光大学現代人間学紀要 第2号』に研究ノート「『継声館日記』にみる近世在郷町の識字状況」を大田素子が書いている。会津高田の田中家の史料のうち、田中慶名の文化11年起の日記の分析である。田中重好、田中種富、田中重好らの記録の経緯も紹介している。→PDFファイル
■会津高田郷土史研究会が設立40周年の記念出版の2010年3月に発刊した『櫻農栞 市之巻・駅之巻』も田中文庫「高田郷頭田中家文庫」からのものです。
2012年3月30日金曜日
昭和村松山の綱木(つなぎ)
■2012年3月30日(金)お話をうかがった時に、実際に体験された方の氏名も生年も明かだが子孫への配慮から体験した人の氏名は掲載せず編集。3月2日(金)の25話gunzou-uguisuも同じで実名でお話をうかがっているが記事には掲載せず編集。 →掲載26話PDF
2012年3月29日木曜日
4月1日(日)会津学研究会の定例会開催
・日 時:2012年4月1日(日)14:00より
・テーマ:
3月3日に福島県立博物館で行われた
「第3回東北復興シンポジウム・フクシマとともに~海 山の間に生きる」聴講報告(菅家博昭)
朝日新聞福島県版連載「会津物語」の聞き書きの進め方(遠藤由美子)
その他
・場所:大沼郡三島町西方 西隆寺
車は門前の駐車場に。どなたでも参加できます。
■2012年4月2日(月)
昨日は、午後から吹雪となりました。
会津学研究会の例会が昨日午後に三島町西方の西隆寺で行われ、7名の参加でした。
■会津学研究会で「おかめまつ」のことを聞いた。洪水で束原から福原に流れ着いた松の木。
→ コメロン
2012年3月28日水曜日
昭和村公民館主催:古文書『公私摘要』を読む(1)
平成23年度 昭和村公民館:生涯学習講座・地元学のすすめ
古文書『公私摘要 戊辰中編』を読む 第1回
2012年3月27日(火)晴れ、13時30分から15時42分昭和村公民館和室 参加者26名
記録:文責 菅家博昭
主催者昭和村公民館あいさつ:皆さん、こんにちは。今日はほんとうに大勢の皆さんにおいでいただきありがとうございました。
今日は生涯学習講座の地元学のすすめ「古文書:『公私摘要』を読む」、古文書の講座をご案内いたしました。内容につきましては、『公私摘要』と申しまして、大芦出身の星甚恵先生が会津史学会の『歴史春秋』第57号(2003年)に書かれた内容をレジュメのほうに記載紹介いたしました(星甚恵「栗城義綱 公私摘要初編について」)。
嘉永五年(1852)から、明治四十二年(1909)の七月まで、現在の昭和村にあたる地域内の動きをまとめたものです。全部で六冊あります。著者は当時の小中津川村の名主の栗城義綱(浜三)さんで、現在、小中津川折橋に子孫がお住まいです。
『公私摘要』は各種の論文に引用、紹介されていますが、昭和村で本書を学ぶ会を開催するのは今日がはじめてです。本日は6冊あるなかの2冊目、戊辰中編を学びます。
昨年は『昭和村の歴史2 昭和村の歩み』(昭和村発行、2011年)を編纂、発刊しました。昭和四十八年に発刊した『昭和村の歴史』(昭和村役場、1973年)以後にあたる部分を、各集落で聞き取りなどを行いまとめました。そのなかで、もう少し地域の歴史、村の歴史に目を向けながら、地域を深く理解することが必要ではないか?と感じていました。そうしたことから本日の勉強会を企画いたしました。
今回は会津戊辰の役の時代が大きく動く時に、昭和村地域ではどのような動きをしていたのかを『公私摘要』から学びます。
本日の講師、三島町の桧原にお住まいの海老名俊雄先生を紹介します。学校の教員を永く務められ、現在会津史学会の顧問、同会の古文書講座の講師をされています。海老名先生は「『公私摘要』は、ほんとうに地方の史料としては一級品である」と申され今回の講師を引き受けていただきました。
また海老名先生は、星甚恵先生の師匠にもあたります。なお本日は参加者が多く、準備した資料が不足しており、いま作成していますので後に入室された方の分はすぐお渡しいたします。では海老名先生お願いいたします。
海老名俊雄先生:
皆さん、こんにちは。海老名俊雄と申します。
私が『公私摘要』に出会ったのは会津若松市です。昭和四十八年に『昭和村の歴史』が発行されました。それの編集著作に関係した歴史の先生方が実は『公私摘要』を昭和村での史料調査のなかで発見して、それを複写されたのを持っておられました。それで、星甚恵先生は大塚実さんから借りて読まれました。もう一人、後に会津若松市教育長になられた酒井淳さんですが、『昭和村の歴史』編纂にもかかわっておられ、『公私摘要』の写しを持っておられました。これをテキストにして会津史学会の古文書講座で勉強したらどうか?ということになり、私が担当して勉強を進めました。なかなか、中味が地方の単なる日記ではなくて、歴史的な考察とか史料になるということがわかりました。栗城義綱さんは、いろいろ考えて『公私摘要』を書かれており、立派な本で、これはただ古文書学習のためのテキストとして読むだけではなく、内容を研究して論文として残しておこうと、思いまして、私たちは取り組みました。
会津史学会の『歴史春秋』という雑誌に書いたものを皆さんの手許に本日資料としてお渡ししています。
「会津戊辰戦争と一山村の動向」(正・続)として二回の連載として、『公私摘要』からわかることを『歴史春秋』(1997年第四十五号、1998年第四十八号)に私が書いたわけです。
『公私摘要』を読んで、最初に論文に引用された学者は福島大学の庄司吉之助先生です。本日、後でお話する「ヤーヤー一揆」のところを取り上げて、書かれ論文を発表され学会でもたいへん話題になりました(庄司吉之助『世直し一揆の研究』1970年)。
しかし実際に原本である『公私摘要』を読んでみると庄司先生の書かれたものとに違いがありました。それでこれについても学会で論争になりました。原本がどうなっているかが重要です。それは先に言っておきますと、庄司先生は、「明治元年の十月三日、西山の五畳敷でヤーヤー一揆がはじまり、二千人が集まった」というふうに書かれています。しかし『公私摘要』原本を読むと二十人となっていました。いまは二十人というのが正しいということが確定しています(大塚実「会津に於ける世直し騒動発生再考」『歴史春秋』第43号、1996年)。そういうことがあったため、私が本を書いた次の次の年に明治維新史学会が会津若松市内で開催され、『公私摘要』を読むということで発表してもらいたいと依頼があり、県立博物館で発表しました。学会の貴重な史料になったと評価されました。
昭和四十八年に発刊された『昭和村の歴史』には『公私摘要』はほんの少ししか紹介されていません。それは限られたページ数の関係とか当時の事情によるのでしょう。
しかし、今回、『公私摘要』が地元の皆さんで読み解かれていく。そうしたことができたらほんとうにうれしい、ということで星甚恵先生さん等と話しをしたのですが、なかなかそういう機会がありませんでした。今回ここで皆さんと一緒に栗城義綱さんの書かれた貴重な記録を読んでいくということをたいへんうれしく思いましてこころよく引き受けました。いろいろあるかと思います。「字を読む」ということになりますので、なかなか簡単ではないかもしれませんが、ひとつよろしくお願いしたいと思います。
私としては、戊辰の戦いと新政の推移を『公私摘要』に見るということで話しをしていきます。
まず、このテキストに従って見ていきます。
『公私摘要』二冊目 「戊辰」1ページ目(A3版21枚、A4版42ページ分量)
八十里口(はちじゆうりくち)、御(お)繰込(くりこみ)相成(あいなり)候(そうろう)、諸藩(しよはん)之(の)覚(おぼえ)
先(さき) 繰込(くりこみ) 上通(うわどおり)
松本
御親兵 長州
薩州 之由(のよし) 申伝候(もうしつたえそうろう)
加州
松代
尾州
後(あと)
上田
小濱
飯田
飯山
須坂
水戸
高崎
高遠
富山
高田 新発田 勢少々 以上
------
以下、資料について、先生が翻刻・音読、解説されていく。
■海老名俊雄先生は2010年に、三島町のいまここネットでも「参宮道中記」の講演されています。
2012年3月11日日曜日
会津藩士のまとめた『会津鑑』の美女鬼峠
■写真の絵図は美女鬼(びじょき)、美女帰(びんじょうげ)とも。
寛政元年(1789)8月24日、会津藩士の高嶺覚太夫慶忠は故事を100巻本として『会津鑑』をまとめ藩に献上するが、3割は藩の機密に関するため公表を許されず。
寛文2年(1662)に『会津四家合考』、寛文12年(1672)『会津旧事雑考』をはとめた向井新兵衛吉重は藩主保科正之の命によりまとめている。
→会津古塁記
寛政元年(1789)8月24日、会津藩士の高嶺覚太夫慶忠は故事を100巻本として『会津鑑』をまとめ藩に献上するが、3割は藩の機密に関するため公表を許されず。
寛文2年(1662)に『会津四家合考』、寛文12年(1672)『会津旧事雑考』をはとめた向井新兵衛吉重は藩主保科正之の命によりまとめている。
→会津古塁記
2012年2月23日木曜日
3月3日、東北復興シンポジウム 会津若松市内
■3月3日(土)午後1時~、東北復興シンポジウム 海と山の間に生きる →福島県立博物館(会津若松市)
以下主催者ウェブサイトより転載します。
東北復興シンポジウム 「フクシマ」と共に ~海やまのあいだに生きる~
講 師
山折哲雄(宗教学者)、川勝平太(静岡県知事)、安田喜憲(国際日本文化研究センター教授)、山田恭暉(福島原発行動隊理事長)、赤坂憲雄(当館館長)
日時・プログラム
3月3日(土) 13:00~16:00
12:30 開場
13:00 開会挨拶 仁連孝昭(NPO法人アスクネイチャー・ジャパン理事長)
13:10 基調講演 「フクシマ」と共に 山折哲雄
13:30 福島原発行動隊の道 山田恭暉
14:20 休憩
14:30 パネルディスカッション 「フクシマ」と共に
コーディネーター 赤坂憲雄
パネリスト 山折哲雄、山田恭暉、川勝平太、安田喜憲
15:50 閉会挨拶 河本英典(NPO法人アスクネイチャー・ジャパン副理事長)
場 所 会津若松市福島県立博物館 講堂
定 員 200名(先着順)
申込み方法 当館受付カウンターか電話(0242-28-6000)・ファックス(0242-28-5986)で、お名前・ご所属・お電話番号をお知らせください。1月11日(水)より募集を開始します。
参加費 無料
内 容
3.11の大震災を機に、時代は大きく変わろうとしています。何よりも東北の復興が焦眉の急であることはいうまでもありません。そしてその復興の道筋は地球と世界の動向を見極め、その上でこの国の変革の道を目指すものでなければならないと考えます。
こうした観点から、「自然に学ぶ国作り」を志すNPO法人「アスクネイチャー・ジャパン」の立案により、東北復興への願いをこめて開催するシンポジウムです。
主 催 NPO法人アスクネイチャー・ジャパン、福島県立博物館
以下主催者ウェブサイトより転載します。
東北復興シンポジウム 「フクシマ」と共に ~海やまのあいだに生きる~
講 師
山折哲雄(宗教学者)、川勝平太(静岡県知事)、安田喜憲(国際日本文化研究センター教授)、山田恭暉(福島原発行動隊理事長)、赤坂憲雄(当館館長)
日時・プログラム
3月3日(土) 13:00~16:00
12:30 開場
13:00 開会挨拶 仁連孝昭(NPO法人アスクネイチャー・ジャパン理事長)
13:10 基調講演 「フクシマ」と共に 山折哲雄
13:30 福島原発行動隊の道 山田恭暉
14:20 休憩
14:30 パネルディスカッション 「フクシマ」と共に
コーディネーター 赤坂憲雄
パネリスト 山折哲雄、山田恭暉、川勝平太、安田喜憲
15:50 閉会挨拶 河本英典(NPO法人アスクネイチャー・ジャパン副理事長)
場 所 会津若松市福島県立博物館 講堂
定 員 200名(先着順)
申込み方法 当館受付カウンターか電話(0242-28-6000)・ファックス(0242-28-5986)で、お名前・ご所属・お電話番号をお知らせください。1月11日(水)より募集を開始します。
参加費 無料
内 容
3.11の大震災を機に、時代は大きく変わろうとしています。何よりも東北の復興が焦眉の急であることはいうまでもありません。そしてその復興の道筋は地球と世界の動向を見極め、その上でこの国の変革の道を目指すものでなければならないと考えます。
こうした観点から、「自然に学ぶ国作り」を志すNPO法人「アスクネイチャー・ジャパン」の立案により、東北復興への願いをこめて開催するシンポジウムです。
主 催 NPO法人アスクネイチャー・ジャパン、福島県立博物館
昭和村の中世城館跡
■2001年7月に刊行された『中世城郭研究 第15号』(中世城郭研究会、東京都渋谷区桜丘)の240から248ページにかけ、松岡進「牛首城跡・丸山城跡(福島県昭和村)について」が掲載されている。
松岡進氏は昭和村野尻の小林弥吉氏らの案内により、2000年5月21日、22日に野尻でこれら山城の現地踏査をしている。過去に設けられたものの、現遺構の構築時期は伊達正宗が会津侵攻した天正17年(1589)である可能性が高い、としている。
■『福島県の中世城館跡』(福島県教育委員会編集、1988年)は454ページの大冊。昭和村については12の城館跡が登録されており(432ページ)、322ページと336-337の地図に位置が掲載されている。調査者は故・小柴吉男氏(三島町文化財専門員)。
野尻:牛首城
下中津川:河原田舘、下中津川舘、堂ノ沢舘、御伊勢山舘
小中津川:ゴーシ沢舘
佐倉:佐倉舘
大芦:弁天山舘、愛宕山舘、天空山舘
小野川:小野川舘
※322ページの地図の68005御伊勢山舘は位置に誤りがあり、もう一つ南方の尾根突端である。337ページの68012小野川舘の位置も疑問が残る。
■『昭和村の歴史』(昭和村、1973年)の239ページには「城及び塁館柵の跡」が15ヶ所掲載されている(大芦の五十嵐朝良による)。
『福島県の城館跡』に掲載されていないものとして、
野尻琴琵羅(松岡の丸山城比定地)
山内氏代々の居館の跡(松岡論文でも掲載)
小中津川:愛宕山の柵
■『昭和村の歴史』では、下中津川の柵(本名掃部介住す)、お伊勢山の柵(渡部氏築く)、ゴーシ沢の柵(柳沢主計築く)、佐倉の柵(佐倉倉人築く)、弁天山の柵(中見沢星氏築く)、天空山の柵(赤田五十嵐氏築く)とある。
■飯村均『中世奥羽のムラとマチ 考古学が描く列島史』(東京大学出版会、2009年)の194ページ「山城と聖地」で、山城以前はどういう「場」で、山城としての機能を停止した後どういう「場」になったかを問い直すとき、初めて山城のできる「場」が鮮明となった、、、
昭和村の場合、山城跡地にはたいがい御愛宕様が祀られる。
2012年2月19日日曜日
近世の奥会津の木地挽き
■平成18年(2006)に滋賀県東近江市から刊行された『永源寺町史 通史編』は1328ページある。
第四章「近世の展開と村々」の第七節「蛭谷・君ヶ畑の木地師支配」は生嶋輝美による執筆で、現在公刊されている木地屋・木地挽きに関する文献のなかでは珠玉の論文となっている。(593ページから658ページまで)
一 木地師と小椋谷の惟喬親王伝説
木地師と蛭谷・君ヶ畑
轆轤工から轆轤師へ
小椋木地師の痕跡
小椋谷の惟喬親王伝説
二 木地師支配所の形成
木地師支配の由来
大岩氏の台頭と京都
木地師の保護
支配への反発
権威を求めて
三 筒井公文書と高松御所の全盛
文化四年幕府裁許
合同廻国とその破綻
支配の強化とその限界
身近になる水上
四 氏子かり 廻国する村人
氏子かりの手順
氏子かりの旅
氏子かりに出た人々
氏子かりの収支
五 明治維新と支配所の終焉
明治維新の激震
木地師の戸籍問題
惟喬親王千年忌と最後の氏子かり
「木地師のふるさと」として
■平成13年(2001)発行の『永源寺町史 木地師編(上巻)・(下巻)』は合併前の永源寺町の発刊の資料編である。上巻は蛭谷氏子駈帳、下巻は君ヶ畑氏子狩帳・木地師関係文書・大岩助左衛門日記、解説である。
これは近世の会津各地(昭和村内を含む)の廻国先のことが書かれている。なお、下郷町の金井晃、昭和村の馬場勇伍が調査協力している。
過去には、杉本壽(平成9年没)、橋本鉄男(平成8年没)による氏子狩帳が翻刻されている。解説は渡邊守順。
現在『永源寺町史』全4巻は18000円程度で古書店で求めることができる。
■平成13年(2001)に奥会津地方歴史民俗資料館編集、福島県田島町教育委員会が発行した『木地語り 会津田島のとびの足跡』は下郷町在住の金井晃さんがまとめたもので、奥会津・南会津(いわゆる南山御蔵入)の木地挽きについて詳細に調査されている。現昭和村域の近世の木地屋遺跡の調査(墓石等)、文献も多数掲載されている。
■平成14年(2002)に昭和村文化財保護審議会委員長の馬場勇伍編著『木地師の跡を尋ねて 山中の墓に手を合わせ乍ら』(昭和村教育委員会発行)は、村内12ヶ所の木地屋集落跡の墓地・墓石調査を行ったものである。
永原慶二『苧麻(ちょま)・絹・木綿の社会史』(吉川弘文館、2004年)
■永原慶二さんの遺作となった『苧麻(ちょま)・絹・木綿の社会史』(吉川弘文館、2004年)の「Ⅳ 苧麻から木綿へ」には副題として「ー改訂増補『新・木綿以前のこと』ー」と記載されている。カラムシに関わる人には必読すべき基本文献である。355ページ、索引あり、3200円。
筆者は1990年に中公新書から『新・木綿以前のこと 苧麻から木綿へ』を刊行している。しかし不安の残る使用史料の若干を削除し、他方新しく見出した史料を挿入・使用し、本書では大きく改めている。
改訂の核心は二つ。中公新書では、苧麻をもっぱら中世の民衆衣料とし、「苧麻から木綿へ」という単線的とらえ方の上に、木綿登場の歴史的意義を強調したことの問題である。しかし実際に苧麻は古代・中世を通じて支配層の求める高級苧布(白布・上布)と民衆的衣料としての苧麻布は、役割を異にしながら併存した点を重視。中公新書では、このような点についての明確な認識が十分でなかったため、論の展開が単純化されていた。
また中公新書では、木綿は江戸時代中期以降という常識的理解を是正し、15世紀末から16世紀の導入・展開を強調したが、その際に使用した史料の二、三についてのその解釈には再検討すべき問題があり、木綿生産の労働・技術条件の軽易さを、越後上布の高度に技巧化された生産・労働条件の困難さとの対比が、必ずしも適切でなかった(172、173ページ)。
■本書では203ページから福島県大沼郡昭和村の苧麻(カラムシ)栽培について言及がある。また204ページには昭和村で撮影された写真が掲載されている。
写真の引用された著作は平凡社『別冊太陽』の1984年「日本の布 原始布探訪」と2004年「日本の自然布」である。撮影は藤森武。
中公新書にもこれら写真は引用されている。ただ中公新書の37ページの掲載写真のキャプションは誤りであり、写真を見る限り植物葉から苧麻畑であることがわかる。
筆者は越後(新潟県)は調査されているが、昭和村に来たような形跡はうかがえない。会津若松の佐瀬与次右衛門『会津農書』(1684年)の引用は各所にある。
尾関清子『縄文の衣 日本最古の布を復元』(学生社、1996年)
■尾関清子『縄文の衣 日本最古の布を復元』(学生社、1996年)。編布(アンギン)、これもカラムシに関わる人々は必ず読まなければならない書籍である。246ページ、2200円。遺跡出土の繊維分析は布目順郎氏(故人)の著作が多く、それらにも昭和村のカラムシ類は紹介されている。またいわき市出身の名古屋大学の渡辺誠氏の研究もある。生活文化史専攻の尾関氏はそれらの成果を踏まえて布の復元とともに道具の復元を行っている。
本書には昭和村の隣村の福島県大沼郡三島町の荒屋敷遺跡(縄文晩期~弥生)で出土した繊維製品と、その解析、復元が試みられている。縄文晩期の編布が出土しているが、その他に用途不明の作成物があり、尾関氏はケタであろうとし「荒屋敷編具」(84ページ)を復元している。
こうした編具、編布の復元のなかで96ページで紹介されているように、
カラムシの生産地である福島県大沼郡昭和村大芦の五十嵐スイ子さん(2011年没)に遺跡から出土した編布と同じ諸撚り(左)の太さ0.6~1mmまでの何種類もの糸を依頼している。スイ子さんは「たいへん難しかった」と言われている。232ページの表5にも掲載。
■221ページには昭和村のカラムシ会館、その菅家長平館長という表現が出て来るが、誤り。当時、菅家長平氏は昭和村公民館長であり、カラムシ会館の館長では無い。
■民族文化映像研究所が1988年に製作した『からむしと麻』には福島県大沼郡昭和村大芦の五十嵐スイ子さん・初喜さん夫妻がカラムシ生産を、同村大岐の菅家トシ・清一・ミヨ子がアサについての生業を姫田忠義監督が記録している。
■現在、福島県昭和村佐倉に村営の「からむし工芸博物館」がある。
2012年2月3日金曜日
2012年1月31日火曜日
ススキは野焼きすると株は小型化し密生する
■日経新聞 2012年1月29日 社会人142話 伝えゆく志4 「茅葺き 地域で支える」 8段記事、写真有り。記事最終段を要約。
岩手県金ヶ崎町のススキ島立て500。戸田忠祐さん(83)。7年前に茅場再生事業がはじまる。茅(かや)は白川郷、五箇山などに出荷する。
屋根材に適した茅は草丈が約2m、茎の太さが5ミリ。成長しすぎると商品価値が下がる。
春先にススキ(茅)の地下茎にストレスを与えると、株は小型化し密生する性質がある。
草地は野焼きなどで人が手を加えないと徐々に衰退し、東北ではやがて、風土に適した落葉広葉樹林に変わる。
藩政時代、金ヶ崎町周辺の草地には小動物が多く、鷹狩りの場となっていた。「よみがえった茅場が、多様な生物を育む揺りかごになってくれれば」。茅葺き文化の継承は、豊かな生態系を次代に残す試みでもある(編集委員 和歌山章彦)。
■火入れの役割が書かれている。奥会津・昭和村の「からむし焼き」の効果もこのように細くしなやかな茎(シュート)を発芽させているのではないか?
藤田定興氏の二著作を読む
■この1週間、降雪のなか、藤田定興氏の著作を読んだ。古書店から購入(日本の古本屋)。
『寺社組織の統制と展開』(名著出版、1992年、定価8900円、417ページ、600部発行)
『近世修験道の地域的展開』(岩田書院、1996年、定価11330円、481ページ、600部発行) 日本宗教民俗学叢書3
■『近世修験道の地域的展開』について以下紹介する。
148ページ。天明2年(1782)頃の『寺院本末神社惣録』(龍宝寺文書)に会津における本山派修験の75が掲載されている。そのなかの56「身分・谷老僧として一道院・野尻・御蔵入、南岳院末」とある。
159ページには、明和4年(1767)3月付の大光院(大沼郡下中津川村)の別当職補任状が掲載されている。大本山聖護院から出された文書である。
被補任別当識状
以大光院永被補陸奥国会津大沼郡下中津川村 愛宕権現社別当識訖、守旧例専社役世々不可違失之旨、依 三山検校宮御気色執達如件
法橋 源寅
法眼 誉香
法印 源泰
明和四年三月十一日
陸奥国会津大沼郡下中津河村 大光院元誉
■大抵の修験が近隣の社祠の別当となっていたが、大本山聖護院から補任され認められた別当職、会津地方の本山南岳院から認められた別当職がある。さらに各修験の霞内の社祠・堂宇、あるいは自らが勧請主となって開かれた社寺等、許状の形をとらない暗黙に承認された別当権があった。
■162ページ。御蔵入修験識格一覧は、文正6年?、文政10年、弘化3年、4年の資料で上通、中通、下通に分けた一覧があり、現在の昭和村域では、8院記載されている。
村名・寺院名・識格等・資料1・2・3・4
喰丸村 法正院 - 下 下 - -
野尻村 一動院 格地 上 上 上 -
下中津川村 大正院 - - - 下 -
下中津川村 喜法院 - 下 - - -
下中津川村 大光院 別当 上 上 上 -
小中津川村 大法院 - 下 下 - -
小中津川村 会光院 老僧 上 上 上 -
中向村 大聖院 - 下 下 下 -
■ 『田島町史 第1巻』では、四院が記載されており、喰丸村は南蔵院となっており上記とは異なるが、それ以外は、小中津川・大法院、下中津川 喜法院、大光院が掲載されている。上記資料では下中津川大正院が弘化4年資料のみの掲載のようである。
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■『寺社組織の統制と展開』では、会津藩の保科正之の神社の整理と改定について記載されている。
また、明治期になり神仏分離政策で、修験者達の多くは神職に転じ、宗派と組織が消滅する過程を福島県内、会津地方で追っている。
社祠の整理には野外の碑塔の神仏分離と整理が含まれていることに著者は留意するよう言及している。特に明治9年12月15日に出された教部省達第37号。
285ページ。このような山野・路傍に散在していた神祠・仏堂・碑塔の合併・移転について蛇足を加えたいことは、この合併・移転は、人々の身近にあって、しかもそこに建てられるべくして建立され、その地その場所にあることに存在意義のあった信仰対象物が移動させられたということであり、しかも遠隔地に移された場合も多かったことである。そしてそれは、かつてこれらの散在していた村内の信仰的環境が大きく変化させられたことでもあったし、このような村内環境の変化が、山野・路傍に散在していた神祠・仏堂・碑塔類を中心として行われてきた民俗信仰へも、当然大きな影響を与えたと思われることである。
2012年1月26日木曜日
ホウインサマ(法印様)、在家の修験・山伏
■昭和60年(1985)に田島町教育委員会が刊行した『田島町史 第一巻』。
629ページから649までの「第四節 田島町の修験」は藤田定興氏が執筆している。
中世に伊勢・熊野などへ人々を引導した修験。熊野の御師は御祈祷師だが、一方で参詣の信者の宿泊業も兼ねた。地方の修験先達は、各自の旦那をひきいて、この御師の坊舎に宿泊するが、その場合、各先達には宿とする御師の坊舎が定まっており、先達や旦那はこの御師に布施料を払う。現在の南会津郡、南山は那智の御師廊之坊の持ち分であった。
修験には本山派(天台宗)、当山派(真言系)で、近世初期御蔵入領内南岳院配下本山派修験一覧として43の修験が紹介されている。そのなかに現在の昭和村分として4ある。
喰丸 南蔵院
小中津川 大法院
下中津川 喜法院
下中津川 大光院
■平成22年(2010)に只見町が発刊した『只見とっておきの話』の295ページから栃木県の高校教師の久野俊彦氏が「只見町の法印文書」で楢戸龍蔵院について紹介している。
15年かかった只見町史(全11冊)のなかで、久野氏は法印の活動実態を調査している。その成果の一部を『広報ただみ』の471号(平成21年8月号)から476号(平成22年1月号)に掲載したものが本誌所収となっている。
近世、いわゆる江戸時代の只見町など奥会津の法印と呼ばれる在家の修験者が、他地域との文化運搬役になっていることを、わかりやすく紹介している。
■村山修一『山伏の歴史』(塙書房)は、1970年に初版が出ているが、2005年に初版第11刷が出ており求めやすい。3300円。全国的な歴史的動向について書いている。
佐倉 曹洞宗 観音寺
■2011年10月18日に大芦家主催のスタディツアーが行われた。昭和村のなかの集落をひとつずつ歩く会で、この日はからむし織りの里がある佐倉(さぐら)集落。
中世後期の野尻山内氏の城館跡(舘裏山)がある。
そして近世の観音寺(下中津川正法寺の末寺)。これは御蔵入三十三観音七番札所となっている。昭和村域ではここだけである。
下中津川正法寺については小島一男『会津古事散歩』(歴史春秋社、2002年、1300円)の103~105ページに記載があるが観音寺については書いていない。
藤田定興『神と仏の信仰』(歴史春秋社、2011年、1200円)では、161~163ページに御蔵入三十三観音。
小説仕立てで紹介したものに、昭和村下中津川の縁故者の舟木正義『奥会津三十三所観音紀行』(歴史春秋社、1995年、1165円)。40~47ページ。ここに文化九年(1812)に大芦村の五十嵐宅右エ門が寄進した厨子にまつわる3721日の願掛けのことである(慈眼山)。
慈眼山、示現山とも。
■会津藩の宗教政策については『会津若松市史 第5巻』(2001年)の73ページから。修験道、会津三十三観音札所巡礼など。
■御蔵入三十三観音の佐倉観音寺や昭和村、駒止、奥会津地域を舞台とした小説に、佐伯泰英『夏目影二郎 始末旅4 妖怪狩り』(光文社文庫、2001)がある。大芦には国定忠治が訪問した家がある。
相場英雄『みちのく麺食い記者 宮沢賢一郎 奥会津三泣き因習の殺意』(小学館文庫、2009)は会津若松、南会津、昭和村喰丸に住む織姫が主人公。
小中津川 気多神社
■森浩一編『古代日本海文化の源流と発達』(大和書房、1985年)の85-102ページ、金沢市生まれで国立石川工業高等専門学校教授の朝香年木さんが「信仰からみた日本海文化」で気多神社について講演している。
■『季刊 東北学 第19号』(柏書房、2009年)で、明治大学教授石川日出志「北陸・南東北の変動期 弥生集落の成立状況」。北陸から会津への文化移入ルートが明らかにされている。
■信濃史学会『信濃458号』(1976年10月)から460号(12月号)までの3回にわけて、同会会長の一志茂樹が「大和朝廷による古代越地方開発の新局面を捜し得て 東日本に設置された越後城存在の意義を匡す」で小中津川の気多神社を『新編会津風土記』からの引用で論述している。
これは昭和51年(1976)7月25日に新潟県十日町市民会館で「妻有の文化を守る会」主催の講演会で故一志茂樹氏が講演した内容に加筆したものである。長野県松本市在住。
■上記一志茂樹氏の気多神社については、会津にふたつある気多神社のひとつ気多宮がある会津坂下町の古川利意氏が福島県耶麻郡の『山都町史 第1巻』(1989年)383ページで記述している。
■上記一志茂樹氏の気多神社については、会津にふたつある気多神社のひとつ気多宮がある会津坂下町の古川利意氏が福島県耶麻郡の『山都町史 第1巻』(1989年)383ページで記述している。
中津川喰丸村検地帳、大芦村検地帳(1594年)
天正検地を福島県に現在する.田島郷の検地帳(写本)でみると、荒田、荒畠の比率は、全面積に対して、荒田が1.0%荒畠が2.4%、合計で3.4%と比較的低率である.これを文禄検地と比較すると、会津の大沼郡喰丸村文禄3年の検地帳では田の荒が7.7%、畠の荒が22.8%、合計で30.5%となっており、9倍弱の比率の増加がみられる。しかも文禄検地の荒には3年荒、4年荒などの記載がある。このことは次のことを想定させる。即ち年数を限った「荒」とは、畠の場合は焼畑の休耕地が多く含まれている可能性が高いこと、水田の「荒」は水の配分をめぐる定期的「荒」である可能性があること。これらの「荒」は天正検地においては、検地帳から除外されていたこと。文禄検地にいたって、これら不安定な荒地も検地帳に登録したこと。等である。蒲生領においては、文禄検地の結果18万,5500石(25.2%)の出目があったが、これは領主権力と在地農民の抵抗の力関係の変化によって、不安定な荒地を登録できるようになった結果と考えられる。
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■『田島町史』第1巻、第5巻に現在の昭和村の喰丸から付近一帯の中津川、大芦村の検地帳の内容が読み下し文で掲載されている。
■昭和56年(1981)に田島町から発刊された『田島町史 第5巻』643ページから663ページ、文禄三年大沼郡中津川喰丸検地帳(昭和村喰丸 山内久雄所蔵)の全文が掲載されている。また689ページ694ページに文禄三年大沼郡大芦村検地帳(大芦 五十嵐朝良所蔵)も掲載されている。
前者には付箋が付いており、「文禄三年より嘉永五年迄弐百六拾六年相成申候」、また『福島県史 10(下)近世資料』の一部脱漏を補った、と田島町史編纂委員会により記載がある。
文禄三年(1594年)の前者検地帳には、家数45軒の掲載がある。また田畑所在地が書いてある。そこに小中津川が出て来る。また「うわた」「をりはし」「やなきかさい」「ぶんどうさうり」「ししふしさわ」などは現在の小中津川所在小字である。また両原となる「はら」「でとあかくら」も見え、下中津川の「あくと」「まち」、小野川の「おの川」が見える。また喰丸の小字「ひかげ」「下向」、佐倉の「上ノ山」などが見える。現在の両原から喰丸、佐倉、小中津川、下中津川にあたる。小野川は土地所有者に付記しているだけなので、小野川村と、野尻から松山まで、大芦と現在昭和村域で4地域に分けて検地が行われたと思われる。
この検地帳に小中津川という地名は出て来るが、下中津川は出てこない。
■この文禄三年の大芦村検地帳については、昭和60年(1985)の『田島町史 第1巻』328ページから詳細を表を作成し検討している。町史編纂室室長・室井康弘氏による。
焼畑の環境学(からむし焼きも、、、)
■地球研ライブラリー17『焼畑の環境学 いま焼畑とは』が京都の思文閣出版から2011年10月17日に刊行された。監修は佐藤洋一郎、編者は原田信男・鞍田崇。定価9000円、586ページと厚い本。
総合地球環境学研究所の研究プロジェクト「農業が環境を破壊するとき ユーラシア農耕史と環境」で取り組まれた焼畑研究である。あとがきから経緯を紹介すると、
1万年前から現在にいたる農業活動と自然環境の相関性をひもとき、将来の農業の姿を考える手がかりを探ることを目的としたもの。化学肥料を用いず、循環的な土地利用を原則とする伝統的な焼畑は、自然共生型で低エネルギーを旨とすべき今後の農業の方向性を検討するうえで「火耕」は重要と位置づけられ、その現代的意義を探った。
「火耕」は、農業技術としての焼畑だけが問題ではなく、その社会的・歴史的意義や、焼畑を要とした民俗を包括的に把握しようとした。また農業技術として考える場合も、食料生産だけでなく、衣料作物(たとえばカラムシ)や建材作物においても、火入れを用いた生産が行われてきており、「火」による自然管理に根ざした生活文化がある。
各地で講演会等が行われ、会津では焼畑のカブが取り上げられ、からむし焼きの昭和村の関連でいうと、赤坂憲雄・佐々木長生・姫田忠義。特に2008年11月16日に山形県鶴岡市で開催された「焼畑サミットin鶴岡 焼畑と野焼きの文化」では、1988年に民族文化映像研究所が制作した「からむしと麻 福島県大沼郡昭和村大芦・大岐」が上映され、カラムシ焼きが検討された。解説は昭和村からむし生産技術保存協会長の星為夫さん(大芦在住)。
本書には、からむし工芸博物館の平田尚子さんが「繊維植物栽培における火耕 福島県昭和村のからむし焼き」(48ページから75ページ)を寄稿している。
■ → 思文閣出版
目次
総説 佐藤洋一郎(総合地球環境学研究所副所長・教授)
総説 佐藤洋一郎(総合地球環境学研究所副所長・教授)
焼畑の原像と衣食住
縄文残映――焼畑農耕―― 小山修三(国立民族学博物館名誉教授・吹田市立博物館館長)
繊維植物栽培における火耕――福島県昭和村のからむし焼き―― 平田尚子(からむし工芸博物館)
椎葉の焼畑と食文化 飯田辰彦(ノンフィクション作家)
茅葺き民家を支えるヨシ原の火入れ 大沼正寛(東北文化学園大学准教授)
縄文残映――焼畑農耕―― 小山修三(国立民族学博物館名誉教授・吹田市立博物館館長)
繊維植物栽培における火耕――福島県昭和村のからむし焼き―― 平田尚子(からむし工芸博物館)
椎葉の焼畑と食文化 飯田辰彦(ノンフィクション作家)
茅葺き民家を支えるヨシ原の火入れ 大沼正寛(東北文化学園大学准教授)
焼畑像をめぐって
会津農書からみる火耕 佐々木長生(福島県立博物館専門員)
近世農政家の焼畑観――対馬の陶山鈍翁を中心に―― 原田信男(国士舘大学21世紀アジア学部教授)
近代林学と焼畑――焼畑像の否定的構築をめぐって―― 米家泰作(京都大学文学研究科准教授)
新しい農学授業と地域興しとの連携 山口 聰(玉川大学教授)
[コラム1](再録)山焼きの民俗思想――火を介した自然利用の方法の現代的可能性をめぐって―― 六車由実
会津農書からみる火耕 佐々木長生(福島県立博物館専門員)
近世農政家の焼畑観――対馬の陶山鈍翁を中心に―― 原田信男(国士舘大学21世紀アジア学部教授)
近代林学と焼畑――焼畑像の否定的構築をめぐって―― 米家泰作(京都大学文学研究科准教授)
新しい農学授業と地域興しとの連携 山口 聰(玉川大学教授)
[コラム1](再録)山焼きの民俗思想――火を介した自然利用の方法の現代的可能性をめぐって―― 六車由実
日本と周辺の焼畑
蝦夷地における近世アイヌの農耕 山田悟郎(北海道開拓記念館学芸員)
カブと焼畑――山形県を中心に―― 江頭宏昌(山形大学准教授)
四国山地の限界集落における焼畑と文化環境 橋尾直和(高知県立大学教授)
沖縄における焼畑 宮平盛晃(沖縄国際大学非常勤講師)
台湾原住民における焼畑 山田仁史(東北大学准教授)
[コラム2](再録)昭和一八年の山口弥一郎の牛房野調査に関して 六車由実
蝦夷地における近世アイヌの農耕 山田悟郎(北海道開拓記念館学芸員)
カブと焼畑――山形県を中心に―― 江頭宏昌(山形大学准教授)
四国山地の限界集落における焼畑と文化環境 橋尾直和(高知県立大学教授)
沖縄における焼畑 宮平盛晃(沖縄国際大学非常勤講師)
台湾原住民における焼畑 山田仁史(東北大学准教授)
[コラム2](再録)昭和一八年の山口弥一郎の牛房野調査に関して 六車由実
アジアとアフリカの焼畑
南九州とラオス北部の竹の焼畑―森の再生と持続可能な農耕―― 川野和昭(鹿児島県歴史資料センター黎明館学芸専門員)
ラオス北部地域にみる焼畑の終焉とイネ遺伝資源の消失 武藤千秋(京都大学農学研究科技術補佐員)・佐藤雅志(東北大学准教授)
なぜ、アフリカの焼畑なのか 佐藤廉也(九州大学大学院准教授)
登って枝を打つか、地上で切り倒すか――ザンビア北東部・ベンバの焼畑造成―ー 岡 惠介(東北文化学園大学教授)
養分動態からみた焼畑の地域比較論 田中壮太(高知大学准教授)
南九州とラオス北部の竹の焼畑―森の再生と持続可能な農耕―― 川野和昭(鹿児島県歴史資料センター黎明館学芸専門員)
ラオス北部地域にみる焼畑の終焉とイネ遺伝資源の消失 武藤千秋(京都大学農学研究科技術補佐員)・佐藤雅志(東北大学准教授)
なぜ、アフリカの焼畑なのか 佐藤廉也(九州大学大学院准教授)
登って枝を打つか、地上で切り倒すか――ザンビア北東部・ベンバの焼畑造成―ー 岡 惠介(東北文化学園大学教授)
養分動態からみた焼畑の地域比較論 田中壮太(高知大学准教授)
史料論
中日火耕・焼畑史料考 原田信男
白山麓一八ヶ村とむつし関係史料について 山本智代(錦城学園高等学校教諭)
中日火耕・焼畑史料考 原田信男
白山麓一八ヶ村とむつし関係史料について 山本智代(錦城学園高等学校教諭)
附録DVD
白山麓一八ヶ村村絵図集 山本智代
焼畑関係文献目録 江頭宏昌・米家泰作・原田信男
白山麓一八ヶ村村絵図集 山本智代
焼畑関係文献目録 江頭宏昌・米家泰作・原田信男
あとがき 原田信男・鞍田崇(総合地球環境学研究所准教授)
2012年1月25日水曜日
地域の神仏を調べるときに、、、
■ 藤田定興『神と仏の信仰』(歴史春秋社、2011年7月24日発行)1200円・歴春ふくしま文庫41
著者は福島県白河市出身、福島県歴史資料館職員(文化財)を経て現在宮城県蔵王町在住。
→ 白河学研究会と藤田氏PDF3枚
■福島県内の事例について本書は具体的に事例を紹介している。中世・近世、、、、人々がどのように暮らしのなかで神仏などを祀ってきたかがわかる。講(こう)として営まれ、あるいは石造物を建てまつる、、、そうした集落内、地域内に残る手がかりから調べはじめることの事典として本書は役立つ。
庚申待(こうしんまち)、二十三夜の月待、十九夜。
巡礼として三十三観音(西国、奥州、仙道、会津、岩城、田村、御蔵入三十三観音)
飯豊山、湯殿山、妙義山(白雲山)、古峯原、東堂山、田島の牛頭天王(祇園祭)、八溝山
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