2012年1月31日火曜日

藤田定興氏の二著作を読む


■この1週間、降雪のなか、藤田定興氏の著作を読んだ。古書店から購入(日本の古本屋)。
 『寺社組織の統制と展開』(名著出版、1992年、定価8900円、417ページ、600部発行)
 『近世修験道の地域的展開』(岩田書院、1996年、定価11330円、481ページ、600部発行) 日本宗教民俗学叢書3
■『近世修験道の地域的展開』について以下紹介する。
 148ページ。天明2年(1782)頃の『寺院本末神社惣録』(龍宝寺文書)に会津における本山派修験の75が掲載されている。そのなかの56「身分・谷老僧として一道院・野尻・御蔵入、南岳院末」とある。
 159ページには、明和4年(1767)3月付の大光院(大沼郡下中津川村)の別当職補任状が掲載されている。大本山聖護院から出された文書である。
 被補任別当識状
 以大光院永被補陸奥国会津大沼郡下中津川村 愛宕権現社別当識訖、守旧例専社役世々不可違失之旨、依 三山検校宮御気色執達如件
 法橋 源寅
 法眼 誉香
 法印 源泰
明和四年三月十一日
 陸奥国会津大沼郡下中津河村 大光院元誉
■大抵の修験が近隣の社祠の別当となっていたが、大本山聖護院から補任され認められた別当職、会津地方の本山南岳院から認められた別当職がある。さらに各修験の霞内の社祠・堂宇、あるいは自らが勧請主となって開かれた社寺等、許状の形をとらない暗黙に承認された別当権があった。
■162ページ。御蔵入修験識格一覧は、文正6年?、文政10年、弘化3年、4年の資料で上通、中通、下通に分けた一覧があり、現在の昭和村域では、8院記載されている。
 村名・寺院名・識格等・資料1・2・3・4
 喰丸村 法正院 - 下 下 - -
 野尻村 一動院 格地 上 上 上 -
 下中津川村 大正院 - - - 下 -
 下中津川村 喜法院 - 下 - - -
 下中津川村 大光院 別当 上 上 上 -
 小中津川村 大法院 - 下 下 - -
 小中津川村 会光院 老僧 上 上 上 -
 中向村 大聖院 - 下 下 下 -
■ 『田島町史 第1巻』では、四院が記載されており、喰丸村は南蔵院となっており上記とは異なるが、それ以外は、小中津川・大法院、下中津川 喜法院、大光院が掲載されている。上記資料では下中津川大正院が弘化4年資料のみの掲載のようである。
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■『寺社組織の統制と展開』では、会津藩の保科正之の神社の整理と改定について記載されている。
 また、明治期になり神仏分離政策で、修験者達の多くは神職に転じ、宗派と組織が消滅する過程を福島県内、会津地方で追っている。
 社祠の整理には野外の碑塔の神仏分離と整理が含まれていることに著者は留意するよう言及している。特に明治9年12月15日に出された教部省達第37号。
 285ページ。このような山野・路傍に散在していた神祠・仏堂・碑塔の合併・移転について蛇足を加えたいことは、この合併・移転は、人々の身近にあって、しかもそこに建てられるべくして建立され、その地その場所にあることに存在意義のあった信仰対象物が移動させられたということであり、しかも遠隔地に移された場合も多かったことである。そしてそれは、かつてこれらの散在していた村内の信仰的環境が大きく変化させられたことでもあったし、このような村内環境の変化が、山野・路傍に散在していた神祠・仏堂・碑塔類を中心として行われてきた民俗信仰へも、当然大きな影響を与えたと思われることである。