■2011年12月20日(火)に、会津ー新潟ー富山からはじめて訪問した合掌造り保存集落の五箇山・菅沼集落。雪のなか、五箇山民俗館のぐし部分の茅吹きが地元森林組合により行われていた。1995年に上流域に隣接する岐阜県白川郷とともに世界遺産に登録された。
菅沼や相倉などの合掌集落がある五箇山が依拠する経済文化圏は、いわゆる富山県の砺波市周辺であり、かつての越中砺波郡の一向一揆の拠点である。火薬原料の焔硝を堆肥を作るように植物から製造していた拠点が白川郷・五箇山など合掌造り民家の地下(床下)である。焔硝と木炭、硫黄で火薬は製造される。
日本国内で広く行われた平成の大合併、広域に町村が併合した。当地も富山県南砺市菅沼となっている。
この菅沼集落にある五箇山民俗館の受付で販売していた書籍『五箇山の民俗史』は、平成14(2002)年3月20日に富山県東砺波郡上平村教育委員会から発行された。上平村は平成16年に合併し南砺市となる。
著者は小坂谷福春さん。五箇山(上平村西赤尾町、菅沼集落の上流の集落、現在の五箇山インター近くの集落)に生まれ育った著者は、昭和40年代に3冊の自費出版を行った。
五箇山の民俗史第1巻『もだえる合掌集落』(昭和44年9月刊)、第2巻『落人の伝承』(昭和45年6月刊)、『ななつぶとん』(昭和46年6月刊)
この3冊を合本したものが購入した『五箇山の民俗史』である。
■285ページを読み終えてみると、日本海積雪地帯である五箇山と奥会津には共通した文化があることがわかる。そして言葉にも似たものが多いが異なるものもある。山野自然の利用でも共通なものが見える。
本誌のなかから、たったひとつ言葉を抽出するとすれば、次の語彙が記載されていることである。以下紹介する。
■「衣の話」として新田石松さんが語ったこととして、
明治四〇年(一九〇七年、、、いまから百年前)ころまでは、一人前の若者は、みんな「クツギ」に出た。これは家に食べるものがなかったので、どこへでも行って、働いて、食べさせて貰うためのものであった。クツギに行くと、お盆には、たいてい夏着と五尺五寸の白木綿が貰えた。お盆に家に帰ってきて、この新しい夏着を着るのが、若者たちには何よりも楽しみであったものだ。(以下略)
■「クツギ」とは筆者はカタカナ表記でしか書かれていないが含意は「喰い継ぎ」であろうと思った。
ここで思い出すのは、奥会津・昭和村小野川の大岐集落で我が家の祖母・トシ(故人、明治42年生まれ)に26年前の1986年1月25日に聞いた話の中に、「カボイカタ」という語彙が出て来る。
節約することを「カボイカタ」という。かばう、という現代の言葉にあたる。集落の周囲の里山(コナラ林)を春木山で伐り作った薪を燃やし湯を沸かす風呂。新しい水を張った風呂は「あらゆ(新湯)」、翌日にまたその水を汲み変えずに湧かせば「たてかえし」。三日目に水を入れ替えると「二晩でたてかえす」という。新湯には熱量を必要とすることから薪の使用料が多くなる。たてかえしは新湯より薪の使用料も少なく、また使用する水も総量が少なくなる。
我が家だけで風呂をたてずに、家では数日おきに風呂をたてることとし、そのかわりに隣接家にもらいゆ(もらい湯)に行くことも多かった。そうして集落全体で使う薪を節約した。これを「木をかぼう」(木をかばう=木の節約)といった。
同じことが「コメカボイ」である。主食であった穀物である米を節約する、のである。秋に収穫した米など穀類・野菜を節約するために、男衆は野良仕事ができなくなる冬期間に地域外に出て、そこで飲食をする。そのことで自家の穀類等は減りが少なくなる。こうして自家の「米を節約する」のである。これが出稼ぎの主目的であった。
昔は、雪が降ったから「コメカボイ」に行ってくっかあ、、、、と語られていた。
戦前までの出稼ぎの目的は自家の食料の節約であり、得られる労働報酬よりも冬期間に他地域で寄食することに主たる目的があった。それは会津の茅手と呼ばれた茅葺き職人としてのこともあったろうし、漆器の商人、あるいはホイト(乞食)として無雪地帯を冬期間のみ、ものごいして歩く、ということもあった。そして雪の降りおさまった春に集落に帰るのである。(菅家博昭)
ここで思い出すのは、奥会津・昭和村小野川の大岐集落で我が家の祖母・トシ(故人、明治42年生まれ)に26年前の1986年1月25日に聞いた話の中に、「カボイカタ」という語彙が出て来る。
節約することを「カボイカタ」という。かばう、という現代の言葉にあたる。集落の周囲の里山(コナラ林)を春木山で伐り作った薪を燃やし湯を沸かす風呂。新しい水を張った風呂は「あらゆ(新湯)」、翌日にまたその水を汲み変えずに湧かせば「たてかえし」。三日目に水を入れ替えると「二晩でたてかえす」という。新湯には熱量を必要とすることから薪の使用料が多くなる。たてかえしは新湯より薪の使用料も少なく、また使用する水も総量が少なくなる。
我が家だけで風呂をたてずに、家では数日おきに風呂をたてることとし、そのかわりに隣接家にもらいゆ(もらい湯)に行くことも多かった。そうして集落全体で使う薪を節約した。これを「木をかぼう」(木をかばう=木の節約)といった。
同じことが「コメカボイ」である。主食であった穀物である米を節約する、のである。秋に収穫した米など穀類・野菜を節約するために、男衆は野良仕事ができなくなる冬期間に地域外に出て、そこで飲食をする。そのことで自家の穀類等は減りが少なくなる。こうして自家の「米を節約する」のである。これが出稼ぎの主目的であった。
昔は、雪が降ったから「コメカボイ」に行ってくっかあ、、、、と語られていた。
戦前までの出稼ぎの目的は自家の食料の節約であり、得られる労働報酬よりも冬期間に他地域で寄食することに主たる目的があった。それは会津の茅手と呼ばれた茅葺き職人としてのこともあったろうし、漆器の商人、あるいはホイト(乞食)として無雪地帯を冬期間のみ、ものごいして歩く、ということもあった。そして雪の降りおさまった春に集落に帰るのである。(菅家博昭)
■山口孝平『近世会津史の研究 (上下巻)』(歴史春秋社、1978年)。上下2巻本の下巻147ページに「天明飢饉の惨状」で、天明2年(1782)の大塩組(奥会津 金山町)の事例として、
口暮(くちぐらし) 稼ぎのために他邦に出ている。鋤取=働き手の長男は口暮に出て、、、帰村しないものも多い、、、
つまり食糧が無くなり、生きるために冬期間に家を空ける。食べ物を得るための行為であるから物乞い(乞食)も含まれると思われる。
『昭和村の歴史』(1973年)の執筆も担当された山口孝平氏は明治30年(1897)会津若松市生まれ、昭和27年3月教師を33年間勤める。昭和37年会津若松史出版委員会事務局編集長として市史13巻発刊。同年、福島県史編纂委員として福島県史26巻発刊。会津史学会初代会長。(2012年3月2日追記)
■『歴史春秋64号』(2006年)に海老名俊雄先生が「天明八年(1788)巡見使御案内手鑑」の翻刻文を紹介している。そのなかに伊南伊北(いないほう、現在の南会津郡伊南川から只見までの流域)では、「若者どもは関東へ口竈(くちかまど)まかり出」とあり、冬に「口減らしのために出稼ぎに行く」と解説。(2012年4月14日追記)