■2011年12月31日(土) 福島民友新聞地域ニュース
郷土の歴史に光を
文書や書簡1696点 寄贈
南会津町下潮江の旧家の渡辺文学さん。
渡部力夫さん、樋口弘一さん、東北地方木地師学研究会代表の金井晃さんらが整理作業を行った。下塩沢村検地帳、宗門人別改帳、南山御蔵入騒動関係資料など。
2011年12月31日土曜日
2011年12月28日水曜日
渡辺三省『越後縮布の歴史と技術』(小宮山出版、1971年)
■2011年10月下旬に古書店から8000円で購入した『越後縮布の歴史と技術』。昭和46年(1971)8月1日初版発行。神田神保町の小宮山出版株式会社による発行である。著者の渡辺三省は明治39年新潟県中魚沼郡生まれ、昭和22年同郡岩沢村長。選挙に落選し『小千谷市史』の編纂にかかわる。
■2011年12月27日に本書・894ページを読了。苧麻(からむし)の近世の越後国内の流通について詳述している。このなかで地苧(じそ)への言及がある。
古老からの聞き取りによれば、明治時代にいたるまで、越後(新潟県内)に相当量の青苧(あおそ、苧麻・カラムシのこと)生産があったことが確認された。地苧についての記録が乏しいのは、生産がないためでなく、これを自家の縮生産の原料として全部使用するからで、他との利害関係が起きないためである。よって奥羽(最上・米沢・会津等)からの移入量のみを問題とし、これをもって縮布の生産量を逆算することなどの誤りなることを指摘した(848ページ)。
地苧無視の過誤(138~139ページ)。(衣料の)自家用品の原料のほとんどは地苧であったと断定して間違いなく、したがって毎戸栽培の必要があった。
上杉家が会津・米沢へ移封になったために同地に青苧栽培を奨励して、優良品を多量に産出するようになった結果、越後の青苧は減退した、という事実を否定することはできないとしても、このことがあまりにも単純に割り切って結論が出され、「苧(からむし)は上杉公に随きて会津へ行きたり」の一句が決め手のように各所に引用せられ、このことにひとつの疑問をさしはさむものもなかったということにたいしては、筆者(渡辺三省)は異論を持つものである。(略)
上杉家が会津・米沢へ移封になったために同地に青苧栽培を奨励して、優良品を多量に産出するようになった結果、越後の青苧は減退した、という事実を否定することはできないとしても、このことがあまりにも単純に割り切って結論が出され、「苧(からむし)は上杉公に随きて会津へ行きたり」の一句が決め手のように各所に引用せられ、このことにひとつの疑問をさしはさむものもなかったということにたいしては、筆者(渡辺三省)は異論を持つものである。(略)
上杉の慶長の移封から天和の検地までには、じつに一世紀の時が経過しているといことが、今まで無視されている。天和検地にこれだけの広い青苧畑が確認され、その後の新田にも青苧畑が設けられ、遠く明治・大正まで地苧の生産が継続したという事実に照合してみれば、衰退の原因をそのように単純に割り切ることはできない。縮布の生産に必要な原料需要の絶対量に限度があり、その量が奥羽で生産されるがために衰えたとする説も訂正を要する。なぜなれば会津・米沢から青苧を買うために地苧の生産を停止しなければならぬという論理はありえないからである。
■「からむし焼(やき)」という語句が143ページの明和元年の古志郡荷頃村之枝郷 蘭木村、、、に掲載されている。からむし畑があり、からむし焼きが行われるためにその近くに家作ができない、という広井文書が掲載されている。
■親苧、影苧、子供苧(145ページ)。青苧(あおそ、カラムシ)はおよそ品質により三種類に分けられるが、その主たるものは親苧(おやそ)と呼ばれる。密生した苧麻の中には成長が遅れ、規定の長さにならぬものがあり、これを影苧(かげそ)という。これよりさらに発育が遅れ、大人が処理していては間尺にあわない屑様のものは、子供に挽かせるので子供苧(こどもそ)の名前がある。しかるに品質が優れ、優良縮布に使うのは親苧よりも影苧であり、子供苧はさらに品質がよい。つまり人間でいえば栄養失調・発育不良のものほど、その繊維が繊細・柔軟で優良品であるということである。
※奥会津昭和村では子供苧は「わたくし」と呼ぶ。
■134ページ。『東頸城郡誌』に、苧(からむし)には山苧(やまそ)と自苧(じそ)の区別ありて、山苧は古代より山野に自生するものをいい、自苧は会津苧に対する名称にして、畠に培養して作出するものをいう。山苧は一名エラ苧といい、山地は勿論田圃間の平地まで散生せりという。現在は松苧山の西方傾斜面菅刈登山口に自生し、会津苧も及ばざる良質なり。而して現在は同山北方小松沢という所にも自生し、会津上等品を小松苧というは、この地名に基因すると云い伝う。
■11ページ。苧麻を剥皮製線するさいの、上皮を水中に入れ、葦簀(よしず)の上にのせて、棒でたたきのばして打綿を作り、これを防寒用とした。
ブイトウ(折さしともいう)というものがあった。これは農民の山着が破れるごとに、最初から意識的に布片の色・形・大小等を考慮せず、丈夫な麻糸で縫いつける。こうして後には原型の布はわからず、全面的に布が三重・四重・五重とかさなり合って、すべて雑巾の連続のようになる。これがブイトウで、こういう衣料が親から子へと数十年のあらい山仕事に堪えることができるのである。このような山着は大正初期ごろまでは、この地方の農民なら誰でも着ていた。
ブイトウ(折さしともいう)というものがあった。これは農民の山着が破れるごとに、最初から意識的に布片の色・形・大小等を考慮せず、丈夫な麻糸で縫いつける。こうして後には原型の布はわからず、全面的に布が三重・四重・五重とかさなり合って、すべて雑巾の連続のようになる。これがブイトウで、こういう衣料が親から子へと数十年のあらい山仕事に堪えることができるのである。このような山着は大正初期ごろまでは、この地方の農民なら誰でも着ていた。
■永原慶二さんの遺作『苧麻・絹・木綿の社会史』(吉川弘文館、2004年)の207ページに渡辺三省『越後縮布の歴史と技術』はこの方面で、もっともすぐれた著作である、と評価している。204ページの『別冊太陽』引用の写真は昭和村で撮影されたものであり、203ページにも昭和村で今日も苧麻(からむし)栽培が行われている、と記述している。
2011年12月3日土曜日
2011年11月28日月曜日
11月30日の夜、テレビ放映
テレビ放映のお知らせです。
BSフジ(衛星)11月30日(水)20:00~21:55
「プライムニュース」に、
赤坂憲雄先生、飯舘村の佐藤氏、奥会津書房遠藤由美子さんが出演。
ふくしま会議の続編を二時間近く生放送します。
なお、12月中旬に、今年最後の会津学研究会の勉強会を予定しています。
詳細は追ってお知らせいたします。
2011年11月14日月曜日
年報・村落社会研究47
■2011年10月15日、『年報 村落社会研究 第47集 都市資源の<むら>的利用と共同管理』が農山漁村文化協会(農文協)から発刊された。日本村落研究学会企画 池上甲一編。
第45集から年報体裁が変更となり3冊目となる。
愛媛大学の高橋基泰教授が巻末の学会の研究動向「史学・経済史学の研究動向」を書いている。そのなかに興味深い内容があった(218ページ)。
英語圏での電子書籍化の波・デジタル化、、、というなかで、「近年、アマチュア家族史家人口は増え続け、英国をはじめヨーロッパ各国でも公文書館や公立図書館は自らの家系情報を入手するために世界から来訪者が絶えない。とくに家系情報データベースおよび家系図作成ソフトの進展によりウェブ上に家系図クラウドが今現在もその大きさを刻々と増している」
第45集から年報体裁が変更となり3冊目となる。
愛媛大学の高橋基泰教授が巻末の学会の研究動向「史学・経済史学の研究動向」を書いている。そのなかに興味深い内容があった(218ページ)。
英語圏での電子書籍化の波・デジタル化、、、というなかで、「近年、アマチュア家族史家人口は増え続け、英国をはじめヨーロッパ各国でも公文書館や公立図書館は自らの家系情報を入手するために世界から来訪者が絶えない。とくに家系情報データベースおよび家系図作成ソフトの進展によりウェブ上に家系図クラウドが今現在もその大きさを刻々と増している」
2011年10月25日火曜日
野生植物の繊維採取
■過日、とあるシンポジウムにて池田亨氏より、イラクサ科(カラムシを含む)の植物伝承について、2007年に廃刊となった『染色α』の2冊からの記事の紹介があった。1996年(平成8年)の9月号(186号)と10月号(187号)の脇田雅彦氏・節子氏による執筆の記事である。
美濃国・藤橋村(元・徳山村)の靱皮繊維 野生の麻「ミヤマイラクサ」の伝承、野生カラムシ(苧麻)の伝承
■日本の古本屋、という古本検索サイトで10日間ほど類書を検索し、ひとつの古書店に187号の在庫があることがわかり発注したところ、ウェブにはまだ掲載していないが新しく同雑誌が入荷したというので186号についても調査を依頼した。
美濃国・藤橋村(元・徳山村)の靱皮繊維 野生の麻「ミヤマイラクサ」の伝承、野生カラムシ(苧麻)の伝承
■日本の古本屋、という古本検索サイトで10日間ほど類書を検索し、ひとつの古書店に187号の在庫があることがわかり発注したところ、ウェブにはまだ掲載していないが新しく同雑誌が入荷したというので186号についても調査を依頼した。
■また『民具マンスリー』370号(1999年1月刊)に『ウスタビガのマユの伝承 岐阜県を中心に』が掲載されているので、バックナンバーも263冊、名古屋市の古書店から購入して370号を入手した。『会津学4号』(2008)の177ページに紹介したヤマビコのことである。
2011年9月26日月曜日
10月2日(日)午後3時、西隆寺・例会
会津学研究会のみなさま
奥会津書房@会津学研究会事務局です。
10月の定例勉強会のお知らせです。
日時:2011年10月2日15:00~17:00
場所:福島県三島町西方 西隆寺
・地域の調べ方―ドキュメント7.28~7.30
・「会津物語」(朝日新聞)について
・「ふくしま会議」について
・その他
とりわけ、7.28以降の水害の被害状況など、共有したいテーマが取上げられると思います。
万障お繰り合わせの上、是非ご参加ください。
(写真)奥会津・小中津川上田のネリ(稲架)。台風来襲に備え風通しをあけている。
2011年8月13日土曜日
2011年7月9日土曜日
奥会津大学2年次はじまる
■昨年に引き続き、電源流域振興協議会(運営事務局・昭和村NPO苧麻倶楽部)の「奥会津大学第2期」は2011年6月30日に開講した。7月6日に奥会津書房の遠藤由美子編集長が「聞き書き」について講座を担当した。7月20日は只見町で新国勇さんが自然について。7月28日は昭和村下中津川の昭和村公民館を会場に、下中津川の散策(午前10~)、講座(午後2時~5時)「地域遺産の調べ方」について菅家博昭が担当します。単回の参加者は500円です。
■昨年からはじまった奥会津大学は、自ら暮らす聚落の生活文化・歴史・民俗を、地域の先達に学び、調査しながら、空間としての地域像を再認識することに目的がある。それは専門性を持ち狭い専門分野による調査ではなく、これまで調査された結果を含み全体性を回復する試みになっている。昨年は講座(座学)だけであったが、昨年の30名余の受講者らによる野外踏査の要望が強いことから本年は野外踏査(フィールドワーク)と座学を1日に組み込んで実施する試行が行われる。
私はそれに先立つ現地調査を春から開始し、古老への聞き取りや文献調査により、新しい知見が次々と出て来ている。聚落ごとの歴史を掘り起こすことは沖縄県内の地域公民館が『字誌(あざし)』をまとめる作業をしてきたことがよく知られている。地元学、地域学、、、等、地域にある歴史遺産だけではなく生活文化そのものの価値の再発見につながるような学びの場が広がってきている。
■会津学研究会では、2011年は、月例会を三島町西方の西隆寺で行っている。311震災および原発公害による地域社会の崩壊は被災地とその周縁に影響が及んでいる。参加者がどのように現状に向き合っているのかをまず語り合い、例会の内容に進む。昨年、縁があり隣県栃木県の日光学(日光市中央公民館)の受講者であるFさんと知り合い、6月に訪問しお話をうかがった。栃木県内の水稲を栽培しない地域で、ムギやアサ、スギによる生業が行われていた地域で南東北の代参講が多い古峰ヶ原に近い聚落であった。冬期間、南会津の茅出(屋根葺き職人)が来る、夏のアサの収穫時期には製繊に必要な「カナゴ(アサ挽き道具)」や「イタ」売りの商人が来た、といい、会津との結びつきの強い地域であった。
また6月の「おあたごさま(愛宕神社)」祭礼にかかわる事例から、奥会津の聚落には必ず存在する「おあたごさま」と中世後期の城館柵等の関連について、地名呼称等からの調査技法の開発を試みている。
東北芸術工科大学の『まんだら』で連載がはじまった「古文書解読四〇五号室」は、地域にある文書の解読のためにとても参考になり、今後は例会内でもこれをテキストにした学習をはじめる予定である。
■7月6日、午前9時~午後5時、昭和村内の石仏現況調査に随行しました。昨年、小野川地区のゴンゲンサマの観音石像が1基、盗難にあったためです。
■7月10日(日)福島県喜多方市山都町相川で農産物直売所開店のイベントがあります。→ ひぐらし農園(午前10時より上堰散策等)
■奥会津の山ノ内氏 → 会津四家合全
■昨年からはじまった奥会津大学は、自ら暮らす聚落の生活文化・歴史・民俗を、地域の先達に学び、調査しながら、空間としての地域像を再認識することに目的がある。それは専門性を持ち狭い専門分野による調査ではなく、これまで調査された結果を含み全体性を回復する試みになっている。昨年は講座(座学)だけであったが、昨年の30名余の受講者らによる野外踏査の要望が強いことから本年は野外踏査(フィールドワーク)と座学を1日に組み込んで実施する試行が行われる。
私はそれに先立つ現地調査を春から開始し、古老への聞き取りや文献調査により、新しい知見が次々と出て来ている。聚落ごとの歴史を掘り起こすことは沖縄県内の地域公民館が『字誌(あざし)』をまとめる作業をしてきたことがよく知られている。地元学、地域学、、、等、地域にある歴史遺産だけではなく生活文化そのものの価値の再発見につながるような学びの場が広がってきている。
■会津学研究会では、2011年は、月例会を三島町西方の西隆寺で行っている。311震災および原発公害による地域社会の崩壊は被災地とその周縁に影響が及んでいる。参加者がどのように現状に向き合っているのかをまず語り合い、例会の内容に進む。昨年、縁があり隣県栃木県の日光学(日光市中央公民館)の受講者であるFさんと知り合い、6月に訪問しお話をうかがった。栃木県内の水稲を栽培しない地域で、ムギやアサ、スギによる生業が行われていた地域で南東北の代参講が多い古峰ヶ原に近い聚落であった。冬期間、南会津の茅出(屋根葺き職人)が来る、夏のアサの収穫時期には製繊に必要な「カナゴ(アサ挽き道具)」や「イタ」売りの商人が来た、といい、会津との結びつきの強い地域であった。
また6月の「おあたごさま(愛宕神社)」祭礼にかかわる事例から、奥会津の聚落には必ず存在する「おあたごさま」と中世後期の城館柵等の関連について、地名呼称等からの調査技法の開発を試みている。
東北芸術工科大学の『まんだら』で連載がはじまった「古文書解読四〇五号室」は、地域にある文書の解読のためにとても参考になり、今後は例会内でもこれをテキストにした学習をはじめる予定である。
■7月6日、午前9時~午後5時、昭和村内の石仏現況調査に随行しました。昨年、小野川地区のゴンゲンサマの観音石像が1基、盗難にあったためです。
■7月10日(日)福島県喜多方市山都町相川で農産物直売所開店のイベントがあります。→ ひぐらし農園(午前10時より上堰散策等)
■奥会津の山ノ内氏 → 会津四家合全
2011年5月25日水曜日
2011/5/26金山町川口高校での資料
2011年5月26日(木)10:35より
福島県立川口高校:奥会津風土体感プログラム(資料)
昭和村大岐 菅家博昭
1.地域(集落・大字、むかしの村)、流域、峠
2.調査(調べ方)
フィールドワーク(野外調査)
聞き書き(聞き取り調査→編集し成文化する)
文献調査
3.「山が、へ(減)るほど、ある(歩)いた」
共生、持続可能性(サスティナビリティ)など無い
4.調査の限界(聞く人の枠)
考え方:全体を見て、言葉にこだわる
言葉→もの、おこない(行為)の表現を支える哲学(考え方)を探る
5.からむし焼き(青苧焼き)→「発音」「過去の作業者の日記」「文献」→作業目的を言い当てる
6.ぜんまいおり(ぜんまい折り)→行為による環境保全と伝承
7.すぎっぱひろい(杉葉拾い)→
8.きのはさらい(木の葉さらい)→落ち葉ではなく、なぜ木の葉なのか?
9.土地の呼び名(地名、俗称)からその地域の人間の行動範囲を探る→記憶を呼び出す
10.自分史とライフワーク、地域誌(集落誌、字誌)と地域文化
11.暮らしを支える基層文化と技術、産業
12.からむしとアサの輪作技法。バンカープランツとしての技術
13.青苧(あおそ・からむし)という鮮度と品質を表現した呼び名
14.かすみ草の世界
15.春木山、薪炭林、里山、コナラの萌芽更新(たてたてぎり)、雪の利用
福島県立川口高校:奥会津風土体感プログラム(資料)
昭和村大岐 菅家博昭
1.地域(集落・大字、むかしの村)、流域、峠
2.調査(調べ方)
フィールドワーク(野外調査)
聞き書き(聞き取り調査→編集し成文化する)
文献調査
3.「山が、へ(減)るほど、ある(歩)いた」
共生、持続可能性(サスティナビリティ)など無い
4.調査の限界(聞く人の枠)
考え方:全体を見て、言葉にこだわる
言葉→もの、おこない(行為)の表現を支える哲学(考え方)を探る
5.からむし焼き(青苧焼き)→「発音」「過去の作業者の日記」「文献」→作業目的を言い当てる
6.ぜんまいおり(ぜんまい折り)→行為による環境保全と伝承
7.すぎっぱひろい(杉葉拾い)→
8.きのはさらい(木の葉さらい)→落ち葉ではなく、なぜ木の葉なのか?
9.土地の呼び名(地名、俗称)からその地域の人間の行動範囲を探る→記憶を呼び出す
10.自分史とライフワーク、地域誌(集落誌、字誌)と地域文化
11.暮らしを支える基層文化と技術、産業
12.からむしとアサの輪作技法。バンカープランツとしての技術
13.青苧(あおそ・からむし)という鮮度と品質を表現した呼び名
14.かすみ草の世界
15.春木山、薪炭林、里山、コナラの萌芽更新(たてたてぎり)、雪の利用
2011年4月19日火曜日
会津図書館の移転・開館(4月17日)
■会津若松市栄町3-50の市民会館・中央公民館跡地に『生涯学習総合センター(会津稽古堂)』が4月17日に開館した。2階が会津図書館。これまで城東町の福島県立博物館脇にあった図書館が、新装開館して、郷土資料等がたいへん調べやすくなっている。
→ 会津若松市立 会津図書館
→ 会津若松市立 会津図書館
2011年4月18日月曜日
4月17日(日)15時、西隆寺にて定例会
■2011年4月17日(日)15時より、奥会津・三島町西方の西隆寺にて、会津学研究会の定例会を開催いたしました。3月11日発生の東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故(放射性物質の拡散)について話し合いをしました。1ヶ月に発刊された朝日・毎日・読売・日経・産経・民報・民友新聞の記事のクリッピング24ページを資料としました。
■4月14日に首相官邸で開催された「復興構想会議」に、佐藤雄平福島県知事・玄侑宗久和尚・赤坂憲雄福島県立博物館長(学習院大教授)が委員として参加し、原発事故も合わせて議論するよう要請しています。
■雑誌『会津学』は2011年に第7号を夏秋に発刊する予定でしたが、大震災を受け、編集方針の見直しをしています。2011年の発刊は見送り、2012年以降に発行することを確認致しました。
■3月20日に予定していた「子ども聞き書き発表会」は震災のため中止となりました。ただ報告書は予定通り発刊しています(第3号)。
■地震より1ヶ月、震度5近い余震も頻繁に発生しています。
■4月14日に首相官邸で開催された「復興構想会議」に、佐藤雄平福島県知事・玄侑宗久和尚・赤坂憲雄福島県立博物館長(学習院大教授)が委員として参加し、原発事故も合わせて議論するよう要請しています。
■雑誌『会津学』は2011年に第7号を夏秋に発刊する予定でしたが、大震災を受け、編集方針の見直しをしています。2011年の発刊は見送り、2012年以降に発行することを確認致しました。
■3月20日に予定していた「子ども聞き書き発表会」は震災のため中止となりました。ただ報告書は予定通り発刊しています(第3号)。
■地震より1ヶ月、震度5近い余震も頻繁に発生しています。
2011年3月31日木曜日
鹿児島県での会合は1年延期へ
■2011年3月30日。
会津学研究会、鹿児島県沖永良部島での開催と継続して交流が続いていました次回大会は本年11月初旬に鹿児島県内の志布志市で弥五郎祭り時に開催する予定でしたが、3月11日の東北地方太平洋沖地震(政府は4月1日に東日本大震災と命名)が発生し、福島県浜通りに建設されてある東京電力第一発電所の事故(3月15日放射性物質の放出)のため、来年(2012年)開催へと延期となりました。これまで開催準備を進めておられた、鹿児島民俗学会の所崎平先生にはたいへんご心配をおかけしました。
会津学研究会、鹿児島県沖永良部島での開催と継続して交流が続いていました次回大会は本年11月初旬に鹿児島県内の志布志市で弥五郎祭り時に開催する予定でしたが、3月11日の東北地方太平洋沖地震(政府は4月1日に東日本大震災と命名)が発生し、福島県浜通りに建設されてある東京電力第一発電所の事故(3月15日放射性物質の放出)のため、来年(2012年)開催へと延期となりました。これまで開催準備を進めておられた、鹿児島民俗学会の所崎平先生にはたいへんご心配をおかけしました。
2011年1月31日月曜日
地域の調べ方・講座
■2011年1月31日(月)13~16時、福島県南会津郡只見町只見:只見地区センターにおいて奥会津大学の講座があり、菅家がお話しします。2010年秋より開講したもので只見川電源流域振興協議会(事務局・三島町役場内)主催。
講座は昭和村下中津川 役場前の生活改善センター 一階のNPO苧麻倶楽部が担当している。→ 講座風景
■
■ 「奥会津の地域の調べ方」 昭和村大岐・菅家博昭 撰
1.調べる・歩く・見る・聴く・まとめる・残す・伝える
集落(ムラ)の歴史・地誌・記憶→ 字誌(あざし)、大字誌
渡辺満『集落誌せきざわ』(1988年) 耶麻郡山都町三津合字諏訪
2.文献調査 (書かれていない事も存在する)
(1)地図類
各自治体は1万分の1(分割)、2万5千分の1、5万分の1の地図を所持している。それを入手し該当集落を拡大コピーしておく。
または国土地理院の地形図2万5千分の1
地図閲覧サービス http://watchizu.gsi.go.jp/
(2)空中写真 1970年代
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/search.html
(3)遺跡等(旧石器・縄文・弥生・古代・中世城館跡)
福島県文化財センター白河館まほろん http://www.mahoron.fks.ed.jp/search.html
(4)奥会津の自治体史誌
三島町史 昭和43年
柳津町史 全2巻(総説編・集落編)昭和49~52年
金山町史(上下民俗)昭和49年・51年 金山史談
図説会津只見の歴史 昭和43年
只見町史 全6巻・資料集5冊・文化財調査報告書14
南郷村史 全5巻・別巻1冊 昭和58~62年)
伊南村史 全7巻、編纂中
舘岩村史 全5巻(平成1~13年)
檜枝岐村史 昭和45年
昭和村の歴史 昭和48年
田島町史 全10巻・11冊(昭和52~平成3年)南山御蔵入について記述多い
福島県史、大沼郡誌、南会津郡案内誌(渡部円蔵・夢庵)
会津若松史、ビジュアル市史25巻等
『会津若松史研究 第十一号』(2010年)に会津若松市立図書館館長で市史編さん兼務の野口信一氏は、第三次会津若松市史編さん事業の終了について巻末に「資料の保存継承は我々の責務であり、規模は縮小されても資料の収集、整理、研究は残していく必要がある」としている。会津若松市では明治時代から大正時代にまとめられ昭和16、17年に『若松市史』上下巻が刊行された。その編さんのための資料は会津図書館に残されたという。二次は『会津若松史』は昭和37年から編さんがはじまり昭和39年から42年まで13冊が刊行された。しかし、資料は東北大学に委託したようなかたちで資料を預けたため会津若松市に資料が残されなかった、という。当時は通史主体の編さん方法で、資料編も原資料の抜粋だけで体系的な資料の掲載ではない。その後、自治体史の編さん方法も大きく変わり、まず資料を広く収集、調査分析し時代順による資料編を刊行、それを受け最後に通史の刊行と変化してきた。また現在では資料編が通史編よりも巻数的に多いものが主流になっている。新たな事実の解明により、通史は常に書き換えられる運命にあるから資料編が重要になっている。反省を踏まえ、史料の収集に力を入れた。史料所在調査、借用収集、整理、複写を経て史料目録原稿の作成、資料目録の出版。史料の保存・継承も重要で、原本は1種毎に所定の封筒に入れ所蔵者に返却、複写物を市史編さん室で永久保存して利用する。また貴重な資料については解読筆耕し、史料集として出版する、と紹介している。
(5)新編会津風土記
新編会津風土記(しんぺんあいづふどき)は、会津藩官選による会津藩領に関する地誌。全120巻。1803年(享和3年)から1809年(文化6年)にかけて編纂され、江戸幕府に上進された。界域、山川、原野、土産、関梁、水利、郡署、倉廩、神社、寺院、墳墓、古蹟、釈門、人物、旧家、褒善の16部門にわたり記述されている。
江戸幕府の地誌編纂事業のモデル的役割を果たすものとして編纂された地誌であると同時に、江戸時代における日本の地誌の代表とされる。(ウィキペディアより)。
復刻本は、会津若松市の歴史春秋社より全5巻
(6)報告書類
只見町教委『会津只見の中世城館跡』1995年
各町村教委、福島県等からの報告書、博物館研究紀要
各町村の民俗資料館等
(7)木地屋関係
近世木地屋の本拠小椋谷は現在滋賀県東近江市。資料としては杉本壽・橋本鉄男両氏による資料が著名であるが、『永源寺町史』全4巻がとてもよくまとめらている。平成18年に刊行された『永源寺町史 通史編』には生嶋輝美氏が593ページから658ページに蛭谷・君ヶ畑の木地師支配でまとめている。
江戸時代から明治初期に木地屋集落を全国巡廻してあるいた氏子かり帳については『永源寺町史』は2冊にわたり記載しており、最新のものである。会津地方の木地屋についてはふるく山口弥一郎氏の論考もある。また木地屋が農業をはじめ定着化することについては野本寛一先生も会津の北部の報告をまとめている(「木地師終焉地」『民俗文化第11号』1999年)。現在『永源寺町史』全4巻は「日本の古本屋」等で2万円程度で入手できる。木地制度についてよくまとめられており、これをまず読み、『木地語り』『木地師の跡を尋ねて』や各自治体史(市町村史)にてあたられると良い。研究史については田畑久夫『木地屋集落 系譜と変遷』(古今書院、2002年)
南会津町の奥会津博物館と2010年に改称したが、平成13年(2001)福島県田島町教育委員会『木地語り 企画展報告書』は下郷町在住の金井晃さんの執筆。同館で販売している。奥会津を中心とした会津地方の木地屋についてよくまとめられている。
昭和52年(1977)『福島の民俗』第5号に、昭和村中向の春日神社神主・菊地成彦先生は「奥会津の木地師」を投稿している。15ページから20ページ。度々木地屋を訪れて、すすけた火棚の上から、麻糸を十文字にからげた古文書入りの木箱を渡された時の感激は忘れられない、と木賊平木地を紹介。この文書は杉本壽氏も過去に紹介していると菊地先生は書いている。
1982年に発刊された南会津郡『田島町史』第6巻(下)近世資料Ⅱ。235ページから265ページまで木地屋資料が掲載されている。そのほとんどが昭和村のものだ(資料番号134から171まで)。当時の金山谷野尻組小野川村の大乗寺が旦那寺として機能しているのがわかる。平成14年(2002)に奥会津・昭和村教育委員会より出版された『木地師の跡を尋ねて』は佐倉の馬場勇五さんが編著。この木賊平木地の「飛び」の経路が詳細に再掲されている。本書はからむし工芸博物館・からむし織りの里で販売。
3.聞き書き
話者名・生年月日。公表するときは同意を得る。
聞きたいことを聞くのではなく、話したいことを受ける。
4.まとめ方事例
白日社・志村俊司さんによる檜枝岐等の聞き書きが秀逸である。
平野惣吉 述『山人の賦 Ⅰ』(1984年)尾瀬・奥只見の猟師とケモノたち
平野輿三郎 述『 同 Ⅱ』(1985年)尾瀬に生きた最後の猟師
平野福朔・勘三郎『 同 Ⅲ』(1988年)檜枝岐・山に生きる
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トチハカリ
鈴木克彦「昭和村松山物語 2005年 聞書から」(『福島県立博物館紀要』第20号、2006年)で、奥会津・昭和村大字松山字居平の栗城八郎さん(昭和七年生まれ)は「ブナの森について」で以下のように語っているのが鈴木克彦さんにより採録されている。
昔は、松山でも近くにブナの大木がいっぺえあったが、みんな切っちまった。今は、白沢のずうーと奥に行かねえどブナ林はねえな。近くまでブナの大木が生えでだ頃(昭和25,6年頃まで)は、クマゲラど言って、体は黒くて、頭が赤いキツツキがいただ。いまはゼンメエ採りに行っても、キノコ採りに行っても、まるっきり見かけなぐなっちまった。クマゲラなんかは、鉄砲で撃つ人なんのは、いねがったな。せえがら、山さ行くど、遠くまで聞こえるように「カラカラカラカラ」って音がするこどあっぺ。穴の内側でコココココって首振る時の音なんだ。俺もじいーと、その様子をみてだごどあんだがな、野郎はコココココってやった後、暫く、聞き耳立ててんだっけ。したがら、俺は、木の中に虫がいっかどうだが、音で調べでんだど思うだ。せえがら、あの音聞くってえど、「トチハカリ(栃計り)だ」って、みんなよく言ってだなあ。それは、ちょうど、よく乾かした栃の実を、一升枡から空けるときの音に似ているから、そだごど言うんだど思う。
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ウメハカリ
滋賀県民俗学会『愛知川谷の民俗 滋賀県神崎郡永源寺町』(1967年)の126ページの動物譚には以下のようにある。話者は伝承者左近治之助。
うめはかり(けらこの1種という) 梅の実を板の間に転がした時の音のような鳴き方をする。
わし 明治時代にはよく見かけたが最近は余り見ない。
ほととぎす たくさんいる
かっこう たくさんいる
まめどり(つつどり) むかしお婆さんが豆を竹の筒に入れて保存していたが、使おうとしたときにその置いた場所を忘れてしまい困っていたときに、この鳥が来て「ツツ・ツー」と鳴いて教えたのでお婆さんは思い出し、以後この鳥をまめどりと呼ぶようになったという昔話がある。
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講座は昭和村下中津川 役場前の生活改善センター 一階のNPO苧麻倶楽部が担当している。→ 講座風景
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■ 「奥会津の地域の調べ方」 昭和村大岐・菅家博昭 撰
1.調べる・歩く・見る・聴く・まとめる・残す・伝える
集落(ムラ)の歴史・地誌・記憶→ 字誌(あざし)、大字誌
渡辺満『集落誌せきざわ』(1988年) 耶麻郡山都町三津合字諏訪
2.文献調査 (書かれていない事も存在する)
(1)地図類
各自治体は1万分の1(分割)、2万5千分の1、5万分の1の地図を所持している。それを入手し該当集落を拡大コピーしておく。
または国土地理院の地形図2万5千分の1
地図閲覧サービス http://watchizu.gsi.go.jp/
(2)空中写真 1970年代
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/search.html
(3)遺跡等(旧石器・縄文・弥生・古代・中世城館跡)
福島県文化財センター白河館まほろん http://www.mahoron.fks.ed.jp/search.html
(4)奥会津の自治体史誌
三島町史 昭和43年
柳津町史 全2巻(総説編・集落編)昭和49~52年
金山町史(上下民俗)昭和49年・51年 金山史談
図説会津只見の歴史 昭和43年
只見町史 全6巻・資料集5冊・文化財調査報告書14
南郷村史 全5巻・別巻1冊 昭和58~62年)
伊南村史 全7巻、編纂中
舘岩村史 全5巻(平成1~13年)
檜枝岐村史 昭和45年
昭和村の歴史 昭和48年
田島町史 全10巻・11冊(昭和52~平成3年)南山御蔵入について記述多い
福島県史、大沼郡誌、南会津郡案内誌(渡部円蔵・夢庵)
会津若松史、ビジュアル市史25巻等
『会津若松史研究 第十一号』(2010年)に会津若松市立図書館館長で市史編さん兼務の野口信一氏は、第三次会津若松市史編さん事業の終了について巻末に「資料の保存継承は我々の責務であり、規模は縮小されても資料の収集、整理、研究は残していく必要がある」としている。会津若松市では明治時代から大正時代にまとめられ昭和16、17年に『若松市史』上下巻が刊行された。その編さんのための資料は会津図書館に残されたという。二次は『会津若松史』は昭和37年から編さんがはじまり昭和39年から42年まで13冊が刊行された。しかし、資料は東北大学に委託したようなかたちで資料を預けたため会津若松市に資料が残されなかった、という。当時は通史主体の編さん方法で、資料編も原資料の抜粋だけで体系的な資料の掲載ではない。その後、自治体史の編さん方法も大きく変わり、まず資料を広く収集、調査分析し時代順による資料編を刊行、それを受け最後に通史の刊行と変化してきた。また現在では資料編が通史編よりも巻数的に多いものが主流になっている。新たな事実の解明により、通史は常に書き換えられる運命にあるから資料編が重要になっている。反省を踏まえ、史料の収集に力を入れた。史料所在調査、借用収集、整理、複写を経て史料目録原稿の作成、資料目録の出版。史料の保存・継承も重要で、原本は1種毎に所定の封筒に入れ所蔵者に返却、複写物を市史編さん室で永久保存して利用する。また貴重な資料については解読筆耕し、史料集として出版する、と紹介している。
(5)新編会津風土記
新編会津風土記(しんぺんあいづふどき)は、会津藩官選による会津藩領に関する地誌。全120巻。1803年(享和3年)から1809年(文化6年)にかけて編纂され、江戸幕府に上進された。界域、山川、原野、土産、関梁、水利、郡署、倉廩、神社、寺院、墳墓、古蹟、釈門、人物、旧家、褒善の16部門にわたり記述されている。
江戸幕府の地誌編纂事業のモデル的役割を果たすものとして編纂された地誌であると同時に、江戸時代における日本の地誌の代表とされる。(ウィキペディアより)。
復刻本は、会津若松市の歴史春秋社より全5巻
(6)報告書類
只見町教委『会津只見の中世城館跡』1995年
各町村教委、福島県等からの報告書、博物館研究紀要
各町村の民俗資料館等
(7)木地屋関係
近世木地屋の本拠小椋谷は現在滋賀県東近江市。資料としては杉本壽・橋本鉄男両氏による資料が著名であるが、『永源寺町史』全4巻がとてもよくまとめらている。平成18年に刊行された『永源寺町史 通史編』には生嶋輝美氏が593ページから658ページに蛭谷・君ヶ畑の木地師支配でまとめている。
江戸時代から明治初期に木地屋集落を全国巡廻してあるいた氏子かり帳については『永源寺町史』は2冊にわたり記載しており、最新のものである。会津地方の木地屋についてはふるく山口弥一郎氏の論考もある。また木地屋が農業をはじめ定着化することについては野本寛一先生も会津の北部の報告をまとめている(「木地師終焉地」『民俗文化第11号』1999年)。現在『永源寺町史』全4巻は「日本の古本屋」等で2万円程度で入手できる。木地制度についてよくまとめられており、これをまず読み、『木地語り』『木地師の跡を尋ねて』や各自治体史(市町村史)にてあたられると良い。研究史については田畑久夫『木地屋集落 系譜と変遷』(古今書院、2002年)
南会津町の奥会津博物館と2010年に改称したが、平成13年(2001)福島県田島町教育委員会『木地語り 企画展報告書』は下郷町在住の金井晃さんの執筆。同館で販売している。奥会津を中心とした会津地方の木地屋についてよくまとめられている。
昭和52年(1977)『福島の民俗』第5号に、昭和村中向の春日神社神主・菊地成彦先生は「奥会津の木地師」を投稿している。15ページから20ページ。度々木地屋を訪れて、すすけた火棚の上から、麻糸を十文字にからげた古文書入りの木箱を渡された時の感激は忘れられない、と木賊平木地を紹介。この文書は杉本壽氏も過去に紹介していると菊地先生は書いている。
1982年に発刊された南会津郡『田島町史』第6巻(下)近世資料Ⅱ。235ページから265ページまで木地屋資料が掲載されている。そのほとんどが昭和村のものだ(資料番号134から171まで)。当時の金山谷野尻組小野川村の大乗寺が旦那寺として機能しているのがわかる。平成14年(2002)に奥会津・昭和村教育委員会より出版された『木地師の跡を尋ねて』は佐倉の馬場勇五さんが編著。この木賊平木地の「飛び」の経路が詳細に再掲されている。本書はからむし工芸博物館・からむし織りの里で販売。
3.聞き書き
話者名・生年月日。公表するときは同意を得る。
聞きたいことを聞くのではなく、話したいことを受ける。
4.まとめ方事例
白日社・志村俊司さんによる檜枝岐等の聞き書きが秀逸である。
平野惣吉 述『山人の賦 Ⅰ』(1984年)尾瀬・奥只見の猟師とケモノたち
平野輿三郎 述『 同 Ⅱ』(1985年)尾瀬に生きた最後の猟師
平野福朔・勘三郎『 同 Ⅲ』(1988年)檜枝岐・山に生きる
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トチハカリ
鈴木克彦「昭和村松山物語 2005年 聞書から」(『福島県立博物館紀要』第20号、2006年)で、奥会津・昭和村大字松山字居平の栗城八郎さん(昭和七年生まれ)は「ブナの森について」で以下のように語っているのが鈴木克彦さんにより採録されている。
昔は、松山でも近くにブナの大木がいっぺえあったが、みんな切っちまった。今は、白沢のずうーと奥に行かねえどブナ林はねえな。近くまでブナの大木が生えでだ頃(昭和25,6年頃まで)は、クマゲラど言って、体は黒くて、頭が赤いキツツキがいただ。いまはゼンメエ採りに行っても、キノコ採りに行っても、まるっきり見かけなぐなっちまった。クマゲラなんかは、鉄砲で撃つ人なんのは、いねがったな。せえがら、山さ行くど、遠くまで聞こえるように「カラカラカラカラ」って音がするこどあっぺ。穴の内側でコココココって首振る時の音なんだ。俺もじいーと、その様子をみてだごどあんだがな、野郎はコココココってやった後、暫く、聞き耳立ててんだっけ。したがら、俺は、木の中に虫がいっかどうだが、音で調べでんだど思うだ。せえがら、あの音聞くってえど、「トチハカリ(栃計り)だ」って、みんなよく言ってだなあ。それは、ちょうど、よく乾かした栃の実を、一升枡から空けるときの音に似ているから、そだごど言うんだど思う。
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ウメハカリ
滋賀県民俗学会『愛知川谷の民俗 滋賀県神崎郡永源寺町』(1967年)の126ページの動物譚には以下のようにある。話者は伝承者左近治之助。
うめはかり(けらこの1種という) 梅の実を板の間に転がした時の音のような鳴き方をする。
わし 明治時代にはよく見かけたが最近は余り見ない。
ほととぎす たくさんいる
かっこう たくさんいる
まめどり(つつどり) むかしお婆さんが豆を竹の筒に入れて保存していたが、使おうとしたときにその置いた場所を忘れてしまい困っていたときに、この鳥が来て「ツツ・ツー」と鳴いて教えたのでお婆さんは思い出し、以後この鳥をまめどりと呼ぶようになったという昔話がある。
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