2011年1月31日月曜日

地域の調べ方・講座

■2011年1月31日(月)13~16時、福島県南会津郡只見町只見:只見地区センターにおいて奥会津大学の講座があり、菅家がお話しします。2010年秋より開講したもので只見川電源流域振興協議会(事務局・三島町役場内)主催。
講座は昭和村下中津川 役場前の生活改善センター 一階のNPO苧麻倶楽部が担当している。→ 講座風景



 「奥会津の地域の調べ方」 昭和村大岐・菅家博昭 撰

1.調べる・歩く・見る・聴く・まとめる・残す・伝える

集落(ムラ)の歴史・地誌・記憶→ 字誌(あざし)、大字誌
渡辺満『集落誌せきざわ』(1988年) 耶麻郡山都町三津合字諏訪

2.文献調査 (書かれていない事も存在する)
(1)地図類
各自治体は1万分の1(分割)、2万5千分の1、5万分の1の地図を所持している。それを入手し該当集落を拡大コピーしておく。
または国土地理院の地形図2万5千分の1
  地図閲覧サービス  http://watchizu.gsi.go.jp/

(2)空中写真  1970年代
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/search.html

(3)遺跡等(旧石器・縄文・弥生・古代・中世城館跡)
      福島県文化財センター白河館まほろん http://www.mahoron.fks.ed.jp/search.html

(4)奥会津の自治体史誌
三島町史  昭和43年
柳津町史 全2巻(総説編・集落編)昭和49~52年
金山町史(上下民俗)昭和49年・51年            金山史談
図説会津只見の歴史 昭和43年
只見町史 全6巻・資料集5冊・文化財調査報告書14
南郷村史  全5巻・別巻1冊 昭和58~62年)
伊南村史  全7巻、編纂中
舘岩村史  全5巻(平成1~13年)
檜枝岐村史 昭和45年
昭和村の歴史 昭和48年
田島町史 全10巻・11冊(昭和52~平成3年)南山御蔵入について記述多い
福島県史、大沼郡誌、南会津郡案内誌(渡部円蔵・夢庵)
会津若松史、ビジュアル市史25巻等

『会津若松史研究 第十一号』(2010年)に会津若松市立図書館館長で市史編さん兼務の野口信一氏は、第三次会津若松市史編さん事業の終了について巻末に「資料の保存継承は我々の責務であり、規模は縮小されても資料の収集、整理、研究は残していく必要がある」としている。会津若松市では明治時代から大正時代にまとめられ昭和16、17年に『若松市史』上下巻が刊行された。その編さんのための資料は会津図書館に残されたという。二次は『会津若松史』は昭和37年から編さんがはじまり昭和39年から42年まで13冊が刊行された。しかし、資料は東北大学に委託したようなかたちで資料を預けたため会津若松市に資料が残されなかった、という。当時は通史主体の編さん方法で、資料編も原資料の抜粋だけで体系的な資料の掲載ではない。その後、自治体史の編さん方法も大きく変わり、まず資料を広く収集、調査分析し時代順による資料編を刊行、それを受け最後に通史の刊行と変化してきた。また現在では資料編が通史編よりも巻数的に多いものが主流になっている。新たな事実の解明により、通史は常に書き換えられる運命にあるから資料編が重要になっている。反省を踏まえ、史料の収集に力を入れた。史料所在調査、借用収集、整理、複写を経て史料目録原稿の作成、資料目録の出版。史料の保存・継承も重要で、原本は1種毎に所定の封筒に入れ所蔵者に返却、複写物を市史編さん室で永久保存して利用する。また貴重な資料については解読筆耕し、史料集として出版する、と紹介している。

(5)新編会津風土記
新編会津風土記(しんぺんあいづふどき)は、会津藩官選による会津藩領に関する地誌。全120巻。1803年(享和3年)から1809年(文化6年)にかけて編纂され、江戸幕府に上進された。界域、山川、原野、土産、関梁、水利、郡署、倉廩、神社、寺院、墳墓、古蹟、釈門、人物、旧家、褒善の16部門にわたり記述されている。
江戸幕府の地誌編纂事業のモデル的役割を果たすものとして編纂された地誌であると同時に、江戸時代における日本の地誌の代表とされる。(ウィキペディアより)。
復刻本は、会津若松市の歴史春秋社より全5巻

(6)報告書類
只見町教委『会津只見の中世城館跡』1995年
各町村教委、福島県等からの報告書、博物館研究紀要
各町村の民俗資料館等

(7)木地屋関係
近世木地屋の本拠小椋谷は現在滋賀県東近江市。資料としては杉本壽・橋本鉄男両氏による資料が著名であるが、『永源寺町史』全4巻がとてもよくまとめらている。平成18年に刊行された『永源寺町史 通史編』には生嶋輝美氏が593ページから658ページに蛭谷・君ヶ畑の木地師支配でまとめている。
江戸時代から明治初期に木地屋集落を全国巡廻してあるいた氏子かり帳については『永源寺町史』は2冊にわたり記載しており、最新のものである。会津地方の木地屋についてはふるく山口弥一郎氏の論考もある。また木地屋が農業をはじめ定着化することについては野本寛一先生も会津の北部の報告をまとめている(「木地師終焉地」『民俗文化第11号』1999年)。現在『永源寺町史』全4巻は「日本の古本屋」等で2万円程度で入手できる。木地制度についてよくまとめられており、これをまず読み、『木地語り』『木地師の跡を尋ねて』や各自治体史(市町村史)にてあたられると良い。研究史については田畑久夫『木地屋集落 系譜と変遷』(古今書院、2002年)
南会津町の奥会津博物館と2010年に改称したが、平成13年(2001)福島県田島町教育委員会『木地語り 企画展報告書』は下郷町在住の金井晃さんの執筆。同館で販売している。奥会津を中心とした会津地方の木地屋についてよくまとめられている。
  昭和52年(1977)『福島の民俗』第5号に、昭和村中向の春日神社神主・菊地成彦先生は「奥会津の木地師」を投稿している。15ページから20ページ。度々木地屋を訪れて、すすけた火棚の上から、麻糸を十文字にからげた古文書入りの木箱を渡された時の感激は忘れられない、と木賊平木地を紹介。この文書は杉本壽氏も過去に紹介していると菊地先生は書いている。
1982年に発刊された南会津郡『田島町史』第6巻(下)近世資料Ⅱ。235ページから265ページまで木地屋資料が掲載されている。そのほとんどが昭和村のものだ(資料番号134から171まで)。当時の金山谷野尻組小野川村の大乗寺が旦那寺として機能しているのがわかる。平成14年(2002)に奥会津・昭和村教育委員会より出版された『木地師の跡を尋ねて』は佐倉の馬場勇五さんが編著。この木賊平木地の「飛び」の経路が詳細に再掲されている。本書はからむし工芸博物館・からむし織りの里で販売。

3.聞き書き
話者名・生年月日。公表するときは同意を得る。
聞きたいことを聞くのではなく、話したいことを受ける。

4.まとめ方事例
白日社・志村俊司さんによる檜枝岐等の聞き書きが秀逸である。
平野惣吉 述『山人の賦 Ⅰ』(1984年)尾瀬・奥只見の猟師とケモノたち
平野輿三郎 述『 同  Ⅱ』(1985年)尾瀬に生きた最後の猟師
平野福朔・勘三郎『 同 Ⅲ』(1988年)檜枝岐・山に生きる

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トチハカリ

鈴木克彦「昭和村松山物語 2005年 聞書から」(『福島県立博物館紀要』第20号、2006年)で、奥会津・昭和村大字松山字居平の栗城八郎さん(昭和七年生まれ)は「ブナの森について」で以下のように語っているのが鈴木克彦さんにより採録されている。

昔は、松山でも近くにブナの大木がいっぺえあったが、みんな切っちまった。今は、白沢のずうーと奥に行かねえどブナ林はねえな。近くまでブナの大木が生えでだ頃(昭和25,6年頃まで)は、クマゲラど言って、体は黒くて、頭が赤いキツツキがいただ。いまはゼンメエ採りに行っても、キノコ採りに行っても、まるっきり見かけなぐなっちまった。クマゲラなんかは、鉄砲で撃つ人なんのは、いねがったな。せえがら、山さ行くど、遠くまで聞こえるように「カラカラカラカラ」って音がするこどあっぺ。穴の内側でコココココって首振る時の音なんだ。俺もじいーと、その様子をみてだごどあんだがな、野郎はコココココってやった後、暫く、聞き耳立ててんだっけ。したがら、俺は、木の中に虫がいっかどうだが、音で調べでんだど思うだ。せえがら、あの音聞くってえど、「トチハカリ(栃計り)だ」って、みんなよく言ってだなあ。それは、ちょうど、よく乾かした栃の実を、一升枡から空けるときの音に似ているから、そだごど言うんだど思う。

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ウメハカリ
滋賀県民俗学会『愛知川谷の民俗 滋賀県神崎郡永源寺町』(1967年)の126ページの動物譚には以下のようにある。話者は伝承者左近治之助。

うめはかり(けらこの1種という) 梅の実を板の間に転がした時の音のような鳴き方をする。

わし 明治時代にはよく見かけたが最近は余り見ない。
ほととぎす たくさんいる
かっこう たくさんいる
まめどり(つつどり) むかしお婆さんが豆を竹の筒に入れて保存していたが、使おうとしたときにその置いた場所を忘れてしまい困っていたときに、この鳥が来て「ツツ・ツー」と鳴いて教えたのでお婆さんは思い出し、以後この鳥をまめどりと呼ぶようになったという昔話がある。