天正検地を福島県に現在する.田島郷の検地帳(写本)でみると、荒田、荒畠の比率は、全面積に対して、荒田が1.0%荒畠が2.4%、合計で3.4%と比較的低率である.これを文禄検地と比較すると、会津の大沼郡喰丸村文禄3年の検地帳では田の荒が7.7%、畠の荒が22.8%、合計で30.5%となっており、9倍弱の比率の増加がみられる。しかも文禄検地の荒には3年荒、4年荒などの記載がある。このことは次のことを想定させる。即ち年数を限った「荒」とは、畠の場合は焼畑の休耕地が多く含まれている可能性が高いこと、水田の「荒」は水の配分をめぐる定期的「荒」である可能性があること。これらの「荒」は天正検地においては、検地帳から除外されていたこと。文禄検地にいたって、これら不安定な荒地も検地帳に登録したこと。等である。蒲生領においては、文禄検地の結果18万,5500石(25.2%)の出目があったが、これは領主権力と在地農民の抵抗の力関係の変化によって、不安定な荒地を登録できるようになった結果と考えられる。
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■『田島町史』第1巻、第5巻に現在の昭和村の喰丸から付近一帯の中津川、大芦村の検地帳の内容が読み下し文で掲載されている。
■昭和56年(1981)に田島町から発刊された『田島町史 第5巻』643ページから663ページ、文禄三年大沼郡中津川喰丸検地帳(昭和村喰丸 山内久雄所蔵)の全文が掲載されている。また689ページ694ページに文禄三年大沼郡大芦村検地帳(大芦 五十嵐朝良所蔵)も掲載されている。
前者には付箋が付いており、「文禄三年より嘉永五年迄弐百六拾六年相成申候」、また『福島県史 10(下)近世資料』の一部脱漏を補った、と田島町史編纂委員会により記載がある。
文禄三年(1594年)の前者検地帳には、家数45軒の掲載がある。また田畑所在地が書いてある。そこに小中津川が出て来る。また「うわた」「をりはし」「やなきかさい」「ぶんどうさうり」「ししふしさわ」などは現在の小中津川所在小字である。また両原となる「はら」「でとあかくら」も見え、下中津川の「あくと」「まち」、小野川の「おの川」が見える。また喰丸の小字「ひかげ」「下向」、佐倉の「上ノ山」などが見える。現在の両原から喰丸、佐倉、小中津川、下中津川にあたる。小野川は土地所有者に付記しているだけなので、小野川村と、野尻から松山まで、大芦と現在昭和村域で4地域に分けて検地が行われたと思われる。
この検地帳に小中津川という地名は出て来るが、下中津川は出てこない。
■この文禄三年の大芦村検地帳については、昭和60年(1985)の『田島町史 第1巻』328ページから詳細を表を作成し検討している。町史編纂室室長・室井康弘氏による。