2009年11月30日月曜日

11月29日、山都町で読者会





■■2009年11月29日(日曜日)午後2~4時まで、喜多方市山都町一の木の黒森山荘にて開催されました。有機農業で自立を目指す人たちが20名と、たいへん多く参加されました(1歳から70歳?)。相互に意見交換ができてたいへん学ぶことが多くありました。今後ともよろしくお願いいたします。



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■私の方で今回準備した資料は、現在は喜多方市に所属するが、福島県耶麻郡の『山都町史 第2巻』(1991年)の238ページから248ページまでの資料。いまから135年前の明治7年(1874年)の物産取調書で、現在の山都町の中反村(なかそりむら)のものである(宮城五右衛門家文書)。これは明治8年に各村戸長から若松県令に提出されたものの控えである。

 200年前に、会津藩が編纂した地書の『新編会津風土記』(1809年)の中反村を見ると21軒ある。ほぼこの家数で明治期から現在まで存続している。

 米穀類では、米、大麦、小麦、大豆、小豆、アワ、トウモロコシ、ソバで、それぞれに上中下、あるいは上下の品質に分け、数量(石高)と通貨価値(円銭)で明記している。

 その粉類、醸造物、野菜類、山菜類、種子・果物、薬種、禽獣、虫魚、きのこ類、飲料食物類(豆腐は千個、蕎麦切りは244貫目)、葉タバコ、糸や布、ムシロなど、稲ワラを利用した縄類、肥料飼料(草類、乾草は1290束、生草は10400束)、ワラ細工類、マキやシバ類・木炭などの燃料(マキ、スミ、シバ、葉シバ、根松)、ヨシやカヤ草類(カヤは280束、アサガラ102束、ワラ11720束、ホウキグサ、ムギカラ、ソバガラ、ダイズガラ)

 多様な作物や山の草を採取して暮らしを立てていることが具体的な数値で示しているところに特徴がある。約20軒でこの数量・通貨価値を割れば平均的一戸の内容が明確になる資料である。

 『山都町史』は3巻あり、それぞれ800ページほどある。今回1週間で2400ページを読み直し、この資料が今回の読者会(学習会)にいちばん適しているだろうとおもって採用した。この記録はほぼ昭和30年代までは継続しているだろう事跡だからである。

■その後、参加者との懇談がすすむなかで地元地域の具体例が出て来て中味が濃い物となっていった。

 私は、いま聞き書きを行っている「人々の草利用」のなかで馬を飼うための浅草刈り、乾燥植物飼料としてのイナワラ、イナワラの民具利用等について考えていることを語った。馬の飼料とするために、水田の畦草を刈る、原野の草を刈るという草の生長を見ながら草を毎日刈る仕事(朝草刈り)の立場から、定量化していくと地域の植物草や地勢学的な利用と人間の行動領域の広がりと縮小が見えてくる。そうすると土手が多くある水田、例えば棚田などは土手草刈り場と水田を共判させたとても合理的な農地であることが見えてくる。土手の多さが豊かさにつながる。

 また収量が少ないとされる稲(イネ)の栽培は、収穫されるお米(コメ)だけの価値ではなく、イナワラ(稲藁)の植物的価値を合わせて考えてみることが必要で、収穫したイナワラはすべて乾燥して家屋内の天井裏に「大切に収納」していることからとても大切な素材であったことがわかる。

 暮らしの周囲の自然(森)から採取してきた植物を乾燥させて生活に必要な道具を製作していた。たとえばヒロロ(ミヤマカンスゲやオクノカンスゲ)で、ミノを編む、カゴを編む、、、、そうした野の植物利用が、イネの導入によりイナワラに置き換わっていったなかで、置き換えられなかったものが野の植物を利用し続ける形になっている。特に雪国ではイナワラは叩き方次第で空気を繊維内に内包させることができ最適な断熱素材、いまでいえばユニクロのヒートテックのような機能性を持たせることができる万能素材であった。

 稲(イネ)を栽培していない地域、たとえば南会津の檜枝岐村などの事例を見ても、秋にイナワラを下流域の舘岩村から購入して、それを冬用の民具に加工して使っていた。

 地の野菜の種子の保存についても参加者から保全策をとの強い意見があった。

 また相川地域の薬種の製造・行商についても話をしました。

 地域で、人々の暮らしの積み重ね(習慣)を風景のなかに見つけていくための観察・体験・聞くことで、それが深まっていき、地域理解が進む。風景のなかにかならず人々の歴史がある。

■会津若松市の出版社である歴史春秋社版だと山都町に該当する木曽組は、『新編会津風土記』第3巻に掲載されている。