■2007年5月19日(土)13時30分から。会津若松市内の福島県立博物館講堂において同館館長赤坂憲雄氏による土曜講座「東北学1」が開催されました。民俗学担当の佐々木長生氏の進行で講演ははじまり、ときに地質担当の竹谷陽二郎氏が磐梯山の噴火や猪苗代湖の生成問題について話されました。
資料が受付で配布され、それの解読を行いながらの講演でした。
『高橋富雄東北学論集』第1部第1集(2003年、歴史春秋社)から、本館前館長であった高橋氏の提唱した「東北学」について、歴史学の立場からのもうひとつの日本学であることについてふれ、それを赤坂氏は民俗学の立場からのアプローチであるが、目指しているところは同じであるとして、高橋氏の論述から以下の点を赤坂氏は強調された。
東と西の構造理解に、先進と後進というような価値観の相違でなしに、風土や文化の違いを考え、これによって日本文化の構造差を問題にする日本文化論が成立するようになっています。縄文的原型と弥生的原型というのですが、わが東北学においては、この文化類型学を、東西二つの日本の風土の論理に基づく二つの日本の風土の論理に基づく二つの日本文化論に再編し、西型・暖国型・都市型に展開する弥生型日本に対して、北型・雪国型・農村型の縄文型日本として理念型化し、未来に向けて、大地と大自然をむしろ文化と考える縄文型が、「近代化」「開発」すなわち「人工」を「文化」とする弥生型日本の行き詰まりを、どのように救う「未来日本型」になり得るかを考える日本学を樹立したい、、、、
赤坂氏は、これは高橋氏の東北学のマニフェストである、と言いました。
資料が受付で配布され、それの解読を行いながらの講演でした。
『高橋富雄東北学論集』第1部第1集(2003年、歴史春秋社)から、本館前館長であった高橋氏の提唱した「東北学」について、歴史学の立場からのもうひとつの日本学であることについてふれ、それを赤坂氏は民俗学の立場からのアプローチであるが、目指しているところは同じであるとして、高橋氏の論述から以下の点を赤坂氏は強調された。
東と西の構造理解に、先進と後進というような価値観の相違でなしに、風土や文化の違いを考え、これによって日本文化の構造差を問題にする日本文化論が成立するようになっています。縄文的原型と弥生的原型というのですが、わが東北学においては、この文化類型学を、東西二つの日本の風土の論理に基づく二つの日本の風土の論理に基づく二つの日本文化論に再編し、西型・暖国型・都市型に展開する弥生型日本に対して、北型・雪国型・農村型の縄文型日本として理念型化し、未来に向けて、大地と大自然をむしろ文化と考える縄文型が、「近代化」「開発」すなわち「人工」を「文化」とする弥生型日本の行き詰まりを、どのように救う「未来日本型」になり得るかを考える日本学を樹立したい、、、、
赤坂氏は、これは高橋氏の東北学のマニフェストである、と言いました。
前段を終え、今回は東北における大同(だいどう)年号の考察をする、ということで、大同元年(806年)、大同2年のひろい伝承について資料を示しながら話を進めました。
まず、大同元年に磐梯山が爆発し、猪苗代湖が出来たという伝承。『会津旧事雑考』と、『新編会津風土記』の表現の違いを紹介し、後者に「暴(にわかに)」という文字が爆発をイメージさせ、それ以降の記述に影響を与えたのではないか?という指摘。
次いで、地質学の最近の知見からその時期には爆発はないこと、猪苗代湖の生成は約3万5千年前ころの磐梯山の爆発と断層による影響で陥没形成されたものであることが、竹谷氏から説明された。
しかし、東北一帯には、大同という年号が『遠野物語』をはじめ多数見られることから、そのような伝承を流布した複数の系列の集団がいたのではないか?と考察をはじめる。
まとめとして、大和政権、坂上田村麻呂の征服とともに大同年号をはじまりの年として、それ以前と以後の歴史を分けていること、むかしむかし、と語るべき物語が東北では「大同」が使われる。それを説明した最後の資料を紹介された。
堀一郎『我が国 民間信仰史の研究(一)』(昭和30年、創元新社)の第1節 大同二年考である。ここで僧・徳一(とくいつ)の開基とする24の寺院を紹介する。 (記:菅家博昭)
■次回は7月21日、9月15日である。
■講演終了後、会津学研究会例会を開催し、25名の参加がありました。佐々木氏、赤坂氏も参加されました。
これまでの活動の紹介と、現在編集中の『会津学3号』について聞き取りをしてまとめている内容などを具体的にお伝えしました。
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