■まず、事典類で調べます。
①野口信一『会津人物文献目録』(会津若松市門田町中野 歴史春秋社、昭和55年、8200円)で、氏名を調べる。
会津藩士の飯田氏には数家あり、該当の飯田氏は、『諸士系譜14 』(会津藩・天保4年・1833年)飯田大次郎系譜:重久、重成、茂光、重明、重羽、重陽、重連、布旧、重要
飯田久兵衛重長-久佐衛門重久-兵左衛門重成-兵左衛門茂光-兵左衛門重陽-兵左衛門重連-九十郎布旧-大次郎重要
★ 飯田兵左衛門重成 貞享3・3・22没(64歳) 藩士 南山奉行。父は久左衛門
で、引用の掲載文献があり、その文献をすべて見ます。必要なページは、申請してコピー(一枚10円)をとります。
また貸し出し可能な本は借りてきて読みます。
②『福島県史22巻 人物』(1972年、福島県)52ページ
③菊池重匡編 『続 会津資料叢書(上巻)』(歴史図書社、1974年)
④『会津藩 家世実紀 第4巻』(歴史春秋社刊、1978年)281~282ページ 貞享三年三月二十二日、御蔵入郡奉行 飯田兵左衛門病死、
原本は巻之六十八 徳翁様之十二
⑤山口孝平『近世会津史の研究(下)』(歴史春秋社、1978)、
代官所のあった田島町(南会津町)『但馬町史』、『下郷町史』等、借りてきて詳細を読みます。
『田島町史』
■庄司吉之助編『会津風土記・風俗帳 巻二 貞享風俗帳』(歴史春秋社、1979年) 貞享二年(1685)
会津郡郷村之品々書上ヶ申帳 伊南古町組(貞享二年)211ページ
飯田兵左衛門様御蔵入御仕(支)配以来、郷村御巡見之度々、又ハ郷頭肝煎罷出(まかりいで)候度々ニ 地下身持家業之筋 委細ニ御教ヘ被遊候ニ付、段々家業無油断風俗直り申候、郷村御巡見始候比(頃)より村々ニ而(にて)、からむしを植、漆之苗木を調植候へと被仰付、或ハ桑を沢山ニ植立蚕養を能仕絹紬を致習候ヘと被仰聞、、、
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地下風俗覚書 会津郡楢原郷(貞享二年)252ページ
栗林(略)、延宝二年(1674)寅年 飯田兵左衛門様被仰付候ニ付、村々ニて立林候
からむし作候様ニ右同人様(飯田兵左衛門)より被仰付候付、たね(※根)もとめ次第段々植申候得ハ、ゑき(益)に罷成候(まかりなりそうろう)。
くわの木 右同断
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■寛文七年(1667)から貞享三年(1686)まで二十年(一説に十七年)、現在の福島県南会津郡・大沼郡・河沼郡を含む幕府直轄領の南山御蔵入を会津藩の郡奉行、飯田兵左衛門が治めています。
貞享二年(1685)の『地下風俗覚書 会津郡楢原郷』の資料を見ると、延宝二年(1674)、現在の昭和村の東隣の下郷町(楢原組)に飯田兵左衛門は栗、桑、からむし(青苧)の栽培を奨励しています。
また同じ貞享二年の『会津郡郷村之品々書上ヶ申帳 伊南古町組』では、その飯田兵左衛門がどのように、漆の苗木や、からむしなど植えるように、諸産物を推奨していたのかがわかります。麻の大産地である伊南古町にも、巡見をはじめたころ(1670年頃から?)より、からむしを植えるよう巡見の度々に教示していたわけです。
また、飯田氏は藩主保科正之とともに先任地は高遠から最上と、諸産業とともに、からむし(青苧)の栽培地でもあることも推奨した根本にあると思われます。
からむしを原料とした上布から、縮が開発された寛文・延宝年間の時期、産地の越後小千谷等も会津藩預かりとなること等、時代背景にあると思われます。
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■2013年10月17日 (木)再掲
谷屋又右衛門とは誰か?延宝二年(1674年)青苧造様之覚
■江戸時代がはじまったころ、延宝二年(1674)寅年の八月七日、泉田(和泉田、旧南郷村・現南会津町)村の久太郎と簗取村(只見町)の助太郎が、青苧(からむし)の栽培の仕方について指南を受けた。
教示したのは、河原田谷屋又右衛門。
河原田は村名か?氏かわからない。
それを筆写した、という文書である。
南郷村界の故斎藤兵平氏宅にあった古文書である。現在は福島市の福島県歴史資料館蔵。
本件を最初に取り上げたのは同館の村川友彦氏。一九八一年に刊行された『福島県歴史資料館研究紀要 第三号』に、「会津地方の近世における麻と苧麻生産 伊南・伊北麻を中心に」で、である。一部翻刻に誤りがあるが、重要な資料紹介であった。
一九八五年に刊行された『南郷村史 第二巻』の六六五ページに畑作九として掲載される。谷屋又右衛門、としている。
次いで、『田島町史 第六巻』(1987年)171ページ、文書番号32、が取り上げている。
三番目に『只見町史 第四巻』(1999年)675ページ、文書番号264は、年号を延享二年(1745年)としているが誤りである。歴史資料館の原資料を10月14日に閲覧したが「延宝」であった。
そして『伊南村史 第三巻』(2003年)610ページ、文書番号316。
以上四つの資料紹介があり、翻刻されている。が、そのくずし字の解釈には、少しずつ異なりがある。ただ大枠の内容は合致している。
この文書に、「本畑に(苧麻を)植え申し所は、毎年、麻を作り申よく御座候」(書き下し意訳)と書かれている。
■1685年(貞享2年)風俗帳書出等より以下
大内村(現下郷町)での作物禁忌「鎮守のお嫌い」
桜山村・中倉村(現下郷町):麻がよくできるのだが、水が不便(あるいは水質が悪い)なため、畑より引き抜き乾燥しただけの麻束(からを(苧))で売っている。
貞享2年 耶麻郡 鎮守のたたりにて忌み物の事
会津高田↓
尾岐組(谷ヶ地等)から柄麻(からを、畑より引き抜き乾燥させただけの麻束)を買い出し、雪の降る前の秋中に、水浸けし熟ませ外皮を採り(おひき)し 「を(苧、この場合はアサ)」にして「原麻」を売る。
それを買い求め冬に、「を(麻)」を裂き、糸にし布に織る。
からを(柄麻・柄苧、いずれもアサを分離しない商品)は、外皮の繊維を利用し、中芯の麻殻(アサガラ)が利用できる。いわゆる「おがら」で、焚き付けや、盆など宗教行事でも使用される。「を」とは麻類の総称で、からむしも含まれる場合があります。麻殻は集めて保管しておいて屋根材の化粧にも使われました。また1月のサイノカミ材料で、よく燃えました。糸を績み、糸車で紡ぐときの、撚りかけ糸を回転する針状の金具に10cmほどに切ったアサガラを刺し、これに糸を巻き取ることにも使います。
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■2014年3月24日(月) 晴れ
史料と史実
史料と史実
昨秋より発刊がはじまった岩波講座『日本の歴史』、毎回、8ページの『月報』が刊本に封入されてきます。
先日到着した3月、第5回配本の『月報5』には、東野治之奈良大学教授の「史料と史実」が掲載されています。
史料から史実を読み取る営みは、歴史を叙述する基礎であり、客観性が要求されます。しかし歴史に発展法則を求めることができなくなり、趣味娯楽化さえしている今日、実証的な史料批判の方法は、さらに磨かれなければならない、としています。
そして、実例を示した後に次のようにまとめています。
「残らなかったものや、消されたものに思いを馳せつつ、残ったものを考えてゆくという、当たり前のことを地道に重ねていくことが、歴史を現代に生かすために求められているように思う」
■仙台市博物館市史編さん室長 菅野正道「片倉景綱の事跡」(『白石市文化財調査報告書第47集 片倉小十郎景綱関係文書』2013年)で、ある文書について、
この文書の文言は天正年間から永禄頃にしばしば見られるようなもので、後世に作成された偽文書と断じることも、若干のためらい、を感じる。この文書の真偽は今後の検討課題としておきたい。
■東北大学大学院の柳原敏昭教授は「中世日本国周縁部の歴史認識と正統観念」(『講座 東北の歴史 第3巻 境界と自他の認識』清文堂、2013年)のなかで、
「近年の研究には、(史料としての歴史叙述・由緒書・縁起・系図・家譜など)虚構や創作の部分を切り捨てるのではなく、史料全体を言説として捉え、フィクションの意味をも考えることで、作成主体の認識を浮かび上がらせ、そこに時代的あるいは地域的特性を見出そうという指向性が顕著である」としています。
■昨日午後、奥会津・西方の西隆寺で行われた会津学研究会例会では、4月末頃の締め切りとし、第7号の最終号の発刊を今年初秋に、ということに決まりました。
また、朝日新聞福島県版に金曜連載している「会津物語」の素材たる聞き書きの進め方など、様々な話題のなかで、確定的な史料のない時代を地域史ではどのように扱うべきか、、、、ということも話題になりました。
地域に残された文書資料、特に近世に書かれた中世の事跡などについての書物の記事の扱い方など、、、、、一考が必要です。
■会津若松市の市史編さんを担当された山口孝平氏は、『昭和村の歴史』(1973)の36ページで、
会津の中世というと『会津四家(蘆名、山ノ内、河原田、長沼)合全』なる書が会津地方に流布していて、よくこれを史料として採り挙げられることが多い。この書の奥書に、寛永四年に四家の遺臣が著したように書いてあるが、これはまっかな偽りでそんな人物はいない。
この書は江戸時代の中期頃、民間で系図づくりの流行したとき、地方を廻って歩いた系図書きといわれたものがつくった偽書であって、なんら中世の資料的価値のないひどいものである(36ページ)。
この『~合全』は、会津藩士 向井新兵衛吉重が編纂した『会津四家合考』とは別な書です。