■2014年5月9日(金)小雨。午後3時から80分ほど、篤農家翁に教示をいただきました。
昭和村大芦の五十嵐英盛(えいせい)さん(昭和3年生まれ)。昨年、先祖の初代大芦村長 五十嵐伊之重(いのじゅう)のことを、いろいろとうかがいました。今年は、カラムシ(青苧)栽培のことなどを聞いています。
→英盛さん
佐倉のからむし工芸博物館の吉田有子さんに、畑仕事に忙しい英盛さんとの話をうかがう日時調整をお願いして、吉田さんとともに英盛さんの自宅でお話をうかがいました。
今年は、雨が降らない、、、、という話からはじまって、5月下旬の「カラムシ焼き」の後の、圃場(畑)への水やりが大切であろう、という話になりました。それは、このような雨水が降らないなかでカラムシの根は水が欲しくて困っている。焼いたその日に、どれだけ畑に水をやれるか?にかかっている。しかし日陰地であれば水をやりすぎれば根腐れする。
これまでも、このような「春はしゃぎ(乾燥)」の年に、あと1回水を運んでかければよいが、と思っても、疲れてその1回をおろぬいて、うまく発芽が揃わなかったことがある。
春の雪消えから、天候を見て、畑を見て、今後のことを考えている。
「その畑に聴(き)いて、ものごと(仕事、作業)をやる」
「ヒト(他人)に仕事を合わせていたのではだめだ」
夏になって、隣の人が、カラムシ挽(ひ)き始めたからって、我が家もやっぺとすっからだめ。「ヒト(他人)定規(じょうぎ)」にすっから、うまくいかない。
「カラムシに、よく聴いて、挽かねえでは だめだ」
「昔は、村中(むらじゅう、大芦地区)、畑は、ヲとカラムシだけだった」
■1973年に発刊された『昭和村の歴史』(福島県昭和村)、98ページには、「漆木(うるしぎ)のない組」という室井康弘先生(田島町史編さん室長)による昭和村の近世文書の紹介があります。
文政元年(1818)寅九月(あるいは文化3年、1806)に書かれたと思われる文書に、去る未(ひつじ)年のこととして、文化8年(1811)に、「尾岐の漆役人川島与五右衛門が出張され喰丸村にお泊まりになったとき、各村々の三役人が呼ばれて、(漆の)苗木を植え付けぬとは不届き千万とおしかりを受けた(略)。
このたびもまた催促を受けたが、野尻組(現在の昭和村)は畑の不足なところで、その畑は麻(を)や青苧(からむし)がいっぱいで、これをもって年貢を納めているところがらだから、なにとぞ、漆(うるし)の植え付けによる小前の労費をご容赦願いたい、、、、
200年前に書かれた文書にある昭和村の畑の様子は、最近まで(昭和30年代まで)、村人の意識にある景観となっています。
英盛さんが昨年秋に挽いた繊維
自ら畑で育てた繊維を綯(な)い、作った「ほそびき」
シタナミ(皮付きで乾燥したもの)を2本交互に編み、端を葦で止めた「すだれ」
チューリプの絵も描かれた。
雪を筋に掘って、ビニル被覆して促成栽培した茎立菜(くきたち・な)