2007年10月14日日曜日

10月14日 鉄砲打ちとマタギ


■2007年10月14日(日)
 出張先で12日未明に、救急入院し、転院し福島県内南部の病院にいる。その地の会津学研究会のなかまが複数見舞いに来られ、差し入れられた『季刊東北学』の最近の号を数冊読んだ。手元に送られてくるものの、日常的には興味ある部分を流し読みするだけで、今回はじっくりと読む時間を得た。

■2007年1月15日発行の『季刊東北学第十号』(柏書房)は、「日本の狩猟・アジアの狩猟」の特集であった。特に興味を持ったのは、村上一馬さんの論考だ。村上さんは巻末の執筆者一覧を見ると1963年生まれで、仙台高校教諭。論文には「近世における熊狩り」「小国マタギを追って」など、、、とある。
 村上一馬「弘前藩の猟師(マタギ)と熊狩り~「弘前藩庁御国日記」から~」は、142ページから185ページにわたる力作である。会津の事例も引用されている。

■東北学第十号の巻頭の座談会は、熾烈な議論が交わされている。
 「民俗学に未来はあるのか」と題して、菅豊さん(東京大助教授)、赤坂憲雄さん、田口洋美さんの対談だ。
 菅さんは1963年生まれ。著作に『修験がつくる民俗史』『川は誰のものか』、共著『コモンズの社会学』『コモンズをささえるしくみ』など。

2007年9月28日金曜日

9月22日(土)月田農園① コウバコ・ホクチダケ

■2007年9月22日(土)午前。南会津郡山口・月田農園。月田礼次郎さん・洋子さん。ひめさゆり(ヒメサユリ)、カラー、オウレン、ホタルブクロ、ホトトギス、オヤマボクチ、リシマキア・ブルガリス(クサリダマ)、シュウメイギク(ダイアナ)、ビバーナム、オカトラノオ。






空中写真は国土画像観覧システム(昭和51年)より

■一九八五年八月清掃 茂 七十二歳。月田農園を見守るホオノキ。



■2007年9月22日午前。南会津町山口にて。(旧・南郷村山口 台)月田礼次郎氏宅。

■コウバコ。コウノキ(香の木・カツラ、桂)。コオッパ(香の葉)。ホクチダケ(シロカイメンダケ)。ヘエカキ(灰掻き)。7月の暑い日に朝採ったコオッパを一日で乾かし、臼で搗(つ)いて粉にする。キササゲの葉でやったこともあるが、一日で乾かない。ホクチダケは山で拾ってきて家の中にひもをとおして掛けてあった(乾燥)。胞子嚢(キノコの下面のヒダ)が落ちたぐらいがよい。

 →→→初出9月23日 手順写真掲載


2007年9月9日日曜日

沼沢火山と縄文時代



■2007年9月9日(日)午後2時から1時間、会津・金山町中川にある町営こぶし館併設の民俗資料室で、金山町中央公民館主催による「ふるさと考古学教室」の講師をつとめました。

 かねやまキッズクラブ・横田わんぱく教室(それぞれに金山小学校・横田小学校)の合同開催。

■1982年から3カ年ほど、同町中川の石神平遺跡(縄文時代中期・後期)の発掘調査・遺物整理にかかわっていて、その出土品が展示されており、また中川の宮崎遺跡(弥生時代の再葬墓)の出土品も展示されているので、そのないようを中心に、実際に町が保管する資料をみじかに見てもらい、考えてもらう構成にしました。

■石器(せっき・いしでつくったどうぐ)
土器(どき・つちをつかいやいてつくったいれもの)
住居跡(じゅうきょし・いえのあと)
遺物(いぶつ・のこされたもの)
遺構(いこう・じめんにのこされたあと)
遺跡(いせき・いぶつやいこう)
土器の形式(どきのけいしき)で年代(ねんだい)をしらべる
石器のざいりょうも、とおくからきているものがある→こくようせき(黒曜石)
炭素14年代法 5730年で半減
空気中の炭素が植物に固定、約4万年前まで調査できる


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まほろん 福島県文化財センター白河館http://www.mahoron.fks.ed.jp/
●文化財データベースの金山町の縄文時代の遺跡
 遺跡名 地区 標高
石神平遺跡 中川 470m 1982年~84年 発掘調査
惣山遺跡 太郎布 570m
大栗山遺跡 大栗山430m
芋窪遺跡 西谷 420m
荒新田遺跡 西谷 390m
上中井遺跡 玉梨 390m
石神平遺跡 小栗山堂平370m
上町遺跡 川口 330m
四十九院遺跡 横田 390m
寺岡遺跡 本名 370m
中ノ平遺跡 滝沢 350m
滝名子遺跡 滝沢 330m 
居平遺跡 滝沢 330m
稲場遺跡 越川 320m
中の沢遺跡 越川 320m
家向遺跡 大志 300m

●弥生時代の再葬墓遺跡 宮崎遺跡 中川 292m 昭和52年報告書刊行

■沼沢火山の調査研究 2003年 深部地質環境研究センター 山元孝広
約11万年前から火山活動(尻吹峠)、7万年前(木冷沢溶岩)、4.5万年前(水沼火砕堆積物))、4万年前(惣山)、2万年前(沼御前・前山)、紀元前3400年沼沢湖火砕堆積物。
 ※約5400年前に最後の噴火をした沼沢火山(沼沢湖はカルデラ湖)

■縄文時代 金山町を中心として見た場合
約1万5千年前(BC12,000) 御神楽岳の裏側の小瀬が沢洞窟遺跡(新潟県阿賀町)
約1万2千年前(BC10,000)   同     室谷洞窟遺跡 同
草創期
早期
前期   縄文海進 温暖化で関東地方は海
5400年前 沼沢火山の最後の爆発 只見川はせき止められ湖に
中期 石神平遺跡、寺岡遺跡など
後期
晩期

■約2400年前 弥生時代 
 2000年前頃    三島町宮下 荒屋敷遺跡など
         金山町中川 宮崎遺跡など 只見町窪田遺跡など

2007年9月6日木曜日

二百十日の「ヒロロ」採り






■2007年9月6日(木)台風9号が八丈島付近から関東地方に向かって北上しています。生業のかすみ草栽培のハウスを台風から守るためのハウス保守、スソに防風ネットを巻く作業がいそがしい。

■9月1日が二百十日(にひゃく・とおか)。この日以降は、野山の収穫がいそがしくなる。

■9月5日の午後に大沼郡三島町名入の三島町生活工芸館に電話をしました。今年の1月19日に志津倉山の北麓流域の地名をうかがった、間方の菅家藤一さんにまた合うための電話でした。6日の午前11時に訪問することでお願いしました。8月盆に出来た『会津学3号』をお渡ししました。

■都内の大学4年生のKさんも今回は同行する、ということで、宮下の奥会津書房に10時45分に行き、彼女を乗せて、生活工芸館に11時5分に到着しました。山びこ・どんぐり、、、の前には学生が多くいて都内の美術大学の木工の教室があったようでした。お話は30分聞いて、すぐ戻り、台風対策をしています。

■生活工芸館の玄関を入ると、同町役場の五十嵐政人さんがいたので、挨拶して、館内に入り、小柴君に菅家藤一さんの作業している場所に案内してもらいました。

■藤一さんは、事務所から抜ける外で、草の整理をしていました。今日は地名を聞くより、その作業のことを観察して聞こうと予定を変えて作業しているところを観察しながら、いくつかお話をうかがいました。

■藤一さんは言います。

「210日を過ぎたら、山の沢筋にて野草のヒロロを採る」
「昨日5人で340束近く採った」

■話を30分ほどうかがって、まずヒロロには2種類あることをはじめて知りました。
 通常210日頃の秋に採る通常のヒロロは「ホン・ヒロロ」。同じ草で違いがあるが6月中旬でも採れるヒロロがあり、それは「ウバ・ヒロロ」と呼ぶ、ことです。
 ホン・ヒロロは「ミヤマカンスゲ」のこと。
 ウバ・ヒロロと地元で呼ぶのは「オクノカンスゲ」のことだ、そうです。

 ヒロロは、ヒロウとも呼ぶことがあるそうです。

 いずれも見分けるのは素人では難しい、そうです。

 ヒロロは沢の中の日陰向きに自生している多年草植物で、引き抜いて収穫するのだそうですが、毎年収穫すると株が弱るので、採る間隔は1~2年あけたほうがよい、そうです。
 三島町間方では、ヒロロの山の口(収穫制限)は無いそうです。ただし、人による採り場はだいたい決まっていたそうです。

 ヒロロは引き抜き株を1枚ずつ葉をはがし「ねほぐし」という作業が、今日見た作業でした。それを束ね直して天日で2,3日干してから陰干しにして乾燥させます。根ほぐしをしないと、重なった部分が赤くなる(褐色になる)から、といいます。アオ(緑)が損なわれると価値が下がるのだそうです。

 昔は、210日に採ったヒロロを乾燥させ、それを素材として、雨蓑(あまみの)、しょいなわ(背負縄)、荷縄にした、といいます。

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■追記■

→→→→ミヤマカンスゲ
→→→→オクノカンスゲ

2007年8月31日金曜日

トンビダケ


■2007年8月30日、近接する集落の親戚がひとかけらのキノコ(茸)を置いていきました。「トンビダケ」です。暑い8月は終わり、この数日は雨の日が続いている。もう9月になる。

■8月31日の夜、スーパーのレジ袋に入れたままになっている「トンビダケ」を母が発見した。昨日もらったことを忘れていたのだ。急いで袋から出して、水道の水で洗い始めた。

「おーい、とうちゃん。トンビダケは水から煮るのか?湯に入れるのか?」と聞いていた。

「それは、水から煮る」と父は応えた。

大鍋に水を入れ、トンビダケを入れ、そしてガス台に火を付け煮ていく。

父は付け加えた。
「トンビダケは油炒めで喰うのがうまい」

明日から9月。キノコの季節になる。木の実や実りの季節だ。雪も近くなる。

2007年8月22日水曜日

生きる姿と、まなざし



■2007年8月16日、福島県の奥会津地方、、、、三島町の宮下にある奥会津書房に、出版されたばかりの雑誌『会津学3号』の執筆陣である人々があつまり、懇談をしました。
 代表の菅家(私)が御礼をのべ、特に出版で印刷社には特段の尽力をいただいたことをお話ししました。毎年1冊、夏に、8月に出版する、、、、10年間は、、、続けたいという願いは、ようやく3号までたどり着いた。あたらな発見と、課題が生まれていることは、参加者は皆共有している。

 特に出版に寄せられた私信を、遠藤由美子編集長が数件、朗読された。
 
 そのひとつに以下のようなことが記されていた。

 首都圏のT氏から寄せられた3枚の手紙の最終は、次のように結ばれていました。

■会津学の出版は、

私に生きる欲を喚起させます。
 
宝は金銀ではない

人間の生きる姿、

それに対する まなざしの中にあると思います。

会津は宝の山です

2007年8月11日土曜日

雑誌『会津学3号』発行なる


■2007年8月10日(金)15時ころ、奥会津書房の遠藤由美子編集長から電話がかかってきた。3号の印刷が予定より早くあがり、今日到着しました、とのこと。16時に三島町宮下の編集部をたずねたところ、著者などへの献本の発送・梱包作業が行われていました。さっそく私も新刊本を手にしました。

■遠藤さんによると、ゆかりの人には直接手渡ししてきたそうで、数名の古老は本を見て、その誌面、写真に涙を流していた、、、、と、胸をつまらせて語ってくれた。編集は徹夜の連続で、なんとか出稿したが、一部に誤字などがあると思いますが、大切にして多くの人に手にとってもらいたい本です。

■松山誠さんにも十日市をルポ・取材して書いてもらいました。首都圏の人は、彼のところに本はありますから、来週13日から彼を通じてお求め下さい。書店にも近々陳列されると思います。

2007年7月23日月曜日

7月21日(土)、22日(日)福島県博・樹と竹





■7月21日(土)福島県立博物館長の赤坂憲雄さんの「東北学2」は岡本太郎論、でした。岩波書店から発売されたばかりの著作をもとに、岡本太郎がみた東北を紹介しました。

■終了後、会津学研究会員が視聴覚室で最終打ち合わせをしました。雑誌『会津学』3号は、23日に出稿され、8月15日の印刷・発行を待ちます。そのための最終校正や、確認事項のチェックをしました。

■7月22日(日)夏の企画展は、佐々木長生さんが担当されたもので、鹿児島県の黎明館の川野和昭さんとの知的格闘で生まれたものである、ということがシンポジウムでわかりました。川野さんには21日の閉館まぎわの1時間、会津学研究会員に展示解説をしていただきました(写真)。
 シンポジウムは名久井文明さん、川野さん、佐々木さん、赤坂さんで進められましたが、会場の赤羽正春さん(新潟)、田口召平さん(秋田)なども発言をしました。

 樹皮民具の制作技術とその変遷(名久井文明氏)
 「箕(み)からみた列島の文化」(川野和昭氏)
 会津地方の樹皮民具(佐々木長生)

■この企画展の図録1200円は、必読書になります。

2007年7月12日木曜日

7月12日、聞き書き講座③

■昨年に続いて奥会津書房では金山町にある県立川口高校での聞き書き講座を遠藤由美子編集長が受け持っています。今年は6月からはじまり、今日(7月12日)が3回目となり、次回18日が最終講義となります。今日は私の担当する日で、以下のような資料を準備しました。そのほかに、『只見町史民俗編』『民俗生態学序説(野本先生)』『越後奥三面』からの資料を準備しました。


■聞き書きの進め方 ★川口高校 2007年7月12日
                菅家博昭(福島県大沼郡昭和村大岐 農業)
聞き書きのまとめかたの例
1.その人の語る言葉でまとめてみる
 ①方言はたいせつな表現、意味を持っている
 ②わからない言葉は、その意味を詳しく聞いてみる
 ③標準語でもかまわない

2.聞いたことと、自分の感じたことを分けて書く
 ①その人から聞いたことはひとつの段落にまとめる
 ②自分が感じたこと、あとで自分で調べたことなどは、段落をわけて書く
 ③はじめに予想した内容と違った場合は、違った方に進めて聞いていく。でもあとで戻る。

3.たとえば 春を感じるのは?というテーマで聞いてみる
 ①家族(両親、祖父母、兄弟、親戚)や、友人、近所の人たちなどに次のことを聞いてみる。
  「雪のある冬から春になるとき、春になったなあ、と感じるときはどんなときですか?」
  「それは、雪が溶けるからですか?それとも風が暖かくなる?雨が降る?」
  「こどもの時に、春になったなあ、と思ったのはどんなときですか?それは何歳頃?」
  「大人になってから、春になったなあ、と思うのはどんなときですか?」
   雪の呼び名の種類とか、雪融け水とか、ゆきむし、とか、、、、山菜とか桜とか、、、

 ②あるいは、①と同じ内容で、自分に対して聞き書きしてみてください。

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1994年に聞き書きしたノートから1997年にまとめて発表した菅家の文です。まとめ方の参考としてください。

< 猟師の茸(きのこ)採り >

 「カヤバのミズナラのドングリはあっちこっちしかなってねえ。熊がかんむくったあとがあったが、ヒラの下のほうはマミだ。帰りにナメコ、ムキタケ、カンタケ採ってきた。あそこは春行けばエラひとかごは採れんな」

 私の父・清一(一九三二年生)が狩猟に出かけた裏山から帰ってきて、ふだん着に身支度したあと炬燵にあたり、自分で入れた熱い緑茶を飲みながら話し出す。父の居る横座、その差し向かいにいる私の祖母、つまり父の母親のトシ(一九〇八年生)に話しかけている。これは一九九四年十一月十六日のわが家の光景である。山から戻ると、たいがいこうした会話がはじまる。祖母は数十年前のことを引き合いに出して「おれの若い頃は、あそこの萱場(かやば)は、誰彼と行ったときにシメジをひとしぇえ(一背)採った」という具合だ。そこで、過去に利用した資源の中味と量、自生そのもの量が変化していることを家族の中で確認している。たまに、こうしたやりとりの中で祖母から聞いておいたとおりに茸のオイハ(線上に発生する場所)から収穫をしてくると父は「婆様ゆった(言った)とおりだったぞ」と言う。
 これら山菜・茸は、家庭で利用し、一部を町場に住む親戚に贈与している。保存しておけるものは、村の行事や冠婚葬祭時の献立に必ず付けるため、必要なものも多い。

 熊猟に行ったのだが、熊とは出会えず猟は不調に終わったので、帰りに茸(きのこ)を採ってきたというのだ。山の状況は、夏の未曾有の高温干ばつのせいか、ミズナラのドングリの実(シダミともいう)が不作であちこちにしかなっていない。熊の跡がないか、慎重に足跡を探して歩いたようだ。ドングリは熊の好物で、落ちた実を探して、落ち葉を掻いてあった痕があったが、ヒラ(平らに広がる空間を持った斜面)の下の方の痕はマミ(アナグマ)によるのものだった。
 ブナは豊作年と不作年があるが、博士山では長雨冷害の年(一九九三年)は豊作で多くの実をつけたが、今年(一九九四年)は実をつけていないので、熊はミズナラの実であるドングリを探して歩いている。その熊が歩く範囲がいつもより広いようで、父はあてがつかない様子であった。
 熊という獲物を探すために、猟師の父は山の成り物である木の実の状態をよく観察していた。木の実を多くつけた山塊、その斜面の落ち葉を掻き分け、実を食べた状況を良く観察してケモノの種類を識別している。こうした一連の行為のなかで、山菜や茸の出具合も見ている。

< ほたら >
 台風などで倒れた木の場所、これは茸が出るので覚えておく。また、茸の出始め、盛り、開ききったもの、腐ったものと、その生育段階のものも覚えておき、来年のいつの時期に来たらその盛りに採れるかも推察する。
 山菜の若芽は伸び葉を広げ「ふうける」と「ほたら」になり、秋には枯れるので、「ほたら」の有無さえ見て歩けばよい。そのところに春来れば若芽を採れる。春に来たときにも昨年の枯れて雪におしつぶされた「ほたら」を見ておく。
 このようなことは猟師、山菜茸を採る人にとってはごく普通の行為である。秋であれば茸を採りながら、山菜であるワラビ・ゼンマイ等春の山菜のほたらも記憶しておく。冬の猟でも枯れた木や倒木を記憶し、数年後の茸の出を予測する、森の木の実の成り具合から鳥獣のその年の生息域と個体の増減まで推し量っている。こうした観察からわかるとおり、その山の物の収量は、年令とか体力によるものではなく、環境認識の深さが最も重要で、単独で山に入り山菜や茸、一部の狩猟、川猟の個人差となる。また、山の中に細かくつけられた地名によってその場所の特定と、情報の公開と共有(家族なり、集落なりの)をはかっている。

< 猟師の茸採り >
 この日は味噌汁の具にするととてもうまい「エラ」がまとまって生育していた場所を見つけ、その量は「篭ひとつ」ほど採れると推察し、来年の春に採ろうというのである。
 今日は、獲物が無いので、せっかく山に入ったのでカラミ(空身)では帰るのは惜しいので、茸を採ってきた父だが、こんどはその採ってきた茸を見てみよう。
ブナの森に出る茸は初秋から「ワケ」が採れる。そして秋はトチ、ナラ、ブナ等の木に「ムキタケ(ヒラタケ)」が出る。同じく「ナメコ」はブナ等何にでも出るがナラの方がでる。ムキタケが終わるころ、ムキタケにとても良く似た「カンタケ」がブナやハナノキ等に出る。カンタケはムキタケの晩生のようだが、格好はワケに似、紫色。「シイタケ」「アカンボウ(クリタケ)」「マイタケ」、種類が多い「シメジ」、雑茸としの「モタシ」。8月の旧盆ころ出る茸の「サンボタケ」は、虫がつかなければ真冬になっても採ることができる。
 人間に重宝な茸は、ブナの森自身の健康維持のためにも無くてはならないもの。ブナの木の枝や幹が折れると、雨水がしみこみ、腐りはじめ茸が出る。ヤマアリなども巣くいはじめる。そのアリを食べるためにオオアカゲラ等のキツツキの仲間が木に穴をあけ虫をつつき出し食べる。やがてブナの木は倒れ、ナメコ等が出て、最後には分解され、土に還る。この滋養豊かな土は、老木のもとで出番を待っていた若木を育てる。

2007年6月15日金曜日

基層文化とは?




■植物の扱い方。カラムシ(苧麻)の幹から繊維を取り出す技法は、たとえば、6月になって食卓に載るフキ(蕗)の幹の外皮の剥ぎ方(はぎかた)と、同じだ。外皮の硬い繊維をむいて、そのなかの柔らかいところを食べる。流水にさらして、アクを抜く。

 カラムシは外皮を利用する。中の茎は利用しない(堆肥や、焚きつけとしてオガラとして利用する)。外皮のままで利用する場合もあるが、商品としては外皮をさらにオヒキして精製する。