2010年9月11日土曜日

2010.9.12(日)第4回 大芦家スタディツアー(両原・喰丸)

2010.9.12(日)第4回 大芦家スタディツアー(両原・喰丸) 作成:菅家博昭

1525年喰丸一戦
国立国会図書館 近代デジタルライブラリー
『大沼郡誌』大正12年(1937) 大沼郡役所編纂
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/978648
明治44年福島県訓令の郷土誌編纂要項。大正4年で終了。241ページより。

喰丸 昔時いずれのときか検地に際し、有司この地に杭を立て、その杭丸きをもって杭丸と呼びし伝う。

両原 喰丸の上流にあり、この村昔原と唱え、喰丸村と一村なり。元和(1615)のころ、佐倉村地内の土地高21石6斗6升を、原の土地と交換し、佐倉の農民、原に移住す。いまこの交換せる土地佐倉村の東部にあり、喰丸村に属す。後、天和(1681)のころにいたり、喰丸より63石5斗1升の土地を分かちて原に興ふ。合わせて高85石1斗7升の格村となり、佐倉と原とを合して両原村という。

小野川 博士山は本郡第一の高山なり、したがって本村も郡中第一の高地なり。
大芦 往昔草野にして一帯芦萩繁茂せるによりこの名ありしという。明応(1492)の頃、五十嵐豊後、五十嵐隼人、五十嵐勘解由、五十嵐大舎人等、大石村より移住し、この土を開墾し、人家漸次増加して百戸に達成しという。天明年中飢饉により戸口大に減じて40戸余となりしが、いままた94戸におよべり。

587ページ
喰丸一戦 大永五年(1525)南山長沼、野尻山内を亡ぼさんとて、勢二百余騎を引率し来たりて、喰丸舘の越に陣す。野尻勢聞くより、山内藤八郎実俊、手勢五十騎を以て向かい、喰丸猿舘(注・下中津川)に陣し、激戦す。南山勢室井、湯田、猪俣等敗北して走る。実俊時十八歳なりきという。いまこのところを陣場(喰丸の小字に有り)ととなえ、矢鏃を拾うことあり。その後、道信、実俊父子黒川(会津若松)に赴くをうかがい、南山勢堂本上総、堂本左近等を大将とし、再び野尻を襲う。道信弟道盛勢を集め、渡部河内、栗城清三郎、五ノ井隼人、小林與治右衛門、菊地三郎左衛門、斎藤佐治右衛門、布沢太郎佐衛門等をはじめとし、牛首城に籠もり防戦し、上総及び左近を打ち取る。長沼勢、火を民家に放って退く。野尻中向より下中津川に通ずる旧道の傍、字八幡と唱うるところに塚五個あり、左近塚という。
583ページ 杉林中塚五個あり、左近塚という。このあたり牛石(生き石様か?)あり、形状相似たるを以て云う。また下中津川新田に七塚あり、いま麻畑となり六個を余す、何人の塚なりや詳ならず。春日神社 大字中向字上ノ山に在り。

『昭和村の歴史』44ページ。大永五年、田島の長沼勢が野尻領に兵を出し、野尻勢と喰丸の猿舘で合戦したとき、、、、、、合戦の後、道信、実俊父子が長沼勢の暴状を、十五代芦名もりきよ(盛舜)に訴えるため黒川に行った留守中、また長沼勢が野尻に来襲した際、盛通(野尻山ノ内三代道信の弟)は野尻勢を指揮し、栃尾沢城に拠って奮戦し、長沼勢を走らせている。

会津藩編纂 (1809)『新編会津風土記』
歴史春秋社刊第4巻125ページ
両原村 この村昔佐倉村の端村(はむら)なり。後格村となり原村という。その後、喰丸村の端村原を合わせて一村となし、それより名づくという。家数27軒。

佐倉村 15軒
喰丸村 33軒
小野川村20軒 端村大岐7軒 木地小屋岩下3軒
大芦村 69軒 中見沢12 山崎17 中組21 赤田19 木地小屋松沢6軒
野尻村 55軒 端村中向48軒
松山村 26軒
下中津川村 93軒 町13,中村3 新屋敷14 宿原9 新田12 阿久戸22 気多淵20
(猿舘山あり、現在の高舘山か?)
小中津川村24軒
以上野尻組 426軒

『田島町史』第1巻 昭和60年(1985) 261ページ
大永元年(1521)、長帳は、「みなみの山勢桧玉に入り、ことごとく焼き候、皆々打死つかまつり、一騎も返らず候」「4月26日、屋形(芦名盛舜もりきよ)さま南の山へ御馬を出され候、5月上旬に御父いたて(伊達)よりして、御扱いにて御馬を入れられ候」とある。桧玉村は近世の福永村で、長沼勢の特攻隊のような一隊は大内から峠を越して桧玉村まで出て来て民家を焼き戦を挑んだ。芦名方の対応は早く、長沼勢一騎残らず討たれた。これが4月20日前後で、26日には盛舜は大内峠を越して南山へ侵入した。このしらせを聞いた伊達植宗(盛舜の妹を妻とする)は和睦を斡旋して芦名勢を返させた。(略)
 この戦闘が長沼氏が芦名氏に対する抵抗のはじまりで、この後たびたび小戦闘が行われる。大永四年(1524)には「旧事雑考」だけであるが「南山平らぐ」がある。

天正十七(1589)博士峠・喰丸峠 伊達政宗家臣大波玄蕃ら野尻入り。

1868慶応四年九月 尾州藩(尾張)九月十五日喰丸着、十四日から二十六日まで小中津川のべ1217人。尾州五味織江隊132名(藩士75、陣場方5,夫者52)。(明治2年6月奉納幟) 会津戊辰戦争野尻組 両原村守備
「公私摘要」9月8日10人ばかり布沢村より中向に。9日下中津川に来て野尻泊。10日小中津川村から案内2人出て、柳沢通りで琵琶首より小野川通り、喰丸より返り、下中津川泊。松本勢。
9月10日、官軍600人お繰り込み。
9月11日暮方、喰丸峠へ会津方参り、人数7,80人、小野川着。喰丸沢で戦争、官軍勢4,5人怪我人が出たそうである。
9月24日大芦合戦。

■老齢で、この8月末に大阪の子息宅に転居された佐倉在住の郷土史家馬場勇伍さんの労作『木地師の跡を尋ねて 山中の墓に手を合わせ乍ら』(2002年・昭和村教委発行。昭和村佐倉のからむし織りの里・博物館で販売)では、両原に文久二年(1862)火災があった、と記述されている。
 『昭和村の歴史』191ページ、両原の早乙女踊りは、古屋敷といわれるところに集落があり、ある年の小正月、サイノカミで飛び火し火災がおこり、両原集落全部が焼失した。その後、現在のところに集落が再建されてから、サイノカミをやめて、早乙女踊りを行うようになったという。正月十四日に行う、、、、大芦の西部にある南郷村鶇巣、只見町梁取の早乙女踊りから移入されているように思う、とある。