2007年12月21日金曜日

台湾の日本人、田代安定

■2007年12月20日(木)曇。
■12月は、昭和村の保存会からの依頼による講演(終了した)のために、からむし(苧麻、カラムシ)に関する文献調査をしているなか、いくつかの古書を購入し読んできている。

入手しやすいものとして、柳本通彦『明治の冒険科学者たち~新天地・台湾にかけた夢』(新潮新書、2005年刊)に出会った。鹿児島県出身の田代安定の生涯が書かれてあった。台湾で大正時代に2冊の苧麻に関する本が出版されているが、その田代安定に関する情報はとても少ないなか、貴重な調査である。ただ、当時の昭和村の大芦について記述している加藤清之助『苧麻』に関する情報の記載は無かった。加藤についてこの7年間調査しているが、周辺情報は全く入手できないまま現在に至っている。

 著者はアジアプレス台北代表。 →→→ 柳本通彦

■ヨークベニマル寒河江店の開店にあわせて復刻された、横山明男ほか「さがえ周辺の歩み 最上川と舟運 青苧・紅花商人」(再編復刻版1997年刊)にも、

 渡部史夫「最上苧(もがみ・そ、、、からむし)の生産と流通」について20ページの論考が掲載されている。とてもわかりやすい論文である。米沢苧と最上苧はあわせて羽州苧(そ)といい、上杉による米沢藩が栽培の中心であった。米沢・会津が苧(からむし)生産の拠点であった。

 文中に、左沢(あてらざわ)領内の青苧は越中八講布の原料となる間替苧となっていることが記載されている。

 また奈良晒(さらし)の原料は米沢苧とある。

■八講布のことをインターネットで検索してみると、以下の記載がみられた。→→→八講布  →→→滋賀県愛荘町

 12月はじめまで滋賀県愛知郡愛荘(あいしょう)町で、日本四大麻布展が行われていた→→→ 愛荘町歴史文化資料館

 八講布は越中八講村(現在の富山県射水市)で生産されていた麻布のことで中世から生産されていたことがわかっていますが、現存資料がなく確かなことは不明です。ただし、文化8年(1811)の『布方一件留帳』には、八講布について次のような記述があります。「横ニ相用候うみ苧之義ハ羽州、最上出来之可らむし、苧ニ而・・・(中略)・・・竪ニ相用候ニ絈之義ハ五ケ山等ニ而作り出申麻苧ニ而出来仕候品」このことから八講布の経糸には地元の五箇山産の大麻、緯糸には苧麻を使用していたことがわかります。展示している資料の経糸は大麻、緯糸は苧麻であり、八講布の可能性が高いと考えられます。

 これは、昭和村(もと野尻郷)でいう「かたやま」のことである。富山県の五箇山産の麻をたて糸に、最上苧(からむし)をよこ糸に混紡したものが八講布という。詳細は調査しなければならないが、八講で作られていたもののようです。

 富山県射水市(もと下村)に八講村があったようです。明治22年まで八講村はあり、合併し下村となり、また合併し射水市に。古代、京都下鴨神社の荘園であった地区かもしれません。→→下村小学校



■山形県 南陽市史編さん委員会『南陽市史編集資料 第6号 ~北条郷青苧栽培と青苧商人』(1981年10月刊)

 解説の錦三郎氏によれば、渡部史夫「米沢藩の特産業と専売制」(昭和51年)からの引用として、以下のように書いている。あおそ(青苧)とはカラムシのこと。

 青苧は、米沢藩の国産品として専売仕法にもとづいて買い上げられ「米沢苧(よねざわそ)」の名で市場に輸送された。慶安元年(1648年)までは代官が買い占め、荷造りもやって御蔵に納めたが、翌年には青苧買銀奉行が設置され業務にあたった。そのころ京都の特権商人、西村久左衛門が藩内青苧を独占的に請け負い「御用特権商人と藩権力との共生による収奪形態が整備されてきた」と述べている。

日本苧麻興業意見(田代安定)



■2007年12月9日着の図書、鹿児島市中央町のあづさ書店西駅店から12,240円(送料・税込)で購入した本。ウェブサイト日本の古本屋にて検索。

 大正六年は一九一七年。

この著作は、私にとって、本年最大の発見でした。購入図書に、著者安定の名刺が偶然にはさんであり、その送り先に自筆?と思われる書き込みがありました。

■田代安定著『日本苧麻興業意見』(大正六年七月二十日発行)、一円六十銭。著者が発行者であり、台北古亭村庄五百十一番地となっている。印刷は台北撫台街二丁目一四六番戸の台北印刷株式会社(遠藤祐太)。日本の発行所は、東京市京橋区築地二丁目二十一番地の國光印刷株式会社。

■田代安定についてウェブ検索してみた。一八五七年生まれ~一九二八(昭和三年)没。

 →田代安定1   田代安定2  田代安定3  田代安定4
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からむし(苧麻)と大芦




■2006年4月24日に札幌市北区の弘南堂書店より8840円(送料・税込)で購入した『苧麻』

■大正十一年(一九二二年)十二月五日に台湾総督府内の南洋協会台湾支部が発行所となって出版された、定価二円の加藤清之助著『苧麻』四二ページには以下のような記載がある。

1.福島県

福島県の苧麻産地は大沼及び南会津の二郡にて、前者は五十数町歩、後者は三町歩内外に止まる。而して大沼郡に苧園を有せるは野尻と大蘆(大芦)の二村なるが大蘆の産を最良とせり。

2.山形県

山形県の苧麻作付面積は(明治)四十三年には百三十六町、四十四年には百四十八町八反なりしが、大正三、四年頃には百〇三町予歩にして、内西村山郡その半を占め、北村山郡二十五町内外、最上郡十五町内外は其の重なるものにして、他は殆ど数ふるに足らず。その総生産額は本州西南部及び四国、九州の総生産額と匹敵す。西村山郡の苧作中心は天童より最上川を遡りて八里余の山奥に於てし、総て山間僻地の交通極めて不便なる地方なり。

■全国の状況は三九ページに以下のように記載されている。

 明治三十八年以来の統計によれば、苧麻栽培は年々衰微に赴き、当局の奨励何等効を奏せざるの現況なり。

 即ち明治三十八年には二千町以上の作付と二十八万有余の年額を算せしもの、大正元年には八百四十六町余、産額十万貫余に降り、大正三年には四百四十五町余の作付と、五万八千貫余となり、大正四年には二万三千九百六十七貫に激減するに至れり。

■三八ページには、次のようにある。

 上杉家は越後の苧麻最盛期前会津に専領し、次に米沢に専領し、至る処に於て此が興業を奨励せし結果、その業は奥州至る処に勃興し、昔加賀、信濃、山形、会津(今の福島市若松地方一帯は昔時の苧麻栽培地の中心なりき)、米沢等に於て、既に隆盛を極め、越後に於ては遂に自国産を以て国内製麻業の需要を満た事能はず。信濃、会津等より之が原料の供給を仰ぎたりき。然るに星移り年変り、遂に幕末慶応の騒憂に会し、世の変乱となりては、流石に昔時隆盛を極めたる越後その他の苧麻興業も、漸次衰微するに至り、越後の製麻布原料の消費僅かに五百万斤を算するに過ぎざるに至れり。


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巻末、三六七ページの引用書目には、英文の文献が七点、そして日本語の文献が一二点掲載されており、その第一が「八、田代安定氏 苧麻興業意見」となっている。