2012年1月31日火曜日

ススキは野焼きすると株は小型化し密生する


■日経新聞 2012年1月29日 社会人142話 伝えゆく志4 「茅葺き 地域で支える」 8段記事、写真有り。記事最終段を要約。
 岩手県金ヶ崎町のススキ島立て500。戸田忠祐さん(83)。7年前に茅場再生事業がはじまる。茅(かや)は白川郷、五箇山などに出荷する。
 屋根材に適した茅は草丈が約2m、茎の太さが5ミリ。成長しすぎると商品価値が下がる。
 春先にススキ(茅)の地下茎にストレスを与えると、株は小型化し密生する性質がある。
 草地は野焼きなどで人が手を加えないと徐々に衰退し、東北ではやがて、風土に適した落葉広葉樹林に変わる。
 藩政時代、金ヶ崎町周辺の草地には小動物が多く、鷹狩りの場となっていた。「よみがえった茅場が、多様な生物を育む揺りかごになってくれれば」。茅葺き文化の継承は、豊かな生態系を次代に残す試みでもある(編集委員 和歌山章彦)。
■火入れの役割が書かれている。奥会津・昭和村の「からむし焼き」の効果もこのように細くしなやかな茎(シュート)を発芽させているのではないか?

藤田定興氏の二著作を読む


■この1週間、降雪のなか、藤田定興氏の著作を読んだ。古書店から購入(日本の古本屋)。
 『寺社組織の統制と展開』(名著出版、1992年、定価8900円、417ページ、600部発行)
 『近世修験道の地域的展開』(岩田書院、1996年、定価11330円、481ページ、600部発行) 日本宗教民俗学叢書3
■『近世修験道の地域的展開』について以下紹介する。
 148ページ。天明2年(1782)頃の『寺院本末神社惣録』(龍宝寺文書)に会津における本山派修験の75が掲載されている。そのなかの56「身分・谷老僧として一道院・野尻・御蔵入、南岳院末」とある。
 159ページには、明和4年(1767)3月付の大光院(大沼郡下中津川村)の別当職補任状が掲載されている。大本山聖護院から出された文書である。
 被補任別当識状
 以大光院永被補陸奥国会津大沼郡下中津川村 愛宕権現社別当識訖、守旧例専社役世々不可違失之旨、依 三山検校宮御気色執達如件
 法橋 源寅
 法眼 誉香
 法印 源泰
明和四年三月十一日
 陸奥国会津大沼郡下中津河村 大光院元誉
■大抵の修験が近隣の社祠の別当となっていたが、大本山聖護院から補任され認められた別当職、会津地方の本山南岳院から認められた別当職がある。さらに各修験の霞内の社祠・堂宇、あるいは自らが勧請主となって開かれた社寺等、許状の形をとらない暗黙に承認された別当権があった。
■162ページ。御蔵入修験識格一覧は、文正6年?、文政10年、弘化3年、4年の資料で上通、中通、下通に分けた一覧があり、現在の昭和村域では、8院記載されている。
 村名・寺院名・識格等・資料1・2・3・4
 喰丸村 法正院 - 下 下 - -
 野尻村 一動院 格地 上 上 上 -
 下中津川村 大正院 - - - 下 -
 下中津川村 喜法院 - 下 - - -
 下中津川村 大光院 別当 上 上 上 -
 小中津川村 大法院 - 下 下 - -
 小中津川村 会光院 老僧 上 上 上 -
 中向村 大聖院 - 下 下 下 -
■ 『田島町史 第1巻』では、四院が記載されており、喰丸村は南蔵院となっており上記とは異なるが、それ以外は、小中津川・大法院、下中津川 喜法院、大光院が掲載されている。上記資料では下中津川大正院が弘化4年資料のみの掲載のようである。
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■『寺社組織の統制と展開』では、会津藩の保科正之の神社の整理と改定について記載されている。
 また、明治期になり神仏分離政策で、修験者達の多くは神職に転じ、宗派と組織が消滅する過程を福島県内、会津地方で追っている。
 社祠の整理には野外の碑塔の神仏分離と整理が含まれていることに著者は留意するよう言及している。特に明治9年12月15日に出された教部省達第37号。
 285ページ。このような山野・路傍に散在していた神祠・仏堂・碑塔の合併・移転について蛇足を加えたいことは、この合併・移転は、人々の身近にあって、しかもそこに建てられるべくして建立され、その地その場所にあることに存在意義のあった信仰対象物が移動させられたということであり、しかも遠隔地に移された場合も多かったことである。そしてそれは、かつてこれらの散在していた村内の信仰的環境が大きく変化させられたことでもあったし、このような村内環境の変化が、山野・路傍に散在していた神祠・仏堂・碑塔類を中心として行われてきた民俗信仰へも、当然大きな影響を与えたと思われることである。

2012年1月26日木曜日

ホウインサマ(法印様)、在家の修験・山伏


■昭和60年(1985)に田島町教育委員会が刊行した『田島町史 第一巻』。
 629ページから649までの「第四節 田島町の修験」は藤田定興氏が執筆している。
 中世に伊勢・熊野などへ人々を引導した修験。熊野の御師は御祈祷師だが、一方で参詣の信者の宿泊業も兼ねた。地方の修験先達は、各自の旦那をひきいて、この御師の坊舎に宿泊するが、その場合、各先達には宿とする御師の坊舎が定まっており、先達や旦那はこの御師に布施料を払う。現在の南会津郡、南山は那智の御師廊之坊の持ち分であった。
 修験には本山派(天台宗)、当山派(真言系)で、近世初期御蔵入領内南岳院配下本山派修験一覧として43の修験が紹介されている。そのなかに現在の昭和村分として4ある。
 喰丸 南蔵院
 小中津川 大法院
 下中津川 喜法院
 下中津川 大光院
■平成22年(2010)に只見町が発刊した『只見とっておきの話』の295ページから栃木県の高校教師の久野俊彦氏が「只見町の法印文書」で楢戸龍蔵院について紹介している。
 15年かかった只見町史(全11冊)のなかで、久野氏は法印の活動実態を調査している。その成果の一部を『広報ただみ』の471号(平成21年8月号)から476号(平成22年1月号)に掲載したものが本誌所収となっている。
 近世、いわゆる江戸時代の只見町など奥会津の法印と呼ばれる在家の修験者が、他地域との文化運搬役になっていることを、わかりやすく紹介している。
■村山修一『山伏の歴史』(塙書房)は、1970年に初版が出ているが、2005年に初版第11刷が出ており求めやすい。3300円。全国的な歴史的動向について書いている。

佐倉 曹洞宗 観音寺


■2011年10月18日に大芦家主催のスタディツアーが行われた。昭和村のなかの集落をひとつずつ歩く会で、この日はからむし織りの里がある佐倉(さぐら)集落。
 中世後期の野尻山内氏の城館跡(舘裏山)がある。
 そして近世の観音寺(下中津川正法寺の末寺)。これは御蔵入三十三観音七番札所となっている。昭和村域ではここだけである。
 下中津川正法寺については小島一男『会津古事散歩』(歴史春秋社、2002年、1300円)の103~105ページに記載があるが観音寺については書いていない。
 藤田定興『神と仏の信仰』(歴史春秋社、2011年、1200円)では、161~163ページに御蔵入三十三観音。
 小説仕立てで紹介したものに、昭和村下中津川の縁故者の舟木正義『奥会津三十三所観音紀行』(歴史春秋社、1995年、1165円)。40~47ページ。ここに文化九年(1812)に大芦村の五十嵐宅右エ門が寄進した厨子にまつわる3721日の願掛けのことである(慈眼山)。
 慈眼山、示現山とも。
■会津藩の宗教政策については『会津若松市史 第5巻』(2001年)の73ページから。修験道、会津三十三観音札所巡礼など。
■御蔵入三十三観音の佐倉観音寺や昭和村、駒止、奥会津地域を舞台とした小説に、佐伯泰英『夏目影二郎 始末旅4 妖怪狩り』(光文社文庫、2001)がある。大芦には国定忠治が訪問した家がある。
 相場英雄『みちのく麺食い記者 宮沢賢一郎 奥会津三泣き因習の殺意』(小学館文庫、2009)は会津若松、南会津、昭和村喰丸に住む織姫が主人公。

小中津川 気多神社


■森浩一編『古代日本海文化の源流と発達』(大和書房、1985年)の85-102ページ、金沢市生まれで国立石川工業高等専門学校教授の朝香年木さんが「信仰からみた日本海文化」で気多神社について講演している。
■『季刊 東北学 第19号』(柏書房、2009年)で、明治大学教授石川日出志「北陸・南東北の変動期 弥生集落の成立状況」。北陸から会津への文化移入ルートが明らかにされている。
■信濃史学会『信濃458号』(1976年10月)から460号(12月号)までの3回にわけて、同会会長の一志茂樹が「大和朝廷による古代越地方開発の新局面を捜し得て 東日本に設置された越後城存在の意義を匡す」で小中津川の気多神社を『新編会津風土記』からの引用で論述している。
 これは昭和51年(1976)7月25日に新潟県十日町市民会館で「妻有の文化を守る会」主催の講演会で故一志茂樹氏が講演した内容に加筆したものである。長野県松本市在住。


■上記一志茂樹氏の気多神社については、会津にふたつある気多神社のひとつ気多宮がある会津坂下町の古川利意氏が福島県耶麻郡の『山都町史 第1巻』(1989年)383ページで記述している。

中津川喰丸村検地帳、大芦村検地帳(1594年)


 天正検地を福島県に現在する.田島郷の検地帳(写本)でみると、荒田、荒畠の比率は、全面積に対して、荒田が1.0%荒畠が2.4%、合計で3.4%と比較的低率である.これを文禄検地と比較すると、会津の大沼郡喰丸村文禄3年の検地帳では田の荒が7.7%、畠の荒が22.8%、合計で30.5%となっており、9倍弱の比率の増加がみられる。しかも文禄検地の荒には3年荒、4年荒などの記載がある。このことは次のことを想定させる。即ち年数を限った「荒」とは、畠の場合は焼畑の休耕地が多く含まれている可能性が高いこと、水田の「荒」は水の配分をめぐる定期的「荒」である可能性があること。これらの「荒」は天正検地においては、検地帳から除外されていたこと。文禄検地にいたって、これら不安定な荒地も検地帳に登録したこと。等である。蒲生領においては、文禄検地の結果18万,5500石(25.2%)の出目があったが、これは領主権力と在地農民の抵抗の力関係の変化によって、不安定な荒地を登録できるようになった結果と考えられる。
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『田島町史』第1巻、第5巻に現在の昭和村の喰丸から付近一帯の中津川、大芦村の検地帳の内容が読み下し文で掲載されている。

■昭和56年(1981)に田島町から発刊された『田島町史 第5巻』643ページから663ページ、文禄三年大沼郡中津川喰丸検地帳(昭和村喰丸 山内久雄所蔵)の全文が掲載されている。また689ページ694ページに文禄三年大沼郡大芦村検地帳(大芦 五十嵐朝良所蔵)も掲載されている。
前者には付箋が付いており、「文禄三年より嘉永五年迄弐百六拾六年相成申候」、また『福島県史 10(下)近世資料』の一部脱漏を補った、と田島町史編纂委員会により記載がある。
文禄三年(1594年)の前者検地帳には、家数45軒の掲載がある。また田畑所在地が書いてある。そこに小中津川が出て来る。また「うわた」「をりはし」「やなきかさい」「ぶんどうさうり」「ししふしさわ」などは現在の小中津川所在小字である。また両原となる「はら」「でとあかくら」も見え、下中津川の「あくと」「まち」、小野川の「おの川」が見える。また喰丸の小字「ひかげ」「下向」、佐倉の「上ノ山」などが見える。現在の両原から喰丸、佐倉、小中津川、下中津川にあたる。小野川は土地所有者に付記しているだけなので、小野川村と、野尻から松山まで、大芦と現在昭和村域で4地域に分けて検地が行われたと思われる。
この検地帳に小中津川という地名は出て来るが、下中津川は出てこない。
■この文禄三年の大芦村検地帳については、昭和60年(1985)の『田島町史 第1巻』328ページから詳細を表を作成し検討している。町史編纂室室長・室井康弘氏による。

焼畑の環境学(からむし焼きも、、、)


■地球研ライブラリー17『焼畑の環境学 いま焼畑とは』が京都の思文閣出版から2011年10月17日に刊行された。監修は佐藤洋一郎、編者は原田信男・鞍田崇。定価9000円、586ページと厚い本。
 総合地球環境学研究所の研究プロジェクト「農業が環境を破壊するとき ユーラシア農耕史と環境」で取り組まれた焼畑研究である。あとがきから経緯を紹介すると、
 1万年前から現在にいたる農業活動と自然環境の相関性をひもとき、将来の農業の姿を考える手がかりを探ることを目的としたもの。化学肥料を用いず、循環的な土地利用を原則とする伝統的な焼畑は、自然共生型で低エネルギーを旨とすべき今後の農業の方向性を検討するうえで「火耕」は重要と位置づけられ、その現代的意義を探った。
 「火耕」は、農業技術としての焼畑だけが問題ではなく、その社会的・歴史的意義や、焼畑を要とした民俗を包括的に把握しようとした。また農業技術として考える場合も、食料生産だけでなく、衣料作物(たとえばカラムシ)や建材作物においても、火入れを用いた生産が行われてきており、「火」による自然管理に根ざした生活文化がある。
 各地で講演会等が行われ、会津では焼畑のカブが取り上げられ、からむし焼きの昭和村の関連でいうと、赤坂憲雄・佐々木長生・姫田忠義。特に2008年11月16日に山形県鶴岡市で開催された「焼畑サミットin鶴岡 焼畑と野焼きの文化」では、1988年に民族文化映像研究所が制作した「からむしと麻 福島県大沼郡昭和村大芦・大岐」が上映され、カラムシ焼きが検討された。解説は昭和村からむし生産技術保存協会長の星為夫さん(大芦在住)。
 本書には、からむし工芸博物館の平田尚子さんが「繊維植物栽培における火耕 福島県昭和村のからむし焼き」(48ページから75ページ)を寄稿している。
■ → 思文閣出版
 
目次
総説 佐藤洋一郎(総合地球環境学研究所副所長・教授)
焼畑の原像と衣食住
縄文残映――焼畑農耕―― 小山修三(国立民族学博物館名誉教授・吹田市立博物館館長)
繊維植物栽培における火耕――福島県昭和村のからむし焼き―― 平田尚子(からむし工芸博物館)
椎葉の焼畑と食文化 飯田辰彦(ノンフィクション作家)
茅葺き民家を支えるヨシ原の火入れ 大沼正寛(東北文化学園大学准教授)
焼畑像をめぐって
会津農書からみる火耕 佐々木長生(福島県立博物館専門員)
近世農政家の焼畑観――対馬の陶山鈍翁を中心に―― 原田信男(国士舘大学21世紀アジア学部教授)
近代林学と焼畑――焼畑像の否定的構築をめぐって―― 米家泰作(京都大学文学研究科准教授)
新しい農学授業と地域興しとの連携 山口 聰(玉川大学教授)
[コラム1](再録)山焼きの民俗思想――火を介した自然利用の方法の現代的可能性をめぐって――  六車由実
日本と周辺の焼畑
蝦夷地における近世アイヌの農耕 山田悟郎(北海道開拓記念館学芸員)
カブと焼畑――山形県を中心に―― 江頭宏昌(山形大学准教授)
四国山地の限界集落における焼畑と文化環境 橋尾直和(高知県立大学教授)
沖縄における焼畑 宮平盛晃(沖縄国際大学非常勤講師)
台湾原住民における焼畑 山田仁史(東北大学准教授)
[コラム2](再録)昭和一八年の山口弥一郎の牛房野調査に関して 六車由実
アジアとアフリカの焼畑
南九州とラオス北部の竹の焼畑―森の再生と持続可能な農耕―― 川野和昭(鹿児島県歴史資料センター黎明館学芸専門員)
ラオス北部地域にみる焼畑の終焉とイネ遺伝資源の消失 武藤千秋(京都大学農学研究科技術補佐員)・佐藤雅志(東北大学准教授)
なぜ、アフリカの焼畑なのか 佐藤廉也(九州大学大学院准教授)
登って枝を打つか、地上で切り倒すか――ザンビア北東部・ベンバの焼畑造成―ー 岡 惠介(東北文化学園大学教授)
養分動態からみた焼畑の地域比較論 田中壮太(高知大学准教授)
史料論
中日火耕・焼畑史料考 原田信男
白山麓一八ヶ村とむつし関係史料について 山本智代(錦城学園高等学校教諭)
附録DVD
白山麓一八ヶ村村絵図集 山本智代
焼畑関係文献目録 江頭宏昌・米家泰作・原田信男
あとがき 原田信男・鞍田崇(総合地球環境学研究所准教授)

2012年1月25日水曜日

地域の神仏を調べるときに、、、


 藤田定興『神と仏の信仰』(歴史春秋社、2011年7月24日発行)1200円・歴春ふくしま文庫41
 著者は福島県白河市出身、福島県歴史資料館職員(文化財)を経て現在宮城県蔵王町在住。
■福島県内の事例について本書は具体的に事例を紹介している。中世・近世、、、、人々がどのように暮らしのなかで神仏などを祀ってきたかがわかる。講(こう)として営まれ、あるいは石造物を建てまつる、、、そうした集落内、地域内に残る手がかりから調べはじめることの事典として本書は役立つ。
 庚申待(こうしんまち)、二十三夜の月待、十九夜。
 巡礼として三十三観音(西国、奥州、仙道、会津、岩城、田村、御蔵入三十三観音)
 飯豊山、湯殿山、妙義山(白雲山)、古峯原、東堂山、田島の牛頭天王(祇園祭)、八溝山
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『公私摘要』小中津川村名主 栗城浜三義綱


■昭和48年(1973)に福島県大沼郡昭和村教育委員会が発刊した『昭和村の歴史』。幕末の戊辰戦争の野尻組(現・昭和村)の様相について、近世史料として『公私摘要』が田島町史編纂室の室井康弘氏により随所に引用されて執筆されいるが、その詳細は何も紹介されていなかった。
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 平成13年(2001)、昭和村文化財保護審議会の馬場勇伍氏の編著『乱雲 戊辰の晩秋 会津戊辰の役 大芦の戦い』の後半に、『公私摘要』(1868年8月から12月分の一部)が転載されている。
 村内佐倉の馬場勇伍氏によれば、
 小中津川村名主の栗城浜三氏が、嘉永五年(1852)から明治四十二年(1909)まで五十七年間のことを六冊に分けて村での出来事を記録している。触継で来る文書の控えを残し、風聞を記録し続けた。巻末には栗城浜三ではなく栗城義綱としており後年に義綱としたものと思われる。
 明治四十二年七月で終わり、六十八歳と記載していることから逆算すると天保十二年(1841)頃の生まれで、明治元年(1868)の村内で戊辰戦争が行われたときには二十七歳くらいである。
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■会津史学会機関誌『歴史春秋』第五七号は平成十五年(2003)に発刊された(2400円)。村内大芦出身で会津若松市内在住の星甚恵氏は「栗城義綱「公私摘要初編」について」を執筆されたが、本誌の誤植が多いことから別刷を作成し差し替えをしている。本文中に公私摘要六冊の写真が掲載され「昭和村小中津川 栗城栄寿氏蔵」となっている。
 「公私摘要」について会津史学会等での取り上げ事例について詳しく紹介している。
 昭和四十八年発行の『昭和村史』に引用され、庄司吉之助氏は『世直し一揆の研究』に引用、大塚実氏は『歴史春秋』四三号に「公私摘要戊辰中編、後編」の史料吟味を経て庄司論文の批判再考を発表されている。
 また平成八年度の会津史学会古文書研修会のテキストとして取り上げ、海老名俊雄氏が講師として解読解説をし、さらに海老名氏はこの「公私摘要戊辰中編、後編」の分析を通して『会津戊辰戦争と一山村の動向』(『歴史春秋』四五・四八号)を発表されている。平成十三年には昭和村の郷土史家馬場勇伍氏が『乱雲戊辰の晩秋』のなかに引用され史料紹介をしている。
 これまで引用されてきたのは「公私摘要戊辰中編」が主であるが、「公私摘要」は全六冊の構成である。
 第一冊は「戊辰初編」で嘉永五年より慶応四年九月迄のもので同秋まとめ、第二冊は「戊辰中編」で明治元年九月より明治二年十月までのもので同年十二月のまとめ、第三冊は「戊辰下編」で神職・寺院・修験の触面の事で、明治二年十二月のまとめ、第四冊は明治四~五年両年のまとめ、第五冊は明治六年より十五年にわたる記録である。第六冊は明治十七年より四十二年までの各年の主な出来事について簡略に記してある。
 著者の栗城義綱(浜三)については未調査であるが、野尻組小中津川村の肝煎である。前記馬場勇伍氏によれば、天保十二年頃の生まれで、明治元年では二七歳位であったという。奥会津の僻村において、刻々と変貌する中央の状況をよくぞつかんだものと感嘆せざるを得ない。
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2012年1月22日日曜日

山内(やまのうち)横田氏(只見町史1巻)


■2011年7月末の只見川水害(ダム放流による災害)は、中世の奥会津の山内氏の支配域で発生した。このたび1週間の風邪引き休養のなか『只見町史第1巻』を読んだ。
 福島県南会津郡只見町が平成16(2004)年2月19日に刊行した『只見町史 第1巻 通史編1 自然・原始・古代・中世・近世』で、第2章第2節の後半、201ページから山内横田氏と伊北(いほう)、第3節257ページ山内氏の会津下向、338ページまで記述されている。執筆者は日本城郭史学会代表の西ヶ谷恭弘氏である。過去に著されたものと比べ、内容も充実しており、まず山内氏については、『只見町史1巻』から、一読することを奨める。
 これまで昭和48(1973)年11月に昭和村役場から発刊された『昭和村の歴史』で山口孝平氏により室町時代の山ノ内宗家の会津移住(40ページ)から野尻山ノ内氏(牛首城)などの記載がある。
 その後、昭和49(1974)年3月に金山町が発刊した『金山町史 上巻』で、東北大教授の高橋富雄氏による山内家に関する記述(176ページから391ページ)。山内家の拠点が金山町横田にあったことからこれまでのなかでは多くの記載がなされている。
 一方、現在の三島町、柳津町等も支配域であった。金山町史を執筆するにあたって『三島町史』を読んだと高橋富雄氏は書いている。このほか南会津郡の『田島町史』『南郷村史』なども山内領域について関連記述は多い。
 さて『只見町史』では、伊達軍の攻勢から、山内横田氏は、現在の只見町只見に残る水久保城で最後まで戦った場所であることから詳細な記述をしている。西ヶ谷氏はかなり前から全国の調査のほか、会津地方の中世城館跡の現地調査を行っており、そうした広い見識のなか山内横田氏について書いており、現状の研究成果のなかではいちばんまとまった内容となっている。
 『会津四家合全』は『昭和村の歴史』で山口孝平氏は史料価値のないものとし、『金山町史』で高橋富雄氏も内容批判をしているが参考にもしている。『只見町史』で西ヶ谷氏も高橋氏と同じ立場で一級資料ではないが参考になるところもある、としている。会津藩士向井吉重が1673年に著述した『会津四家合考』と、『合全』は異なるので留意が必要。
 『金山町史』で高橋氏は『異本塔寺長帳』の成立時期についても言及している。
■2009年3月に金山町出身の栗城正義氏が『忠誠日本一 二百八十年間主君を支え続けた会津山ノ内の家臣たち』として会津若松市の歴史春秋社より刊行された(三百二十六ページ)。伊達家に滅ぼされた山ノ内家臣団は、農民となり近世江戸時代から幕末までの様子を詳述している。特に戊辰戦争で会津藩に従軍する。
■会津四家合全については次のサイトが紹介している。2004年から07年記載→ 山ノ内氏 


クツギとコメカボイ、口暮(クチグラシ)、口竈(くちかまど)


2011年12月20日(火)に、会津ー新潟ー富山からはじめて訪問した合掌造り保存集落の五箇山・菅沼集落。雪のなか、五箇山民俗館のぐし部分の茅吹きが地元森林組合により行われていた。1995年に上流域に隣接する岐阜県白川郷とともに世界遺産に登録された。
 菅沼や相倉などの合掌集落がある五箇山が依拠する経済文化圏は、いわゆる富山県の砺波市周辺であり、かつての越中砺波郡の一向一揆の拠点である。火薬原料の焔硝を堆肥を作るように植物から製造していた拠点が白川郷・五箇山など合掌造り民家の地下(床下)である。焔硝と木炭、硫黄で火薬は製造される。 
 日本国内で広く行われた平成の大合併、広域に町村が併合した。当地も富山県南砺市菅沼となっている。
 この菅沼集落にある五箇山民俗館の受付で販売していた書籍『五箇山の民俗史』は、平成14(2002)年3月20日に富山県東砺波郡上平村教育委員会から発行された。上平村は平成16年に合併し南砺市となる。
 著者は小坂谷福春さん。五箇山(上平村西赤尾町、菅沼集落の上流の集落、現在の五箇山インター近くの集落)に生まれ育った著者は、昭和40年代に3冊の自費出版を行った。
 五箇山の民俗史第1巻『もだえる合掌集落』(昭和44年9月刊)、第2巻『落人の伝承』(昭和45年6月刊)、『ななつぶとん』(昭和46年6月刊)
 この3冊を合本したものが購入した『五箇山の民俗史』である。
■285ページを読み終えてみると、日本海積雪地帯である五箇山と奥会津には共通した文化があることがわかる。そして言葉にも似たものが多いが異なるものもある。山野自然の利用でも共通なものが見える。
 本誌のなかから、たったひとつ言葉を抽出するとすれば、次の語彙が記載されていることである。以下紹介する。
■「衣の話」として新田石松さんが語ったこととして、
 明治四〇年(一九〇七年、、、いまから百年前)ころまでは、一人前の若者は、みんな「クツギ」に出た。これは家に食べるものがなかったので、どこへでも行って、働いて、食べさせて貰うためのものであった。クツギに行くと、お盆には、たいてい夏着と五尺五寸の白木綿が貰えた。お盆に家に帰ってきて、この新しい夏着を着るのが、若者たちには何よりも楽しみであったものだ。(以下略)
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■「クツギ」とは筆者はカタカナ表記でしか書かれていないが含意は「喰い継ぎ」であろうと思った。
 ここで思い出すのは、奥会津・昭和村小野川の大岐集落で我が家の祖母・トシ(故人、明治42年生まれ)に26年前の1986年1月25日に聞いた話の中に、「カボイカタ」という語彙が出て来る。
 節約することを「カボイカタ」という。かばう、という現代の言葉にあたる。集落の周囲の里山(コナラ林)を春木山で伐り作った薪を燃やし湯を沸かす風呂。新しい水を張った風呂は「あらゆ(新湯)」、翌日にまたその水を汲み変えずに湧かせば「たてかえし」。三日目に水を入れ替えると「二晩でたてかえす」という。新湯には熱量を必要とすることから薪の使用料が多くなる。たてかえしは新湯より薪の使用料も少なく、また使用する水も総量が少なくなる。
 我が家だけで風呂をたてずに、家では数日おきに風呂をたてることとし、そのかわりに隣接家にもらいゆ(もらい湯)に行くことも多かった。そうして集落全体で使う薪を節約した。これを「木をかぼう」(木をかばう=木の節約)といった。
 同じことが「コメカボイ」である。主食であった穀物である米を節約する、のである。秋に収穫した米など穀類・野菜を節約するために、男衆は野良仕事ができなくなる冬期間に地域外に出て、そこで飲食をする。そのことで自家の穀類等は減りが少なくなる。こうして自家の「米を節約する」のである。これが出稼ぎの主目的であった。
 昔は、雪が降ったから「コメカボイ」に行ってくっかあ、、、、と語られていた。
 戦前までの出稼ぎの目的は自家の食料の節約であり、得られる労働報酬よりも冬期間に他地域で寄食することに主たる目的があった。それは会津の茅手と呼ばれた茅葺き職人としてのこともあったろうし、漆器の商人、あるいはホイト(乞食)として無雪地帯を冬期間のみ、ものごいして歩く、ということもあった。そして雪の降りおさまった春に集落に帰るのである。(菅家博昭)

■山口孝平『近世会津史の研究 (上下巻)』(歴史春秋社、1978年)。上下2巻本の下巻147ページに「天明飢饉の惨状」で、天明2年(1782)の大塩組(奥会津 金山町)の事例として、
 口暮(くちぐらし) 稼ぎのために他邦に出ている。鋤取=働き手の長男は口暮に出て、、、帰村しないものも多い、、、
 つまり食糧が無くなり、生きるために冬期間に家を空ける。食べ物を得るための行為であるから物乞い(乞食)も含まれると思われる。
 『昭和村の歴史』(1973年)の執筆も担当された山口孝平氏は明治30年(1897)会津若松市生まれ、昭和27年3月教師を33年間勤める。昭和37年会津若松史出版委員会事務局編集長として市史13巻発刊。同年、福島県史編纂委員として福島県史26巻発刊。会津史学会初代会長。(2012年3月2日追記)
■『歴史春秋64号』(2006年)に海老名俊雄先生が「天明八年(1788)巡見使御案内手鑑」の翻刻文を紹介している。そのなかに伊南伊北(いないほう、現在の南会津郡伊南川から只見までの流域)では、「若者どもは関東へ口竈(くちかまど)まかり出」とあり、冬に「口減らしのために出稼ぎに行く」と解説。(2012年4月14日追記)

赤羽正春著『樹海の民』


■新潟県村上市在住の赤羽正春さんの最新著作『樹海の民 舟・熊・鮭と生存のミニマム』(2011年10月刊、法政大学出版局)を購入し読み始めた。ダムに沈められた越後奥三面の発掘調査を担当した赤羽さんは、植物採集・熊・鮭などから日本に大陸文化が伝わる北からのルートをたどり、たどりついたシベリアの小さな村の調査記録である。
 半年間、冬に閉ざされる人々は、生活を万全の備蓄で乗り切るだけの知恵を育んできた。この環境に対峙し築きあげてきたのは各様の文化である。生存にすべての知恵を使わなければならないシベリアが文化のゆりかごのような地帯、風土となっていたという事実を発見した、、、、(序章より)。
■『世界12月号』(岩波書店)の表紙は飛島建設が強制連行した朝鮮人を使って建設した福島県三島町の宮下ダムの写真である。
20111130dsc06025
 

2012年1月16日月曜日

2012年1月19日、18時 新春懇談会

■金山町玉梨 恵比寿屋旅館で実施します。事前申込必要。奥会津書房まで。→終了しました。

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福島県立博物館 赤坂憲雄館長

■→2012年1月19日(木)午後1時30分~ 遠野物語を読む22

■→ 2012年3月3日、福島県立博物館 東北復興シンポジウム

山折哲雄(宗教学者)、川勝平太(静岡県知事)、安田喜憲(国際日本文化研究センター教授)、山田恭暉(福島原発行動隊理事長)、赤坂憲雄(館長)


3月3日(土) 13:00~16:00

 12:30 開場
 13:00 開会挨拶  仁連孝昭(NPO法人アスクネイテャー・ジャパン理事長)
 13:10 基調講演 「フクシマ」と共に  山折哲雄
 13:30 福島原発行動隊の道  山田恭暉
 14:20 休憩
 14:30 パネルディスカッション 「フクシマ」と共に
       コーディネーター 赤坂憲雄
       パネリスト     山折哲雄、
山田恭暉、川勝平太、安田喜憲
 15:50 閉会挨拶  河本英典(NPO法人アスクネイテャー・ジャパン副理事長)


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■ 3月24日、蘆名盛氏と子どもたち 中世担当 高橋充さん