2008年12月25日木曜日

1枚の写真で家族の歴史を継承する

■2008年12月25日(木)18時30分、福島県内のNHKテレビが放映しました。






■東北文化研究センター誌『まんだら』2009年への原稿

 会津学研究会 菅家博昭

 二〇〇八年の秋は、アメリカ合衆国発の地殻変動が世界を覆うことになり、記録に残る年になった。九月一五日には証券会社リーマン・ブラザーズが破綻し、世界同時不況が広がっていく。一方では新たに黒人初のオバマ次期大統領が選出された。
 日本では自動車会社、電機会社が千人単位の労働者の削減を発表、実施し、殺伐とした年末を迎えている。
 私の暮らす奥会津・昭和村大岐という標高七三〇メートルの集落では、地球を覆う国際経済とは反対に、いつもと同じ、平年並みの順調な降雪となっている。ブナが落葉した十月三十日に一四八二メートルの博士山頂に初雪、十一月八日に二回目の雪。十一月九日に集落に三十センチの降雪で、家業の花の生産はすべてを終了とした。十二月六日に二十センチ、十四日に五センチ、、、、と根雪となっていく。
 そんな雪が降るなか、奥会津地方の小中学生・高校生の聞き書きがまとめられた手書きの原稿用紙を、私は、毎日、繰り返し、読んでいる。

 八十七歳の祖母から話を聞いてまとめた中学二年の男子M君は「大切なもの」という題でこんなことを書いている。
 「『昔は学校で勉強なんてできなかったんだぞ。家の手伝いがいそがしくてなあ。豆腐作りを手伝ったり、、、、これだけは言うぞ、何でも自分でやることが大切だぞ。悪いことは絶対にするでねえぞ、、、、』ばあちゃんが泣きながら、しゃべっているのをみて、つらいことや、楽しいことなど、いろいろのりこえてきたんだなあ、と思いました。昔のことがしれて良かったです。ぼくが今ここにいるのもばあちゃんのおかげなので、ばあちゃんには感謝したいです。
 この夏、会津学研究会の拠点である奥会津書房が関わりながら、「奥会津・こどもの聞き書き百選~一枚の写真から」に、六町村から小学校四、中学校五、高校二から、計百十七点の応募があった。只見川電源流域振興協議会(会長・只見町長)が主催、奥会津の生活史を掘り起こし、後世に継承していくのが目的で、新しくはじめられたものである。
 奥会津書房はこれまで子どもたちの聞き書き集や、高校生の聞き書き講座などにも関わっており、その一部を雑誌『会津学』に掲載してきた経緯がある。また、ゆとりの時間のいわゆる課外授業は地域文化を継承する意味でとても重要な役割を果たしてきた。たとえば昭和村の小学校では苧麻(からむし)生産・制作の現場に小学生が出向き、古老たちから聞き書きをしてまとめた記録を壁新聞にし、自らも糸作り、小さな布作りを教わりながらそれを展示している。継承とは、老人と子どもが直接会話することが大切であり、家庭内でそのことを奨めることが聞き書きは手段のひとつになっている。
 

2008年11月25日火曜日

2008年9月19日金曜日

水車小屋事件

■→→→水車小屋事件 9月17日 南会津町

丈夫な草なんだ。作ったものが長持ちする。




■福島県南会津町今泉に会津鉄道山村道場駅がある。国道でいえば栃木県境の山王峠に向かい、会津田島の河川(大川)の平地がちょうど終わる付近で、ここに奥会津地方歴史民俗資料館があり、茅葺き民家が移築・保存・活用されている。隣接し、うさぎの森キャンプ場や会津山村道場がある。

 2008年9月17日(水)首都・東京の花の卸市場での打ち合わせの帰り道に、この資料館をたずねると、ちょうど湿地植物のガマ(蒲)の葉干し作業が行われていた(写真)。草履などの手仕事用に採取し乾燥しているのだ、ということだった。

 昨年春に会津学研究会の春季講座が只見町で開催されたとき、南会津町田島の渡部康人さんが参加された。今回は奥会津地方歴史民俗資料館に渡部康人さんを訪ね、話をうかがった。

 ちょうど、朝の開館を前に、移築民家ではいろりに薪が焚かれ、掃き掃除が行われ、水車小屋のなか等にガマの葉干し作業がはじまっていた。この立地地域の今泉のTさんという古老も手仕事を民家内で行っており、体験の先生として活躍されており、康人さんに紹介していただいた。ヒロロのことを聞くと、つぎのように返答があった。

「ヒロロも使うけれど、俺はシバクサを多く使った。シバクサの方が強くてミノ(雨蓑)に作っても3年も5年も持つからな。二百十日を過ぎると引き抜くんだが、葉の縁にとげがありそれで手を切るから軍手など手袋をかけて引き抜く。だいたい二カ所に採取場所があるけど、山奥だよ。シバクサはヒロロより作ったものが長持ちするからいいんだ」

■シバクサについて調査中、イワシバと同義かどうかも調査中。

2008年9月8日月曜日

会津学夏季講座終了



■楢枯れと会津学4号発刊、夏季講座

 資源高騰の時代となり、石油を焚く農業が出来なくなった年でもある今年、この6月の岩手・宮城内陸地震により東北も地震への備えが必要であることが再認識された。東北南部の福島県会津地方には会津盆地西縁断層帯が南北35kmにわたり横たわっており、この活断層の活動により形成された丘陵地の樹木に異変が起きている。これまで局所的にマツクイムシにより被害が見られたアカマツの樹林のほとんどが、この夏に枯れた。9月はじめに枯れた丘陵が数十kmにわたり続く光景は樹難の年として記憶される。磐越自動車道で会津若松から新潟に向け進み、この断層帯丘陵に造った会津坂下トンネルの両側のアカマツは枯れているのがよく見える。トンネルを抜け、会津坂下インターから只見川を遡上し柳津町・三島町に入るとミズナラ・コナラの楢枯れが目立つ。2000年に新潟県境から会津にカシノナガキクイムシ被害が入り込み、現在は柳津町・三島町・会津美里町等の楢を中心とした広葉樹林が広く枯れている。宮川流域では植林した杉の一部も枯れ始めている。会津地方の基層文化をささえた森林が低標高地から消滅しようとしていることにたいして誰一人危惧を抱かない時代である。
 この樹林から選び出した木や草を利用して人びとは暮らしを立ててきた。昨年夏に、福島県立博物館は鹿児島県の黎明館と共同で企画展「樹と竹」を開催した。それが縁となり、この夏の終わりに鹿児島県内の民俗学研究者が6名、奥会津の村々を歩いた。

 9月5日、6日と福島県三島町の交流センターやまびこを会場として会津学研究会主催による夏季講座を開催した。「北の民具・南の民具」をテーマとしたが、鹿児島県から来県された方々の研究成果を短く報告していただき間方集落でのフィールドワークや、討論を参会者30名余で行った。進行は佐々木長生さんに依頼した。
 南西諸島のことを含め鹿児島民俗学会代表幹事の所崎平さん、牧島知子さん、米原正晃さん、出村卓三さん、新納忠人さん、川野和昭さんから話をうかがった。所崎さんは神舞と食べ物について、牧島さんは芭蕉布・葛布・芙蓉布など植物繊維を原料として織物について、米原さんは地引き網漁、出村さんは沖永良部島のムン話の分布が集落の境界のマタと呼ばれる窪地に集中していること、川野さんは野牧絵図のオオカミの作喰狩(犬ねらい番所)について話題を提供した。
 赤坂憲雄さん、佐々木長生さん、地元間方の菅家藤一さんを加え、奥会津と南西諸島の違いと共通点を明らかにし、今後地域学研究や聞き書きのあり方が議論された。
 『会津学4号』が8月に発刊され、その巻末にハラミドリヒメギスという奥会津から新潟・山形の山岳地帯の豪雪地帯に生息するキリギリスの生態について、山形県小国町の草刈広一さんからの調査や研究報告も行われた。最終に会津で進行する楢枯れにどのようにして人間は対応したらよいのか?という議論がなされた。小さな昆虫が広く社会の基層文化を変えるほどの威力を持つ時代であることが強く印象に残った。 
 来年5月末に鹿児島県の沖永良部島で地域学の会合を開催することが決まり、会津学研究会からも参加することを決めた。 菅家博昭(農業、会津学研究会代表)

2008年9月3日水曜日

かやぼっち(kaya-botti)




■2008年9月1日午後。立春から数えて210日の日、会津地方の柳津町で、ススキを刈り取る70代の老女がいたので話を聞いてみた。自動車を停めて、作業をしている場所に歩き近づく。

 電動カートで離れた集落から山奥の田んぼに来ている、人は多くなった。この女性が自分で運転して乗ってきた電動カートには「すぐったワラの束がいっぱ(一束)」後部荷台に載っている。縦縞の木綿地、もんぺのようなズボンに長靴、水色の上衣に濃えんじ色の布の手差しを軍手の上に掛ける。紺の図柄の入った1枚の手ぬぐいを頭にかぶり頬を護り、そのうえに、日よけのための市販されている、赤いひものついた麦わら帽子をかぶる。その幅広の布ひもの赤は正面にむけている。長さ50cmほどの木製の白い柄のついた鎌の金属製の刃は幅広で、左手で持ったススキ(かや)の根元を右手に持った鎌の刃をあてて引ききり、その後、穂を根本から落とす。腰に結わえた「すぐったワラ束」から数本、ワラを右手で引き抜いて刈ったススキを結わえる。ワラ束の根本は引き抜く側の右腰にしていて、ささくれだたないように、抜きやすい方に付けている。一連の作業は熟練したものだ。自然と体が動く。




「こんにちは、、、はじめまして」

「???」(作業を停め、帽子を取り、頬被りした手ぬぐいをはずす)



「あの、このススキを刈って束ねて立てたものは、なんて呼ぶのですか?」

「???」



「萱(かや、、、ススキのこと)刈りですか?」

「そうだけんども、、、何でそんなこと聞くのや?」



「呼び名を調べているんです」

「ここは、田んぼだったけど、荒らしてしまったら萱(かや)が生えてきて、その萱を毎年刈り取って、持ち帰って、畑に堆肥にして入れて来年のためにしてんだ。田んぼはワラが入っからな、だげど畑は何も入んねべ。だがら萱入れんだ」



「刈り取って何日ぐらい乾燥するんですか?」

「今日、刈り始めたけんど、くたびれっから(疲れるから)、刈って倒してだけおくんだ、、、、」



「束を組んであの立てたふたつのものは?」

「かやぼっち」



「かやぼっち、っていうんですね」

「そうだけど、ほら、あそこの田んぼにいる親父はよぐ知ってっから、あの人に聞くといい」



「手を止めてすみませんでした。ありがとうございました」

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「おじさん、あれは、カヤボッチって呼ぶんですか?」

「そうだ。今刈り取って、30日くらい乾かしてから昔は背負って帰ったもんだ。あのな、稲刈り前に萱を刈って立てておく、その後、稲刈りをやる。稲刈りが終わる頃に、萱は乾き、軽くなるから背負ってもラクに家に持ち帰るんだ」

「ありがとうございました」

-----

■仕事がうまく組み合わされている。萱(かや、ススキ)は屋根材、堆肥、冬囲い、動物の飼料などになる万能素材。

■植物を刈り取り、立てて干す。軽くしてから運搬し、そして使う。

■東京新聞2月3日、聞き書きの旅を続ける野本寛一さん

2008年9月1日月曜日

生業とは?

■千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館編『生業から見る日本史~新しい歴史学の射程』(2008年3月刊、吉川弘文館)は、2005年からの共同研究の中間報告として2006年11月18日に第56回歴博フォーラム「新しい歴史学と生業~なぜ生業概念が必要か」の報告集である。

 自然や環境の地球的規模での有限性がはっきりと認識されるなかで、自然と社会を調和させてきた前近代の民衆がもつ知の体系を再検討することが今、もとめられている。日々の生活のなかで生き抜くための生産物だけを自然から秩序だてて獲得してきた民衆知の世界が存在した。浪費や富のための拡大生産を自主規制してきた世界観が存在した(井原氏まえがきより)。

 66ページから野本寛一氏が「生業民俗研究のゆくえ」として生業複合について述べている。会津学に寄稿していただいた会津桐や三島町の農林業のこと、また昭和村の苧麻(からむし)についても言及している。野本氏は69ページで、「朝倉奈保子の「苧の道」(『会津学』第二号、二〇〇六年)は、カラムシの生産と流通に関する貴重な調査報告として注目される」としている。

 また、新しい動きとして、川野和昭の「竹の焼畑と水~栽培と跡地の再生と水」(『季刊東北学』第2号、二〇〇五年)などもアジア的視野のなかで焼畑を紹介している、と評価している。

 川野氏は9月5日~6日の会津学夏季講座の主要な講演者の一人で、鹿児島からアジアに広がる竹の文化について講演が予定されている。

2008年8月27日水曜日

9月5日~6日 夏季講座開催

■9月4日(木)午後1時30分~ 木曜講座(福島県立博物館)赤坂憲雄氏、佐々木長生学芸員が開催されます。その翌日から2日間、三島町で会津学夏季講座が開催されます。

■福島県立博物館で昨年開かれた「樹と竹」-列島の文化、北から南からー の展示の際、専門学芸員の佐々木長生氏は、「南の民具はなんて軽いんだ!」と驚愕したという。北と南の比較展示は、北の学芸員と南の学芸員との知的格闘の場でもあった。今回のゼミナールはその延長上で実現したもの。

日時:9月5日(金)~6日(土) 場所:三島町 交流センター山びこ
参加費:1,000円 (資料代等)  (申込締め切り:9月1日)

第1日目 9月5日(金)10:30~16:00


10:20  集合   三島町生活工芸館前(駐車場あり)

10:30~12:00   ヒロロ綯い、ストラップ作り体験(体験は別途500円)
       三島町生活工芸館

13:30~15:00   パネルディスカッション
           「北の民具・南の民具(仮題)」  



赤坂 憲雄氏(福島県立博物館 館長)
川野 和昭氏(鹿児島県歴史資料センター黎明館学芸課長)
佐々木長生氏(福島県立博物館専門学芸員)
菅家 博昭(会津学研究会代表)



第2日目  9月6日(土)9:00~12:00


09:05~10:00  講演「新緑色の昆虫・ハラミドリヒメギス(仮題)」 草刈 広一氏  


  
10:30~11:15  フィールドワーク 三島町間方地区 (希望者のみ


申込み・問合せ先 奥会津書房(申込締め切り:9月1日)
Tel:0241-52-3580 Fax:0241-52-3581
E-mail:oab@topaz.ocn.ne.jp

2008年8月13日水曜日

会津学 第4号 刊行なる

■2008年8月13日(水)会津学第4号が印刷されて送本されてきました。8月15日に予定通り刊行となります。

 →→→奥会津書房

2008年8月4日月曜日

会津学 第4号 刊行へ

■2008年7月末、最終校正を終えた『会津学 第4号(年1冊刊行)』は8月15日発刊予定です。2~3段組で300ページを超えました。ずっしりと重い本が印刷作業にまわっています。

■発刊を記念して例年のように夏の会津学講座は、9月4~6日頃に予定しています。鹿児島県からの来客を迎え、

9月4日(木)午後1時30分~ 福島県立博物館(会津若松市)で赤坂憲雄館長の木曜講座。
9月5日(金)と6日(土)に会津学夏季講座を予定しています。

2008年6月8日日曜日

ヒロロ(深山寒菅)のいま  会津学4号掲載予稿

ヒロロ(深山寒菅)の今
福島県昭和村大岐 農業 菅家博昭

雪国の会津の冬でも枯れることがない常緑の深山寒菅(ミヤマカンスゲ)というスゲ類の植物がある。夏は細く長い新しい葉をのばし、冬には地上部の葉の先や、一部は枯れるが根株と一部の葉が残り、地面を冬でも緑色の葉で覆う目立たない草である。
 日本列島に自生するが、会津地方、特に奥会津でも、沢筋の半日陰の水はけのよい斜面に自生し、山体全体でもみられるものである。湿地に生えるのものではなく、陸生のスゲ類であるそれを「ヒロロ(ひろろ)」とよぶ。
 採取・乾燥して縄にしカゴやハバキ、ミノなどに加工してきた。そして、ヒロロ、、、とても不思議な韻を持つ名前だ。大辞林という辞書では「ひろろ・ぐ」として「ひょろひょろする」「ぐらつく」「よろめく」という意味である、と書かれている。野に生える様子を示しているのかもしれないがヒロロという名の意味は不明である。この呼び名は、会津から新潟県にかけて分布するようである。
 会津地方の市町村史などを見ると掲載されている文字数は少ないものの、ヒロロは多くは蓑(ミノ)の材料として利用したと書かれている。
 この草は葉の幅が広いものがあり、ウバヒロロとよび、植物学的にはオクノカンスゲとされている。ウバヒロロに対してはミヤマカンスゲをホンヒロロと呼ぶことがある。
 つまり奥会津地方では、ミヤマカンスゲとオクノカンスゲの2種のスゲ草を総称してヒロロと呼ぶのである。
 ウバヒロロは葉の幅が広く、草丈も長いほか、株からの引き抜き採取時期は六月であり、陰干し乾燥し、その長さを活かした利用法がある。またホンヒロロ、一般にヒロロと呼ぶそれは九月上旬に採取し陰干しする。葉の繊維が弱くなく、硬くなく、引き抜き採取も容易な時期が九月上旬である、という。干すのも緑色を残す工夫をしている。できあがりのことを考えた採取時期の最適時期が種により異なる、という人びとの知識にはとても大切な自然物の利用の仕方の考え方がみられる。一年おきに採取するという隔年利用で株を傷めない工夫、また根を傷めないように引き抜き方の工夫は山菜として食するフキ(蕗)などでも根を残して引き抜く力の入れ方、株元を足で押さえる等の技法が一般的な知識として体得されている。
 ヒロロのような山地に自生する草を採取し、軒下等で干し、天井裏に保管し、縄を綯う、撚る、という作業は主に冬期間に屋内で行われた。
 樹皮の繊維を利用する技術、多年草の草をそのまま利用する技術など、現在でもその数は少ないながら、人びとは山との関係を保っている。また記憶の深部に、人びとが若かりし頃、それはとても貧しかった日々の記憶でもあるが、山から草を採取したことは容易によみがえる。
 野の獣や鳥、、、ヤマドリや野ウサギが冬場に沢の雪の消え間で採餌した植物のひとつとしてこのヒロロは猟師の記憶にも残っている。ヒロロは、山に棲む生きものを雪一面の冬に支えた常緑の植物のひとつでもあった。

 標高七百三十メートルの、福島県昭和村大岐の集落の周囲でのヒロロ(ミヤマカンスゲ)の自生地を観察してみると、水が流れる沢の付近の木立の中であり、水が流れるくぼみの岸の土手のような場所にある。春先には雪解け水では根株が水に一部洗われるような場所だけれども夏場は冠水することが無いような沢の床よりも五〇センチくらい高いような場所で腐葉土が堆積した上に根を上流から下流に伸展したかたちで群生している。根は十センチほどあるが地下茎(根)と地上部の接点の少ししたに白い根が数本出ている。主根は上流側に向かって(あるいは斜面上方に向かって)伸びている。雪に押されても雪解け後に起き上がるような根曲がりの樹木と同じような生え方である。
 この観察している区の一メートル四方のヒロロを二〇〇八年六月八日に数えてみると、百五十株ほどあった。それが幅六十センチほどの古い道の踏み跡に沿って道幅で群生している。しかし藪で日照がほとんど無いような場所には株は無い。地上部が半日陰のような、上空が見えるような隙間の場所の下にはびっしりと密生している。
 新葉が十センチほど伸び、花茎も立ち先端部の雄小穂と、そのしたの雌小穂二から三個あった。茎元の基部は暗赤褐色である。根は腐葉土の上に横たわったように自生しているが、容易に根ごと引き抜ける。葉にはトゲなどは無くざらつくこともなく、しなやかである。昨年伸びたであろう濃緑色の古葉の長さは三十から四十センチメートルほどである。中心の新葉は淡緑色で長さは十五センチほど伸びていた。


ヒロロの根ほぐし
 二〇〇七年九月五日の午後に福島県大沼郡三島町名入の三島町生活工芸館に電話をした。この年の一月十九日に志津倉山の北麓流域の地名を教えていただいた、三島町間方集落の菅家藤一さんに合うためです。翌日、九月六日の午前十一時に訪問することになり、八月中旬の盆に出来たばかりの本『会津学三号』を届けた。

 日本の首都である東京都内の大学四年生の久島さんも今回は同行する、ということで、三島町宮下の奥会津書房に十時四十五分に行き、彼女を乗せて、生活工芸館に十一時五分に到着した。山びこ・どんぐり、、、の前には学生が多くいて都内の美術大学の木工の教室があったようだった。藤一さんから、話は三十分聞いて、お礼を言い、久島さんを奥会津書房に送り、すぐ昭和村大岐の家に私は戻り、かすみ草のハウスを補強する台風対策をした。

 生活工芸館の玄関を入ると、同町役場の五十嵐政人さんがいたので、挨拶して、館内に入り、小柴君に菅家藤一さんの作業している場所に案内してもらう。
 藤一さんは、事務所から抜けた軒下(外)で、野草の整理をしていた。今日は地名を聞くより、いま行っているこの作業のことを聞くことに変更し、いくつか話を聞いた。藤一さんは次のように語った。

「にひゃくとうか(二百十日、立春から数えて)を過ぎたら、山の沢筋にて野草のヒロロを採る」
「昨日五人で三百四十束近く採った」

 ヒロロには二種類あることを、このときにはじめて教わった。
 通常二百十日頃の秋に採る通常のヒロロは「ホン・ヒロロ」。同じ草で違いがあるが六月中旬でも採れるヒロロがあり、それは「ウバ・ヒロロ」と呼ぶ。
 ホン・ヒロロは「ミヤマカンスゲ」のこと。
 ウバ・ヒロロと地元で呼ぶのは「オクノカンスゲ」のことをいう。
 ヒロロは、ヒロウとも呼ぶことがある。
 いずれも見分けるのは素人では難しい、という。

 ヒロロは沢のなかの日陰向きに自生している多年草植物で、引き抜いて収穫する。根株を守るため、根を足で踏んで押さえて、茎葉だけを引き抜く。毎年収穫すると株が弱るので、採る間隔は一~二年あけたほうがよい。
 三島町間方では、ヒロロの山の口(収穫制限)は無い。ただし、人により採り場はだいたい決まっていた。
 ヒロロは引き抜き株を一枚ずつ葉をはがし「ねほぐし」という作業が、今日見た作業だった。それを束ね直して天日で二、三日干してから陰干しにして乾燥させる。根ほぐしをしないと、重なった部分が赤くなる(褐色になる)から、とう。アオ(緑)が損なわれると価値が下がる。
 昔は、二百十日に採ったヒロロを乾燥させ、それを素材として、冬に雨蓑(あまみの)、背負縄(しょいなわ)、荷縄(になわ)にした、とう。
 藤一さんは今、ここ生活工芸館に勤務しており、同館の体験教室等の素材用として野生のヒロロを収穫、根ほぐし、乾燥、の作業をしており、その日に偶然訪問したことになる。私がヒロロをきちんと意識したのはこの日からだった。


奥会津・間方(まがた)の人々に学ぶ
 二〇〇八年三月十七日(日)、十八日(月)、福島県三島町で会津学研究会による「春季講座」を開催し、参加された一五名の皆さんと、二日間、山の人の暮らしのあり方を時間をかけて学んだ。
 三島町の間方(まがた)集落で生まれ暮らしている五名の皆さんから話をうかがい、最終日に福島県立博物館の佐々木長生さんに『会津農書』『大谷組風俗帳』という近世の文献資料と現在の間方の生活を比較・連関して、まとめのお話をしていただいた。
 初日は、間方に生まれ、間方に嫁ぎ今も暮らしている三名の女性(菅家愛子さん・昭和八年生、菅家花江さん・昭和十年生、舟木トメ子さん・昭和二十年生)から「雪納豆作り」「山の食べ物」「ヒロロ細工」について教えていただいた。
 二日目は、間方に生まれ暮らしている二名の男性(二瓶一義さん・昭和五年生、菅家藤一さん・昭和二十八年生)から「集落にある神々」「狩猟(テッポウブチ)」「雨乞い」「魔の山(志津倉山)」等の話を聞いた。
 志津倉山の北麓にある源流の集落である間方集落では、南を向いて、つまり志津倉山(シンザクラやオーベエ)を向いて男は野良でも、山に入っても小便はしてはいけない、と教えられそれを守っている。最近まで「マノヤマ(魔の山)」と呼び、山頂から麓に降りる場所は数カ所しかないため、地元に住む人もたいへん気をつかって山に出入りしている。天狗様が棲んでいるともいう。そのため山に入ったらあまり大きな声を出さないようにしている。またマエツボ(前坪山)にはカシャ(化け)猫も棲み、それが土葬で埋めた死人を喰うので、間方の葬式は暗くなる夕方に行う。埋めた墓にも三本の木を曲げて六脚を土に刺し、弓にしてはねるようにしつらえる。昔は黒松を伐り芯木としてサイノカミも正月十五日にやったけれど、その黒松が無くなり、昔は杉の木も植えていなかったので、サイノカミで火事になったという理由にしてサイノカミは行わないようにし、雪で直径五メートル、高さ二メートルのドウを作り集落を上手と下手に分けて鳥追いとした。
 志津倉山で雨乞いをすると雷雲が出て雨になる。また美女峠伝説にちなむメサツ沢とい
 サンボダケ(エゾハリタケ)は、ブナ、トチ、ミズメ(ミズネ)のほか、ハナの木、カエデにも出るが、八割はブナに出る、という。
うのがある。
 山のモワダの木(しなのき)は六月中旬に伐り、皮を剥ぎ池などで二十日間ほど腐らせ、皮を剥ぎ、乾燥させ保存する。乾燥状態では弱いけれど、水に濡らすと強くなる。荷縄などを作った。葉の長いものと、丸い葉の二種類がある。
 ヤマブドウはこえた土、広葉樹の森でないと育たない。採取をただ続けていくと無くなるから栽培することも考える必要がある。皮は三重になっており、六月下旬から七月十日頃の山の栗の花が咲いたころに採取する。ナタ(鉈)やヨキ(斧)の刃を守るサヤにした。外皮は鬼皮といい、水に浸して形を作り、ソリ引きのときの肩荷縄にした。いまの手提げカゴひとつ作るに三本のヤマブドウが要る。
 マタタビは「ヤマを作る」ことをしておく。それは芽をふたつ残して剪定しておき、春から秋に伸びたツルを採取し、米などをとぐコメトギザルやヨツメザルを編む。
 ヒロロは多年草で、二種あり、ホンヒロロ(ミヤマカンスゲ)は、春から秋に伸びた葉を秋、二百十日頃に引き抜き採取し、根を残す。ウバヒロロ(オクノカンスゲ)は、六月下旬に採取する。雨蓑(あまみの)や背負蓑(しょいみの)、山菜採りのスカリ(腰カゴ)にする。
 二日間、話者から、参加者は、ヒロロを縄になう手繰りを教えていただき、稲ワラで納豆つとを作る作業をともに行った。稲が入ってくる前の時代の縄はモワダという樹皮繊維であり、ヒロロという谷筋の沢沿いに自生する草の葉を利用していたことがわかった。また稲ワラを利用した納豆つとには二種類あり、簡単に作れるものは「モノグサ」といい、十二月の下旬に作るセツ納豆用のツトはきちんと編みこんで作るものでした。雪の中にクタダラ(稲ワラのくず、クタダ)をしいて納豆ツトをならべ雪を積みしっかり踏み込んで二日間ほどで納豆になった、という。

 イロリでゆでた大豆を納豆ツトに詰めるときに、一本の5cmほどの稲ワラ(茎)を結んだ「ヨメ」を豆の中に一個入れ、ワラを閉じ、周りを二人で結ぶ。「必ず二人でやるんだよ」と何度も語ったことがとても印象に残っている。正月用のセツ納豆は、家族、つまり母と娘、あるいは母と嫁、、、など家族に作法を伝える仕組みを持っているということが理解できた。藁で縄をなう作業などは、親に少し教えてもらったら、あとは工夫しながら一人で行う、根気がいる仕事。その一方で家の行事に関わる作業にはできるだけ人手をかけるように仕向けていることがよく考えられている。

 私は、この間方の志津倉山の反対側の南麓の昭和村大岐に住むのですが、この山から下りてくる雷雲は必ず雹害をもたらす、としてこの山塊の「ショウハチハヤシ」の空が黒くなったら気をつけろ、という伝承を抱えています。大岐の北西後背山地が「ショウハチハヤシ」。

 本稿を書くために大岐の父母にもヒロロのことを聞いてみた。特に、四十八年間、日常的に接している猟師でもある父に、私自身がヒロロの文献調査のなかで知った「ヤマドリがヒロロを食べる」という新事実も聞いてみたが、父は知っていた。つまり父のなかでは山中で見聞きした常識であり、それを知らない聞き手である私の話の引き出しかたが足りなかった、わけである。
 白い雪で山野が覆われる冬期間に常緑の植物ヒロロや笹類(ブナ林のチシマザサなど)は、水の力で雪が溶け地面が出ている沢筋や、風の力で雪が吹き飛ばされる尾根の特定斜面などに見える植物であり、それをヤマドリや野ウサギが食べて冬を越す。野ウサギは木の芽や樹皮しか食べないと思っていたが、ヒロロも食べる。また、ヤマドリは樹木に寄生しているホヤ(ヤドリギ)の実を食べ、雪の隙間の沢に降りて水を飲み、そこのヒロロなども食べている、と父は言う。
 人間もヒロロを食べたのか?と聞くと、食べない、という。
 大岐では男はアマミノを作り、女はホソミノを編んだ。
 ヒロロは木立のなかで、倒木などで樹冠部に空間が空き、そこから太陽光が林床に射すような場所のものが充実していたようで、「地福(じふく)」の良い、つまり肥沃な土壌の場所のものが長く、良いヒロロだったようだ。沢といっても湿地に生えるのは短いため、あまり採取せず、オカ(陸、湿地ではない土地)に生えているものを採取した。立春から数えて二百十日目頃、というのは共通している。
 ただ、二種のヒロロは大岐では分けずに採取していたようだ。
 束ねて干して冬にミノやコシカゴを編む。
 野尻川流域は「ゴウ(郷、野尻郷)」のほう、と言って、ホソミノが無かった。ホソミノは荷物を背負う時に使う背当てで、小野川(大岐も含む)で作られていた。野尻川筋ではあたらしいミノはアマミノとして使い、古いミノを背負ミノとして利用していた。
 父は清一(昭和七年生、七五歳)、小野川から嫁いできた母・ミヨ子(昭和八年生)。父は、天井(二階の物置・屋根裏)から一束の乾燥した植物の束を持ってきた。
「尋常高等学校(いまの中学二年で卒業)出て、オヤジにはじめて連れられて博士山の黄金沢の滝のところにヒロロ採りに行った。十四、十五歳の頃だ。これはオヤジが採ったヒロロだ。ホン・ヒロロ(ミヤマカンスゲ)のほか、ウバ・ヒロロ(オクノカンスゲ)も混じっている。葉の幅が広いのがウバヒロロだ」
 オヤジというのは父・清一の親のことで、私から見て祖父。その清次は明治四〇年八月十八日生まれで、私も八月十八日生まれだ。この祖父・清次の親は菊蔵と、明治三十六年に大芦から嫁いできた星トメの次男として大岐に生まれ、昭和五十一年(一九七六)三月七日に七〇歳で死去している。私はそのとき高校一年生。
 このヒロロは、採取されたのは昭和二十一年(一九四六年)頃のことになる。清次は三九歳、その息子の清一は十四歳。いまから六十年ほどまえのもので父が天井裏(屋根裏)に保管していた。
 三島町ではヒロロは根ほぐしという作業をしてから乾燥する。それを父・清一に聞いたところ、「ここらではそんなことしてないな」ということで、祖父の採取したヒロロを持ってきて、根本を見て「抜いたまま乾燥している」ことを確認した。大根葉や凍み餅を編むようにして束ねたヒロロを軒下に下げて乾燥したそうだ。

 話を聞いてみよう。

■二〇〇八年五月三十一日に父・菅家清一(昭和七年生、七十五歳)、母ミヨ子(昭和八年生)より植物ヒロロ(HIRORO、ミヤマカンスゲCarex multifoliaと、オクノカンスゲCarex foliosissima Fr. Schm.)のことを聞く。
 先日、金山町川口高校で授業で話す機会があり、そのときに使ったヒロロを干したものを五月三十一日の朝八時三十分、コタツにあたっている父母に見せる。三島町生活工芸館から入手したもの。雨の寒い日。気温十二度。

父・清一:照だち、こだつ(炬燵、コタツ)取って震えてるようだべ寒くて。
母・ミヨ子:このめえのあったけ日にコタツとった。
父:トラクターのうっしょのダンプ付いているうちに畑さ堆肥三回運んだだぞ。

父:こうだの(ヒロロ)どこにでもある。
ヒロロなんのここらの山ん中さ どこにでもあんだ。
おらいの植え付けの杉ん中の林なんかどこにでもあんべ。
こごらでは、ヒロロのねえどこねえだ。
いまちっともようと、古物ばあしで花咲いてから新芽出てくんだ。
博昭:何に使った?
父:これはミノだわや。ヒロロミノに決まってる。
おなごてえはホソミノ。
おとこてえはアマミノやってだだ。
おらいのセエオヤジはアマミノ、、、、
母:なんでもきれいだ。家のがなはこれより広いぞ。
博昭:いつ頃取んだ?
母:これは二百十日になるころ。
父:あのころヒロロぬきさいったとおもったな。
博昭:どこさ?
父:はじめてヒロロヌキいったのは、オヤジにくっついて、
オウゴンザアの滝んどっからだ。
博昭:なんで、そんな遠くまでいったのや?あ?
父:そこにあっからや。
博昭:裏山、ここにあっぺや。
父:(笑)にしゃ、ヒロロじゅうは、きだちのなかの きおっくらけえったなかの、すきまできべえ。天道様(太陽光)あだっどこ、そこさはいいヒロロできでくんだ。そこさオヤジど、滝の下から沢があんだひとつ。いいヒロロあんだ。滝の下さ、沢あんだ。

博昭:いいヒロロ、悪いヒロロの基準はなんだ?
父:長いのが、いいヒロロや。べらぼうな、そんなごどもわかんねのか?谷地(湿地)っけのようなものはみしけえべ、こごらのがな。
ヒロロねえどごねえだ。どこんでもあんだ。
谷地でもねえが、沢っけにある。
山のすてっちょう、どこんでもあっけど。あれのこえでっとこ、
地福、肥沃のあっとこが長いヒロロできんだわや。

父:ウバヒロロどって、ちっとこれらより、ちっとひれえのや。
これらはいえほうだわ。
博昭:ホンヒロロ(ミヤマカンスゲ)とウバヒロロ(オクノカンスゲCarex foliosissima Fr. Schm.)は取り方は?
父:ウバヒロロだって、なんだってすかすかとるわや。
なかなかひっこぬけなくて、ぽつ、ぽつって抜くのや。
ふわふわしてっから、根までひっこぬけんだ。
そんじぇはうまくねから、足で株を踏んで根を抜かねように抜くだ。
母:一本一本抜くだぞ。たいへんなあだぞ。
父:彼岸のめえとか、取った覚えあんだが。
おらいの林とか、炭窯の下のほうとか、
ちっとてえらなようなどこ。
きだち(木立)のなかのすきたようなとこ。
博昭:いくつのころ行ったの?
父:学校上がったら、学校の頃?
母:高等二年。尋常小学終わってから高等どって二年でる。
父:彼岸の頃行ったとおもってんだ。稲刈り前。
いまは植え付けになったが、おら、よーぐおべえでんだ。滝。
おごんざあの滝の、今の土橋んどっから入っていくど、ちょうどいえだ。
滝の下さ砂防ダムできた。ちっちぇ沢あんだ。
その沢がハタヤマの地蔵様までいってんだ。
オゴンザアとくっついだくれんどこ。
ヒロロ抜きやって。
(左手で親指と人差し指で輪を作り)
このぐらいの束にして、
ワラで丸って、おっけで、これくれいの束(そく)にして背負ってくる。
重てえほどなんで、とるよねえだ。
これカテアミみてえに縄で編んで、ほらいまだと
モチアミみてえにぬきば(軒端)さ下げる。そして干すだわ。
おとこてえは、みんなアマミノ作る。
じさま、セエ爺、オヤジはミノつくってっとこみだごとねえな。

父:毎年ヒロロとんなんんねだ。
博昭:した、何年も持つんねえの。
父:アマミノ(雨ミノ)のは何年も持つ。
にしゃ、きれんだぞ。
毎日、しょっかたなんだから。

母:たゆうさまのほうでは、あゆう、ホソミノが無くて
父:向こうはアマミノよけいでやっただ。

博昭:カゴは作る。スカリって言うんねえの?
父:カゴはカゴだ。そんなこどゆわね。
母:あれ、としょばあはカゴ作りやった。
父:あ、やったやった。
かごじゅうは、これよって、こうやってやんだが。底だげやって、
こうやって木型をしばっておいて、それどおんなじに伸ばしてくる。
でっかさ決めてからやって、なかなかほいきたとはいがねだぞ。
底がこのくれで、高さがひとっぱりとか、ひとっぱりはんとか
決めてから、編むだ。
底縛っておいて、ぐるぐる編む。
昔は長いから、あれぶんなのよりぎんねから、
よりより、こうやっていた。
母:私はやったごどねえ。ヨシコ姉はやったごどある。

博昭:その、これは動物はくわねのか?
母:くわねんねえがな。
父:動物喰うよ。
母:喰うのが?でだばっかしのころ喰うのが?
父:そんねそんね。青いのはなんでも、あの、青草がなくなっと、
これ年中あおいべ。ウサギでもヤマドリでもなんでも喰う。青いもの。ササッパなんど大好きでこれ喰うだ。ヤマドリでもなんでも。こう崖みでえなとこで、雪んどき出てっときは、青葉っぱ無くなっとウサギでもヤマドリでもなんでも喰うだ。
博昭:喰ってっとこ見たことあるの?
父:ヤマドリ喰うから そこをねらって 鉄砲ぶちはあるくだ。崖で すきでべ、そこササとシダとヒロロがていげいあんだ。川ばたは、川のために雪がずずっと落ちて隙間あいてっから、そこをヤマドリを喰うわけ。ヤマドリぶちはそうどこを狙ってそこを歩くだ。
たあだんどごあるったって、いねから、ヤマドリじゅういねえだ。
てえげえ、ヤマドリは沢あるくだ。まったく何にも知らねえだ、、、、、、、

父:こごらには、ヤドリギどって、ホヤじゅうあべえ。ホヤが、ホヤじゅうはそねにあっから。ホヤ喰って水飲むために、沢に降りて水を飲む。
ササとシダとヒロロ喰うんだ。きまってんだ、ヤマドリは。
キジ(雉)じゅうは冬山では、いきでいがんにぇだ。ヨモギの実とか実を食いたがんだ。だがらササッパとかくわねがら雪国は、冬に雪の中でいきでいがんにぇだ。
母:キジ放したってだめだ。

博昭:これ以外に?
父:カサスゲどかユワスゲどか。カサスゲはおらいのあそこにあっただ。いまあっぺがな。杉んどこにあっただ。愛子がいのいっとしりっぽに、広くて、ほうでもねでっかくはなんねが、カサスゲじゅうあったの。
母:ひろいがな。
父:ユワジタにあったの。ユワスゲぶちにあったのはユワスゲんねえが。
母:昔タアネの。
父:おらいの大田の崖のところ。
サケノサのでっくちの下さ行ったら、ユワスゲばあしだ。
母:それは笹巻きまく。ヨシコ姉はほそーいもので。
父:笹巻き?
父:ユワスゲブチじゅうは大田んどこ。あそこ、奈良布の下、ユワスゲがずーっとあんだ。
あそこらの山ってがずーとタアネの田でやったあだ。よぐよぐくっされ田もらったあだ。

博昭:神様に使うか?
父:使わねんねが。シメこしぇえるのは青いまま稲を刈ってやんのはしってんが。

博昭:ネホグシじゅうは、やんねのが?
父:ここらはやんねな。
母:やんねな。
父:-----
母:ミツヨリか?そんじぇねえとこまっこくなんねから。それはやるわや。
それは、うーと、こする、、、、
父:こすり縄んね。別に、名前あんだ。
父:昔は、ワラ仕事やるに、じょーりつくるさ、もとさへえるものは磨きかけて、つるつるにしただ。こういうどこ、ワラふたとこかけて打つ(ぶつ)。しばったがなで、これこしぇーで、それをこしぇえて、
母:学校でなわより競争もあった。
母:ひっちばってな。かあちゃんだちなんの、そーだごどしね。いくひろもこうして、炭焼きんどき。
※父が二階の天井に行き、何か持ってくる。

父:三十年とか、五十年どが、、、こんなもんだな。ほうざらげで、これらはウバヒロロじゅうだ。ひろいがら。ワラで縛っておくだ。オレ取ったではねえ。二束(わ)ある。こんなもんなだ、おらほのヒロロは。
ここらは中のほうは青いどこあるは、、、、ここらは細いものある。
これらはウバヒロロ系統だ。広いのは。
たいしたもんだ。
博昭:写真とっからそのまま置け。
父:わっさしてっこどね。

母:じさま死んで三十三年たってんだが。
父:オレはあんまとった覚えねだ。うっしょの方もヒロロあんだ。サンボダケ出てツチアケビあっとこ。あのうえのほう、いっぺあんだ。にしゃバサマといったどこ。
陽当たりいいから、、、、ヒロロは良い。
博昭:花が咲くだから、種で増えんのが?
父:種でふえっかもしんにぇが、オレはしらねな。
まあ、どこんでもあんだ。ヒロロねえとこねえ。
根はって、ちっとば根はってんでねえだがら。
まあなんだがしらねがこまっけ根いっぺ出て、ずむね、地面に乗っている。
ひっこのぐど、これ、ひっこのべえと思うど、こうだにくっ付いてくる。簡単に抜けねだ。
セツあって、おらいのオヤジだちは「いまのせつんねと、抜けねどか、あど、ぬけなくなるとか、あんま遅くなっとぬけねとか、セツで。彼岸すぎっとぬけねどか、稲刈り前に抜くとかあんだ」
そのころだけだぞ、せてってもらって、抜いた。それだけだオヤジどいっておべえでんのは。

博昭:ハバキは作っながったが?
父:ヒロロで作ったが、ハバキじゅうは、ガバ(蒲)でやって、これで編んだ。
あれはきれいだわいな。サクジイなどはなにやっても上手でやった。
トラジイ様などはよっぽど遅くまでハバキやってだ。

母:いまならスパッツだわや。オノガジイは編むひまなかったから。高いだぞ、ミノじゅうは。オノガジは向こうから買ってた。
父:フクイオヤジがヤスジ、ヤスオンツア。ゲンベどか、ミノ作りしょうべえにやってて、ミノみっつも、よっつも、いつつも作って、シンゴジイが親、あれらなのミノ春先なっとみなのきば(軒端)さずーっとかけてさらしていた。さき雪でちっとさらして、せがら軒端さこうかけて。むこうの方のジサマまみなミノ作りやってで、冬うちにみっつもよっつも作って。
母:アマミノは高い。
父:最後のころはおらいも買っただ。
おらいの菊蔵ジイは本気でやった。おらいのセエオヤジはやんなかったんねがな。
母:やるよなかったべ。手悪いから。
父:おれだちころは合羽じゅうでたから。
向こうは、新しいミノは雨ふっとき、新しくねえのはミノは背負っかた。向こうはホソミノじゅうねがった。
母:にっしゃだち、かあちゃん、オオハラんどき、このくれの合羽こしさまいて、新しくねアマミノだどじき背中ぬれんだ。ひゃっこくなっちまあだ。
父:大岐では、キハッツアン、オンツアジイ、ていげいの人はミノ作ってただ。

父:ヒロロじゅうは、必ず、沢っぱたにあんだ。川まであるわや。ヒロロ。ヤマドリでも青物、ウサギでも何でも喰うのや。ササ、寒中んなっと、オゴンザワ、ウサギぶち行くとソネ際は風でササ出ている。そごさウサギ集まって、木まで喰う。
母:ウサギ喰うものは人間喰われるんねえの。山歩きやんねがら私はわかんね。
父:デゴヤの上のふっつあらしなんのは、雪が無くササが出てる。
あんまり風が強いどこはササ枯れっちまあ。

父:家のまわりに植えたりしねがった?
父:ひでえめあった。水道のホース引くとき。
ヒロロなんのどこんでもある。ヒロロねえどこなんてねえだ。
おらいの植え付けんなかの杉にあっぺ。
いまちっともようと、新芽がでねえだ。古物ばあしで、花終わってから遅く新芽が出て来る。カゴでもなんでも上手な人は細くやって、カツジ兄なんかずっと遅くまでカゴ作ったり、ゲンベ作ったりしてたわ。出稼ぎじゅういがなかったから、あの人は。
カツシロあんにゃは出稼ぎ行ったから。



 我が家がアサの栽培や、からむし(苧麻)の栽培をしていたことから、それがとても身近にあった。そして収集された栽培用具の分類・調査、聞き書きや作業行程の記録を行った。そして、民族文化映像研究所が「からむしと麻」の記録映画の撮影のため三カ年昭和村内の取材や調査に立ち会い、技法の意味を深く考えることがあった。
 植物素材の内皮(靭皮繊維)を利用するのは、刃物を含む道具を必要とし、かつ栽培という行為が伴っている。ところが山林内から採取するヒロロなどは、そのままの縄への加工であり、あるいは簑(ミノ)に編むという加工で、丸ごと利用が基本となっている。栽培という行程を経ない植物は、乾燥させ、丸ごと利用ということで、それは古さを持っているように見える。
野生植物の利用技術として樹皮(サワグルミ、カエデ類、モワダやマタタビ、コクワ、ヤマブドウなど)とともに草(ヒロロ、イワスゲ、ガマなど)の利用、カヤ類(コガヤ、ボーガヤ)があった。

 稲(イネ)の導入により稲藁(いなわら)が生産されることから、多くの生活用具は稲藁の加工品となっているが、古く稲が導入される前には多くの生活用具はヒロロなどのその土地にある植物が山野から採取され利用されてきたものと推察される。もっとも、奥会津の山間地、源流に位置する村々の稲作・米の生産量は低く、言ってみれば「穀物である米の確保よりも、稲藁の確保に重点が置かれた」のではないかと思われる。それだけ稲藁というのは素材としては利用しやすいものであった。

 滝沢秀一著『編布(あんぎん)の発見~織物以前の衣料』(つなん出版、二〇〇五年)は越後(新潟県)で主にイラクサで編む編布について書かれているが、「草そのままを編んで着る習俗は現在でも藁やヒロロ等で作られた民具類には何ほども見られる、とその繊維だけで編んだものがたまたま存在してもよい訳ではないかと、それから私は最も熱心にアミギヌ(編布)の跡を追いはじめた」(六八ページ)
 名古屋大学の渡辺誠先生は『物質文化』二十六号(一九七六年)掲載の論文「スダレ状圧痕の研究」のなかで、アンギンと類似した編み方のスダレ編み圧痕をもつ土器の出土例を全国にわたって四十一カ所をあげ「縄文時代の主要な食糧源として、トチやドングリ等の野生堅果類の比重の高いことを別稿において指摘したが、これに随伴する採取、運搬、乾燥、加工、貯蔵等の各工程において、カゴやムシロ等の編み物の果たす役割は、、、、、きわめて大きい」と述べておられる(二十ページ)。

ヒロロ山ノ口
 奥会津ではどうか?と考えると「どこにでもある」というヒロロは採取制限(山の口開け)は『只見町史民俗編』(一九九三年刊)に「ヒロロ山ノ口」(やまのくち、三十六ページ)の事例があるが、それ以外の会津の市町村史を見ても類例の記載は無く、あまり調査されていない。日常的すぎる草なので調査されない、ということもあったと思われる。通常はヒロロも採取制限(山の口)があり、現在消滅してしまったのか不明であるが、ヒロロは奥会津では、日常的に利用できる草であったようだ。
山の口は、採取制限であり、その植物が充実してから採取する、根絶やしにしないように採取技法を決めている例が多く、また集落で平等に利用できるようにする規約で、トチの実を拾う時期などの制限、カヤ(ススキ)を刈り取る時期の制限などがあった。

 奈良市在住の近畿大名誉教授の野本寛一さん(日本民俗学)の著書、講談社学術文庫から出版されたばかりの『生態と民俗~人と動植物の相渉譜』(二〇〇八年五月十日刊)。一九九四年に青土社より刊行された『共生のフォークロア・民俗の環境思想』を底本として書かれたものです。野本さんには『会津学2号』に桐の原稿を書いていただいたり、会津で講演をお願いしたり、調査(フィールドワーク)に同行したりしました。この『生態と民俗』には野本さんが会津各地の古老から聞いたことも多く書かれている。
 二九九ページから「口あけの民俗」という章で「山の口の実際」として只見町倉谷の草、クルミの実、ヨシ、マタタビ蔓、カヤ(薄)の事例を紹介している。また、
 「山の口」という慣行は全国に見られるものであるが、これを裏から見れば「止め山」となる。「止め山」の期間が一年であれば、「山の口」と呼応して一定のサイクルを形成することになる。それは自然の摂理・循環を基盤としたものであり、環境適応・環境利用の一つの重要な形態だと言えよう、、、、としている。
また「伐り旬と刈り旬」(二九三ページ)で、
 旬は、食の民俗に限るものではなかった。かつて、日本人、わけても山を暮らしの場としてきた人びとは、さまざまな樹木や樹皮を建材・民具素材・衣料などとして利用してきた。それは縄文以来の伝統であり、長いあいだの「伐り旬」と「刈り旬」に関する体験の集積が民俗知識となって伝承されてきたのであった、、、、
 これは、ウバヒロロは六月に抜き取り、ホンヒロロは九月上旬に抜き取るという旬の意味もあり、その時期のその植物を利用すれば抜き取り作業が容易であること、その植物が利用場面で充実した繊維として長く利用できること、そして乾燥させても色が美しいこと、作業中に切れにくいなど、、、の意味を持つ。

 地域の歴史の編纂史書には「蓑(ミノ)」は写真が掲載され、手仕事の特別な意味を持っていたと感じる。たとえばそれは『檜枝岐村史』(一九六九年)の巻頭の写真に掲載されているものを見ると感じることができる。用を保持しつつ美しさを持つのである。
 雪のある冬の季節のミノの着用や、狩猟や野宿の時のミノの利用など、野外でのミノの位置づけは重要であった。ミノの外周部には、ヒロロの広い葉をそのまま活かし、雨や雪を受け流すような構造に編み込む、という工夫は美しいものである。しかし美しいものを作れる人は多くはなかったことが以下の資料に紹介されている。


会津でのスゲ類の利用
 昭和四十六年に刊行された『奥会津南郷の民俗』は会津民俗研究会(山口弥一郎代表)により編まれた本で、本項の執筆者、会津民俗館創設者の渡部圣氏は以下のように報告している。スゲ類について、刊行されている図書のなかではいちばん詳しく書かれており、会津盆地はその地域に自生する多様な植物を使用し、一方山国である奥会津・南会津一帯はヒロロが多用されていることを指摘している。
 
 ミノ この地方の外套類はおもにミノである。会津の平坦部では材質の種類も非常に多くシナ・フジ・ヤマブドウ・オオカ(エエズク)・イネワラ・麻・ヒロロ・イワスゲ・ガバ・ミゴなど多種を用い、作り方も各集落また古い村、地域的に南と北などで大きく差が見られる。岩手県特産と思っていたケラなども会津若松市東山・湯の入集落で採集したこともあったが、奥会津のこの地方の材料はほとんどヒロロに限られていて、雨ミノなどはまったく形は変わらない。

 ショイミノ 背負いミノも首部はU形に一定していて編み方も四本通りの通し編みのなかに、背の途中まで三本くらいの中編みがあるくらいで、まれに編符(あみふ)が麻やシナ皮の場合とがあるが、ほとんどその違いはない。古布や模様を配したものはないが、古くは会津平坦部(会津盆地)の背負いミノに似た半ミノ(雨の日に荷を背負うミノ)・源次郎ミノ(猪苗代)・バンドリ(耶麻地方)・イカミノ(会津若松市門田地区)などに似て、編符の空間がなくびっしりと麻、シナなどで編み込んだものが使用された。
 いまはその形を残していない。この地方では背負いミノをネコミノとよんでいるが、これにはふたつの作り方がある。そのひとつは雨ミノの上に縄を縦としてそれを三寸くらいおきに編符でとめ、すだれ状に作り雨ミノで荷を背負うときだけ取り付け、ふだんは取っておく方法で、実にめずらしい着装方法である。
 もうひとつの方法ははじめから表に出る方は編符で全部分を編みこみ、そのなかに黒い布で家印、年号、鶴亀などを編みこみ芸術的なできばえのものがある。しかしこれらは一般的ではなく、村中に二人か三人くらいしか作れる人がいなかった、という。
 会津平坦部との違いは、肩の部分の先を切ることがなく、雨ミノと同じくのばしておく方法である。雨ミノもネコミノも背にあたる内側は会津平坦部より細かく通しざししてある。それにはヒロロが短いことと先が弱いためであろう。
 その他、胴ミノ・腰ミノ・日よけミノなどはまれであり、シリアテは多いがいずれも材料はヒロロである。

おわりに
 ヒロロに光をあてたのは二十数年前から生活工芸運動を行ってきた間方地区の人びとなど、三島町の人びとである。この奥会津の沢筋に自生している草と人びとの交渉史は、雨蓑の消滅とともに見えないものとなってしまったであろう。運動開始時に長野県生まれの西牧研治さんが、研究員として昭和五十八年から八年間、ヒロロなどの基本調査を行っていたのを、当時友好があったなかで私は見聞きしていた。彼は『生活工芸村便り』にそうしたヒロロの調査結果や三島町の人びとの持つ手技を記しており、時折それをいただき読んだ。地域に暮らす人びとから、自然と人間、山と人間の関わり方について、教わることが多いのはいまも同じだ。
 会津に縁のある花を飾る金藤公夫さんに乾かしたヒロロを渡したところ、知人の首都圏の花屋さんを訪ねてはヒロロ綯いを教えたようで、その感想が寄せられた。
「まず素の状態で見せました。皆さん不思議そうな顔をして手に取って香りを嗅いで、私の顔を覗き込みます」
 世田谷区のパフュームという花屋さんは次のようにブログ(ウェブサイト、ホームページ)にそのときのことを書いている。

 この寒菅(カンスゲ)
 いいニオイがするんです
 イグサのような収穫後の稲穂のような
 懐かしい心の休まるいい匂いです
 こんなニオイの中で眠れたら最高だと、、、、

 昭和村で、ヒロロで作ったミノ(蓑)のことの聞き書きで、野良で、ふかふかのミノの上に寝る、ということが書かれている。この報告書の内容は後半にも梨の木にミノを掛けるなど、風景が浮かぶ、すぐれた聞き書きです。
「畑に出た時、昼休みにミノを敷いて、カサを頭にかぶせて昼寝をするのがなんともきもちのいいものだった」という

 以下、本稿を書くにあたって、てもとに所持している会津地方の郷土誌等書籍でのヒロロの記載分を紹介して終わりたい。


<ヒロロの資料> 
■博士山ブナ林を守る会編『ブナの森とイヌワシの空~会津・博士山の自然誌』(はる書房、一九九五年)にヒロロ(ミヤマカンスゲ)を食草とする蝶・ベニヒカゲの記述がある。
 また会津生物同好会の大須賀昭雄氏による博士山麓(柳津町・昭和村)の植生調査結果では、ヒロロ(ミヤマカンスゲ)の様子を見てみる。場所により草本層の優占種となっている場所がある(③)。〔〕内の数字は植被率、(・)内上側は被度、下側が群度である。
①ブナ・トチノキ林(柳津町大成沢から登山道の水場付近・標高七五〇メートル)
 草本層〔六〇%〕優占種・リョウメンシダ(四・四)、ミヤマカンスゲ(二・三)、以下略
②ブナ・アカイタヤ林(柳津町大成沢より登山道の水場付近・標高七五〇メートル)
 草本層〔七〇%〕優占種・ハイイヌガヤ(五・五)、ミヤマカンスゲ(三・四)、以下略
③ブナ・ヒノキアスナロ林(柳津町大成沢登山口より尾根・標高八六〇メートル)
 草本層〔五〇%〕優占種・ミヤマカンスゲ(三・三)〇.六メートル。
⑥ブナ・チシマザサ林(昭和村博士峠登山口より上の尾根・標高一一一二メートル)
 草本層〔三〇%〕優占種・オオカメノキ(三・三)、ミヤマカンスゲ(+)は少数で被度一%以下。


■ヒロロには、ホンヒロロ(ミヤマカンスゲ)とウバヒロロ(オクノカンスゲ)があります。ホンヒロロは二百十日(九月一日)頃から、ウバヒロロは6月末ぐらいから採取します。採取時期が早いと材料の丈が短く強度も劣ります。また、遅いと材料が硬くなり使いづらくなります。
 ホンヒロロ、ウバヒロロ共に水はけが良く、半日陰の土地に群生します。日当たりの条件によって材質が左右されます。
 山の恵みを絶やさないための知恵。ヒロロは宿根の多年草。採る時は、根まで抜いてしまわないように、足でヒロロの根元をしっかり踏んでから引きます。葉の小さなものは残して、大きなものを抜きます。
電子情報:奥会津三島編組品振興協議会ホームページより
http://www.okuaizu-amikumi.jp/material/index03.html 最終閲覧日:二〇〇八年六月十日


■山口弥一郎著『東北民俗誌会津編』(一九五五年)は、只見村田子倉民俗誌の項に、「ヒロロミノをつけた野良の後ろ姿」という写真を掲載し(八六ページ)、「ヒロロという山草をぬきとっておいて冬にあんだもの。雨の日も、雪の日もこれをまとうて山や野で働く。 野良仕事の際のスゲ笠は山仕事の関係か少し小型で新潟県の小出方面から移入する。しかしミノだけは野生のヒロロで自製したヒロロミノをつけている(一三一ページ)。

■昭和四十八(一九七三)年に出版された三島町の『大石田の民俗』では男ヒロロ、女ヒロロと呼んでいて、ミノを作るのは女ヒロロであり、八月の盆すぎに採集しよく乾かし冬仕事に使う、と記載されている。

■南会津郡の『田島町史』第四巻・民俗編(一九七七年)の百二十三ページに、軒端でのヒロロ乾燥の写真が掲載されている。

■福島県立博物館と鹿児島県歴史資料センター黎明館による『樹と竹~列島の文化、北から南から』(二〇〇七年)の六七ページに福島県立博物館蔵の檜枝岐村の「つけ蓑」が掲載されている。狩猟等山仕事に着用。山ブドウ・ヒロロ(ミヤマカンスゲ)製。五〇×七九センチメートル。
 樹皮製民具の集成である本書には、佐々木長生さんによるモワダ(シナノキ)、シナッカワの糸について詳細な記載がある。

■『只見町史民俗編』(一九九三年刊)福島県南会津郡只見町では、ヒロロは「さまざまの精巧な細工物に用いる。細縄をなう。ミノ草としてミノを作る」とし「ヒロロ山ノ口」があることを記述している。塩沢・長浜・小川・楢戸・只見・叶津・入叶津・蒲生の町内九集落でヒロロ山ノ口があり、特に塩沢では秋彼岸頃であったという(『只見町史民俗編』三十六ページ)。
 また町史編さん委員会『図説 会津只見の民具』(一九九三年改訂版)でヒロロを原料として作られた生活用具を見てみると、
 衣類:かぶりもの:「アミガサ(編笠)」直径四二cm 山仕事の日除けやイバラ除けにかぶる。黒谷から一点・不明地から二点が収集されている。材質はヒロロである。
 衣類:蓑(みの):「ケミノ(毛蓑)」丈一一〇cm 幅五五cm 雨・雪除けと軽い荷を背負うのに使用する。梁取二点、不明二点。「ミノ」として小林一点、福井一点。材質はヒロロ。
 農耕用具:耕作:「マエカケミノ(前掛け蓑)」丈五五cm、幅六〇cm。ヒドロタ(稗泥田)の田ごしらえ時に、泥除けとして着用する。採取地不明一点がヒロロ・シナ皮。大倉一点、梁取二点は材質がヒロロ。
 山樵用具:その他:「シリシキ(尻敷)」ノコギリで伐採するときの尻あてにする。材質はヒロロ。黒谷一点。
 交通・運搬用具:背負い蓑:「ネコミノ(ネコ蓑)」雨蓑と背負い蓑との兼用で、家印や縁起のよい文様を布で織り込む。材質ヒロロ。丈一〇三cm、幅五〇cm。計七点。亀岡二点、梁取二点、十島一点、不明二点。
 手工用具:藁加工用具:「ヒロロスグリ(ヒロロ選り)」

■前掲書をさらに拡充しまとめた、国指定重要民俗文化財『会津只見の生産用具仕事着コレクション』(福島県只見町教育委員会、二〇〇五年)では、佐々木長生氏が次のように解説している。
 自然木の又・棒・根曲がり部分、シナノキ(オオバボダイジュ)・クルミ(オニグルミ)の樹皮、ヒロロ(ミヤマカンスゲ)・ガバ(ガマ)の草本類など只見町の懐深い自然に自生している天然素材を巧みに利用して手作りされたものが多い。また豪雪地帯のため竹が自生できず、その代わりにマタタビやヤマブドウの蔓を利用したものが多数みられるのも特色である。
 コシカゴ(腰籠):ワラやヒロロ(ミヤマカンスゲ)で袋状に編んだカゴを、ひもで腰に結び付けて、採取したゼンマイを入れる。縦四〇センチ、横六〇センチほどの大きさが一般的である。
 ショイカゴ(背負籠):採取したゼンマイが、コシカゴにいっぱいになると、ショイカゴという大きなカゴにつめかえる。そして、空になったコシカゴをつけて再び採取に歩く。ショイカゴは縦六〇センチ、横九〇センチくらいあり、ワラやヒロロなどで袋状に編み込んだもので、これをニナワ(荷縄)で背負って運ぶ。
 マエカケミノ(前掛け蓑):湿田では、泥除けのため鍬にテズラをつけるほか、マエカケミノというミノをつける。これはヒロロで作られていて、ひざ上から腹をおおうものである。
 アミガサ(編笠):仕事中の日除けにかぶる笠。ヒロロやクグを材料とし、アンブ(編符)はシナッカワ(オオバボダイジュの靱皮)で編む。田の草取りやクリ拾い、キノコ採りなどの山歩きにかぶる。山では柴木や蔓にひっかかりにくくかぶりやすかった。スゲ笠よりも丈夫であり、幅もせまいので重宝された。
 ミノ(蓑):雨や雪を防ぐために着用するが、そのほかにも物を背負うときの背当て、休むときの敷物など用途は多様だった。ヒロロで編むが、背当ての部分にはシナッカワや布を織り込んだりする。ミノクビ・アマブタ・背中の順に編んでいく。ミノ作りは冬の男の仕事で、一着作るのに三日ほどかかった。ヒロロは秋彼岸ころ、山から採取しておき、陰干しにして冬まで天井に保管しておき、冬になって湿らして編み込む。完成したら、春の雪上でさらすか、雪解け水に一週間か十日ぐらい浸し、よく乾燥させてから使用する。さらさないと、入梅のころカビが生え、長持ちしないという。

■『下郷町史民俗編』(一九八二年)の二二二ページには「エジコ」として、
 現代風にいえばナップザックである。弁当入れ、鉈・鋸入れ、山菜採りなどにも使われ、なくてはならない運搬具である。わが町だけでも名称はいろいろある。野際新田ではイチコ、枝松ではコシゴ、白岩ではショイコという。袋の上部に網の部分があり、鋸や鉈を入れやすくしたものを特に炭焼きコシゴと枝松では呼んでいる。材料はヒロロ(菅の一種)やイワシバで、これを細くなって編んでいる(七六一ページに写真が掲載されている)。

■『会津舘岩村民俗誌』(一九七四年)は石川純一郎著・舘岩村教育委員会発行で、一〇八ページに手工として「アマミノ:山中の湿地に生えているヒロロ草を抜いて来て軒下で乾かし、背をすっぽり覆うように葉先を脇に出して編む。雨具である」とある。
 被り物として「蓑」。ヒロロで編んだ蓑は寒さや雨を防ぐにはもってこいである。狩猟や伐採などには細い麻紐でもって網を作り、結び目にヒロロを結わえ付け編んだツケミノがもってこいである。伸縮自在なために、行動し易く、野宿などの際は前をかき合わせ、体をすっぽり包むことが出来る。隣村の檜枝岐村ではシカリミノといい、広く利用されている。肩に掛かるアマブタの部分を野葡萄の蔓を剥いだ皮でもって作る。これが二の腕をも覆って袖のような役割もする。

■会津西部の耶麻郡山都町(現在は喜多方市)の『山都町史民俗編』(一九八六年)は、八一六ページに「草類の民具」として、
 山都町で草類で最も民具に使用されているものは、ヒロロであろう。ヒロロは、山の湿ったところに生えており、主に蓑を作る。土用すぎると抜けなくなるので土用前に抜き取る。山から採ってきたヒロロは、青いままで保存するのがコツであり、陰干しにして乾燥させる。
 蓑作りは主に冬に行い、霧ふきをしながら作る。できたら雪を上げてさらすと青みがとれ白くなる。また編み布がしまり丈夫になる。猟師たちが作りかぶる「ミノブシ(蓑帽子)」と呼ばれるかぶり物も、雪がつかなくてよいのでヒロロで作る。
 イワスゲは、女性用の荷背負い蓑を作るのに用いる。また、ハバキの材料とすることもあり、莚(ムシロ)に織るのに用いる。土用過ぎ頃にとる。
 蓑を作るのにフジクロという草を用いる。夏の土用前に抜き取る。ヒロロに似た草で、生の時は葉が広いが、干すと細くなる。
 ガバは主にハバキ(すねあて)を編むのに使用する。
 古くは衣料として用いられたイラの皮(イラソ)は、蓑の編み布や下駄のはな緒に使った。これは十月末から十一月はじめ頃に採る。霜にあたらないと弱いという。モワダ(シナノキ)は水に弱いが、イラソは水に強いので、オソフキの先をよったりするのにも用いられた。

■『昭和村の歴史』(一九七三年)は、「昭和の民俗」は安藤紫香さんの執筆で、一七九ページに、次のようにある。
 雨具及び防寒衣としてもちいられた蓑(みの)も、晴れた時着る農作業用の蓑も、夏の土用にヒロロを刈り取って陰干しにしておき、自製したものである。


■『福島県昭和村 からむしを育む民具たち ~聞き取り調査と実測図集』(からむし工芸博物館編、二〇〇七年)は、羽染桂子さん、日置睦さん、朝倉奈保子さんにより聞き取り調査がなされ、朝倉さんが執筆した。実測図は羽染桂子さん、熊川牧子さん、羽染文子さん、朝倉さんが担当した。
 ヒロロで製作されたカゴとミノが掲載されている。
 ヒロロ、ヤマブドウの樹皮、アサ、黒色の木綿布で化粧(アクセント)を付けている。
 ミノについての記載を紹介する。
 日除けや雨の日、物を背負う時などに着る。材料は長持ちするヒロロ。通常のミノは袖までついている。一カケ(ひとかけ)、もしくは一チョウ(いっちょう)と数える。ミノ作りは農閑期の仕事でちょうど「カタユキ」(春近くになって積もった雪が固くなり、歩いてもぬからなくなった雪のこと。三月頃から)になった頃、できたミノを雪の上に広げ、その上に雪をのせたり、池などに浸したりもした。編んだものを雪水に通すとゆるみがでて、弾力が生まれ、軽くなると同時に丈夫になり、ぼろぼろとくずが出にくくなる。水につけると色がよくなるとも言われている。昔は、池に浸したミノを、家の梨の木によく乾かしていた光景が見られた。梨の木は火事を防ぐと言われていたため、どこの家でも二、三本植わっていた。畑に出た時、昼休みにミノを敷いて、カサを頭にかぶせて昼寝をするのがなんともきもちのいいものだったという。ミノに代わって今はカッパを着るようになったが、現在でも暑い時はミノの方が便利だという人は少なくない。

■奥会津書房『森に育まれた手仕事』(一九九九年)には四二ページからモワダ(シナノキ)・ヒロロ・ガマ細工について掲載されている。三島町入間方の久保田節子さんは、昔のものをほどいて編み方の基本を覚えた、という。
 ヒロロは九月のはじめに抜く。二百十日頃までには抜き終わる。「ヒロロを抜くときは、根元を足で押さえて抜がんなんねえだよ。根がゆるんでしまうと、もう次の年には出なくなってしまうがらな」。抜いたヒロロを雨に当てないように、風通しのよいところに干す。雨に当てると黒くなってしまう。緑の色が残ったヒロロを水で湿らせながら、縄よりをして使う。
 モワダは、六月に切る。山で皮を剥いで中の芯を取り除き、皮の部分だけを下ろす。それを二十日間くらい水につけておく。中の皮を腐らせるためだ。
「水さ浸けだがらいいでなくて、しょっちゅう見でんなんねえのよ。腐ってくっと皮がムクムクむいでもらいでえと、浮き上がってくっからよ。それを逃すと、皮がペトペトになっからな」
 一回に二、三枚重なってむける。一回むくとまた浸ける。三回から四回むける。編むときは、細く裂いて使う。ヒロロとモワダできっちりと編んであるバッグは、手触りがやさしく、持ちやすい。

■南郷村史編さん委員会『南郷村史 民俗編』(一九九八年)の一〇七ページ。
 雨蓑 雨や雪の時の労働・歩行には、ヒロロ(ミヤマカンスゲ)製の雨蓑が使われてきた。現在でも農作業・除雪作業など菅笠をかぶり、雨蓑を着ている姿を目にすることができる。雨蓑を現在でも着用しているのは、南会津郡地方であろう。ゴム合羽は雨にはぬれないが、内部から蒸して汗でぬれたような状態となる。そうした利点から、現在でも冬になるとヒロロで蓑を作る人がいるようである。

■金山町教育委員会編・加藤文弥執筆『金山の民俗』(一九八五年)の一四二ページ。菅笠はスゲで作るので菅笠というが、編笠はヒロロを材料とする。笠布団を用いず、緒と紐で顎の下に結んで被る。被ったところを前後から見れば切妻形の屋根に似ている。軽くてかぶりよいが、大雨の場合は不適当である。雨天の場合の作業にはミノが必需品である。材料はヒロロであるが、雨天用のものと荷を背負う専用のものと二種類ある。雨天用のものは、雨除けと背負い用の両方に使用できるし、冬は防寒用を兼ねることも出来る。


■赤羽正春編『ブナ林の民俗』(高志書院、一九九九年)に佐々木長生さんが「会津地方の樹皮製民具」に書いている。 
ブドウカワによる制作例として、三七ページに福島県南会津郡檜枝岐村の「ツケミノ」(ヒロロ製、肩部ブドウカワ)の写真が掲載されている。
 ヤマブドウの皮は、一般にはブドウカワとよぶが、舘岩村ではサラモカワともいう。製作する物により、樹皮を採取する時期が違う。ブドウカワの上皮はいつでもはげるが、ナツカワ(中皮)は夏の土用ごろにはぐ。
 ブドウカワは細くはいだものを裂いて、これを蓑に編んだり、ハバキに編むほか、背負い袋類・籠類を作ったり、束ねてタワシにしたりする。また、裂いたものを縄になったりするなど、山村ではシナカワ同様の必需品であった。
 ブドウカワは乾燥にも濡れにも強く、また堅く丈夫なためにさまざまな用途に用いられてきた。(略)ブドウカワのハバキは山仕事に用い、藁製の柔らかいものは田起こしなどの野良仕事に使用する。

■会津の北部山岳を越えたところにある新潟県朝日村三面のことを記録した『山に生かされた日々~新潟県朝日村奥三面の生活誌』(刊行委員会、一九八四年)には、
 ヒヨリ(ヒノリともいう。ミヤマカンスゲ・カンスゲ)でミノを作る、とある。「ミノもひと冬に二つ編むね。ミノは、ワラミノと荷かつぐどき掛ける大きいやつ、カケミノね、それ二つあんどぐね。それと荷物かつぐとき背中にあてるやつ、あれもワラだね。セナグチなんて言うども。ミノはヒヨリ(ヒノリともいう)をひねるようにして編んだヒノリミノなんていうのもあったね。今でもミノは山行ぐどきは便利で、使っているね」(一四三ページ)

■ヒロロは栽培されていなかったのか?といえば、新潟県柏崎市高柳町石黒の様子を伝えるウェブサイトを見ると「昔は家の周囲にヒロロを植えていた」と書かれている。
「ヒロロは水をはじき軽く丈夫で箕の優れた用材であった。そのためどこの家でも田の畔(くろ)や家の周りの半日陰地に移植して育てていた。今日でも、家屋敷の周りでよくミヤマカンスゲを見かけるのはそのためである。」
http://www.geocities.jp/kounit/saizikidousyokubutu/yasou/miyamakansuge/miyamakansuge.html
電子情報最終閲覧日二〇〇八年六月十日

■ミヤマカンスゲには走出枝が無いとされてきたが、近年、富山県ブナオ峠や福井県の敦賀以東、白山山麓に走出枝を伴うものが確認され、また新潟県や長野県北部では走出枝を出さず根茎がやや長く地下をはうものがあるなど、細部の分類が話題となっている。

■谷城勝弘『カヤツリグサ科入門図鑑』(全国農村教育協会、二〇〇七年)を参考にした。

■斎藤慧『スゲ類の世界~福島県に自生するスゲ類』(歴史春秋社、二〇〇一年)によれば、スゲ属はカヤツリグサ科の八〇属中のひとつだが、最も種の数が多く世界中に約二千種、日本だけでも二百種以上知られ、福島県内に百三十種ほどが確認されている。
 スゲ類は形態的・生態的に多様に分化して生態的なすみわけがはっきり決まっている。イネ科やキク科の多くの種類が雑草化しているが、スゲ類には雑草化しているものはひとつもない。
 ミヤマカンスゲの方言名はヒロロ(只見その他ヒロラ)といわれ、最も抜けやすい九月中旬頃によく繁茂したものが、里山などで採集された。
 他種のスゲでオクノカンスゲ(ホソバカンスゲもふくむ)も三島町ではウバヒロロ、山都町ではフジゴロウといって蓑などの材料にされた。
 雨蓑にはミヤマカンスゲを使うのが普通だが、他にショウジョウスゲなどを使用。これは水を吸収しないためで、背負蓑には稲藁でも作られた。他にマコモ(カーツギ)、ガマ・ヒメガマ、またミチシバといわれている、農道などによく繁茂しているイネ科のカゼクやチカラシバなども使用された。


■ミヤマカンスゲには走出枝が無いとされてきたが、近年、富山県ブナオ峠や福井県の敦賀以東、白山山麓に走出枝を伴うものが確認され、また新潟県や長野県北部では走出枝を出さず根茎がやや長く地下をはうものがあるなど、細部の分類が話題となっている。



■織田二郎・永益英敏「ミヤマカンスゲ(カヤツリグサ科)の有花茎の着く位置」(日本植物分類学会誌七(二)、二〇〇七年)の抄録

■近縁のオクノカンスゲ(C. folissima F. Schmidt)は全体によく似ているが、新芽の時に鞘が長く、黒褐色に発色するのが特徴である。形態に変異が多く、いくつかの変種が報告されているが、詳細については意見が分かれる。
 ミヤマカンスゲ(C. dolichostachya Ohwi)も変異の多い種である。雌小穂がはるかに細く見えるのが特徴である。その他の主な特徴はカンスゲと共通する部分が多いが、地方によってさまざまな変異が見られる。カンスゲに似た姿をしたものもあるが、葉の幅が広く、柔らかい感じのものは、全く違った姿に見えるものもある。匍匐茎がないのが普通ながら、出るものもある。さまざまな変種が記載されており、現在も地方変異を分ける試みが提案されているが、定まった説はない。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』カンスゲより


■郷土植物
 カヤツリグサ科のスゲ属植物は世界に約二二〇〇種あり、我が国には二五〇種あまりあり様々な環境に生育している。叢生型の草型をもつ多年草である。
 二〇〇七年の信州大学農学部AFC報告第五号には荒瀬輝夫と内田泰三が「切土のり面に植栽されたスゲ属5種の生長特性」でミヤマカンスゲの緑化利用について調査・提言している。
 その地域に自生する草本類や木本類の郷土種を緑化に導入することが重視されてきているが野生植物であるため発芽や生長が不均一で扱いにくく、増殖法も未知であることが多い。そこで緑化対象地域周辺の野生植物のなかからスゲ属植物を選び、信州大学農学部構内の緑化試験地で陸生スゲ類五種で植栽実験を行っている。
 ミヤマカンスゲのほか、コジュズスゲ、タガネソウ、ヒゴクサ、アズマナルコが使われた。野生植物は不均一な環境に合わせて生長を変化させる可塑性が高いので、その環境に合わせて分げつや匐枝の生長を変化させる性質は好ましいとしている。

■糞(ふん)のDNA鑑定
 DNA鑑定を利用した野生動物調査法が開発されている。(財)電力中央研究所環境科学研究所生物環境領域主任研究員の松木吏弓らが開発したもので、食べた餌の残渣(糞)から植物のDNAを抽出し、食べた餌植物の特定をした(電中研ニュース四四一号、二〇〇七年三月)。それによれば、
 調査地に生息している七〇〇種以上の植物からDNAのデータベースを構築。このデータベースと糞から検出したDNAを照合することで、餌植物を種レベルで特定した。秋田県駒ヶ岳山麓のブナ自然林から三月に採取したヤマドリの糞から、ハナイカダ、ツルアジサイ、ミヤマカンスゲ、アキタブキ、オオカメノキの順の比率だった。また糞からその動物種や個体識別も可能としている。糞にわずかに含まれる腸の内壁細胞のDNAを検出するためには傷みが少なく保存状態の良い積雪期に行うことで検出率を高くしている。それと足跡の調査の組み合わせでノウサギについては個体数まで明確にした。
 ヒトの犯罪捜査や親子判定などのDNA鑑定に利用されているマイクロサテライトDNA配列を使用している(松木ら「糞のDNA解析によるノウサギの生息密度の推定」ほ乳類科学44(1)、二〇〇四年)。


■福島県三島町は、生活工芸運動の活動を通して、この古くから生活に根ざして利用してきた自生する土着植物のヒロロの重要性を認識していた。そして継承する大きな役割を果たしている。
 これは、千葉大学の宮崎清さんが昭和五十六年に伝統工芸調査のために訪れた福島県三島町で、野山の材料と伝統の技による生活用具作りを継承・発展させる「生活工芸運動」を提唱。その調査に同行していた西牧研治さんが、研究員として昭和五十八年から八年間、ヒロロなどの基本調査を行った(『広報みしま』平成十九年九月号)。
 平成十五年には、三島町の農民工芸はヒロロを含め「奥会津編み組細工」として国の伝統的工芸品に指定される。
 指定に際して行われた調査等の内容の一部が福島県のウェブサイト、商工労働部の地域経済領域の地場産業に掲載・公表されている。ヒロロの項目を引用し紹介する。


※なお、日本政府の東北経済産業局http://www.tohoku.meti.go.jp/cyusyo/densan-ver3/html/item/fukusima_04b.htm
にも同じ内容で掲載・公開されている。

■福島県三島町では、雪解け時の毎年三月に工芸品展が開催されている。多くの人を集めている。
 また、毎年六月に、三島町は名入の生活工芸館前の広場で、「ふるさと会津工人まつり」を実施している。今年(二〇〇八年)は二十二回目となる。
全国から出展者は百五十小間ほどあり、地元三島町から二十三、昭和村から四であった。ヒロロ、ヒロロ細工、ミノなどは生活工芸館の展示・即売があり、素材としてのヒロロ縄を売っているのは会津地方の出展者(昭和村、三島町等)であった。初日の六月七日(土曜)の来場客はこれまでにない人数であったといい、私がたずねた八日(日曜)も開始時間の九時には生活工芸館前、国道沿い等の駐車場は満車であり、西方の旧小学校跡校庭の駐車場からシャトルバスが往復していた。
 2008年6月8日脱稿



大石田中野の飯塚さんの制作によるヒロロのミノ。2種のヒロロを使用。
6月の工人まつり

2008年6月1日日曜日

父とヒロロ採り(昭和21年頃)

ヒロロである。三月からずっと調べ続けている。今朝、気温十二度、寒い朝、大岐で朝食後にこたつにあたりながら、父と母からヒロロの話を聞き取りした。

 父は清一(昭和七年生、七五歳)、小野川から嫁いできた母・ミヨ子(昭和八年生)。父は、天井(二階の物置・屋根裏)から一束の乾燥した植物の束を持ってきた。

 「尋常高等学校(いまの中学二年で卒業)出て、オヤジにはじめて連れられて博士山の黄金沢の滝のところにヒロロ採りに行った。十四、十五歳の頃だ。これはオヤジが採ったヒロロだ。ホン・ヒロロ(ミヤマカンスゲ)のほか、ウバ・ヒロロ(オクノカンスゲ)も混じっている。葉の幅が広いのがウバヒロロだ」

 オヤジというのは父・清一の親のことで、私から見て祖父。その清次は明治四〇年八月十八日生まれで、私も八月十八日生まれだ。この祖父・清次の親は菊蔵と、明治三十六年に大芦から嫁いできた星トメの次男として大岐に生まれ、昭和五十一年(一九七六)三月七日に七〇歳で死去している。私はそのとき高校一年生。

 このヒロロは、採取されたのは昭和二十一年(一九四六年)頃のことになる。清次は三九歳、その息子の清一は十四歳。いまから六十年ほどまえのもので父が天井裏(屋根裏)に保管していた。

■三島町ではヒロロは根ほぐしという作業をしてから乾燥する。それを父・清一に聞いたところ、「ここらではそんなことしてないな」ということで、祖父の採取したヒロロを持ってきて、根本を見て「抜いたまま乾燥している」ことを確認した。大根葉や凍み餅を編むようにして束ねたヒロロを軒下に下げて乾燥したそうだ。

 →→→昨年九月の聞き取り(三島町)  →→→生活工芸館たより

■南会津郡の『田島町史』第四巻・民俗編(昭和五十二年刊、1977年)の百二十三ページに、ヒロロ乾燥のための「連(れん)」、その写真が掲載されている。


 2008年3月16日、17日 会津学研究会の春季講座で三島町間方集落の人々に学ぶ会でもヒロロの話を聞きました。→→→会津学研究会  →→→記憶の森を歩く

■ヒロロを使った道具の製作技法→→→奥会津編み組細工
■→→→アイデンティティ・クロップバンク(基層文化を支える作物)
■ヒロロ、新潟県内の事例 →→→ 柏崎市高柳町石黒
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■2008年5月31日、私の父・清一(昭和七年生、七十五歳)から、はじめて聞いた話があった。それはヒロロを食べる動物(ヤマドリ、ウサギ)がいる、ということだ。

 奥会津に自生する多年生植物ヒロロ(ミヤマカンスゲ)は、ラフィアと同じように、そのままの状態で、花を束ねる素材して花に関われる、と考えています。5月30日に来村された金藤公夫さんにヒロロをお渡ししました。地の草(アース・クロップあるいはナチュラル・クロップ)。




ヒロロ

2008年5月31日午前八時三十分、に父・菅家清一(昭和七年生、七十五歳)、母ミヨ子(昭和八年生)より植物ヒロロ(ミヤマカンスゲCarex multifolia)のことを聞く。

先日(5月29日午前)、金山町川口高校で授業で話す機会があり、そのときに使ったヒロロを干したものを五月三十一日の朝八時三十分、コタツにあたっている父母に見せる。三島町生活工芸館から入手したもの。雨の寒い日。気温十二度。

父・清一:照だち、こだつ(炬燵、コタツ)取って震えてるようだべ寒くて。
母・ミヨ子:このめえのあったけ日にコタツとった。
父:トラクターのうっしょのダンプ付いているうちに畑さ堆肥三回運んだだぞ。

父:こうだの(ヒロロ)どこにでもある。
ヒロロなんのここらの山ん中さ どこにでもあんだ。
おらいの植え付けの杉ん中の林なんかどこにでもあんべ。
こごらでは、ヒロロのねえどこねえだ。
いまちっともようと、古物ばあしで花咲いてから新芽出てくんだ。
博昭:何に使った?
父:これはミノだわや。ヒロロミノに決まってる。
おなごてえはホソミノ。
おとこてえはアマミノやってだだ。
おらいのセエオヤジはアマミノ、、、、
母:なんでもきれいだ。家のがなはこれより広いぞ。
博昭:いつ頃取んだ?
母:これは二百十日になるころ。
父:あのころヒロロぬきさいったとおもったな。
博昭:どこさ?
父:はじめてヒロロヌキいったのは、オヤジにくっついて、
オウゴンザアの滝んどっからだ。
博昭:なんで、そんな遠くまでいったのや?あ?
父:そこにあっからや。
博昭:裏山、ここにあっぺや。
父:(笑)にしゃ、ヒロロじゅうは、きだちのなかの きおっくらけえったなかの、すきまできべえ。天道様(太陽光)あだっどこ、そこさはいいヒロロできでくんだ。そこさオヤジど、滝の下から沢があんだひとつ。いいヒロロあんだ。滝の下さ、沢あんだ。

博昭:いいヒロロ、悪いヒロロの基準はなんだ?
父:長いのが、いいヒロロや。べらぼうな、そんなごどもわかんねのか?谷地(湿地)っけのようなものはみしけえべ、こごらのがな。
ヒロロねえどごねえだ。どこんでもあんだ。
谷地でもねえが、沢っけにある。
山のすてっちょう、どこんでもあっけど。あれのこえでっとこ、
地福、肥沃のあっとこが長いヒロロできんだわや。

父:ウバヒロロどって、ちっとこれらより、ちっとひれえのや。
これらはいえほうだわ。
博昭:ホンヒロロ(ミヤマカンスゲ)とウバヒロロ(オクノカンスゲCarex foliosissima Fr. Schm.)は取り方は?
父:ウバヒロロだって、なんだってすかすかとるわや。
なかなかひっこぬけなくて、ぽつ、ぽつって抜くのや。
ふわふわしてっから、根までひっこぬけんだ。
そんじぇはうまくねから、足で株を踏んで根を抜かねように抜くだ。
母:一本一本抜くだぞ。たいへんなあだぞ。
父:彼岸のめえとか、取った覚えあんだが。
おらいの林とか、炭窯の下のほうとか、
ちっとてえらなようなどこ。
きだち(木立)のなかのすきたようなとこ。
博昭:いくつのころ行ったの?
父:学校上がったら、学校の頃?
母:高等二年。尋常小学終わってから高等どって二年でる。
父:彼岸の頃行ったとおもってんだ。稲刈り前。
いまは植え付けになったが、おら、よーぐおべえでんだ。滝。
おごんざあの滝の、今の土橋んどっから入っていくど、ちょうどいえだ。
滝の下さ砂防ダムできた。ちっちぇ沢あんだ。
その沢がハタヤマの地蔵様までいってんだ。
オゴンザアとくっついだくれんどこ。
ヒロロ抜きやって。
(左手で親指と人差し指で輪を作り)
このぐらいの束にして、
ワラで丸って、おっけで、これくれいの束(そく)にして背負ってくる。
重てえほどなんで、とるよねえだ。
これカテアミみてえに縄で編んで、ほらいまだと
モチアミみてえにぬきば(軒端)さ下げる。そして干すだわ。
おとこてえは、みんなアマミノ作る。
じさま、セエ爺、オヤジはミノつくってっとこみだごとねえな。

父:毎年ヒロロとんなんんねだ。
博昭:した、何年も持つんねえの。
父:アマミノ(雨ミノ)のは何年も持つ。
にしゃ、きれんだぞ。
毎日、しょっかたなんだから。

母:たゆうさまのほうでは、あゆう、ホソミノが無くて
父:向こうはアマミノよけいでやっただ。

博昭:カゴは作る。スカリって言うんねえの?
父:カゴはカゴだ。そんなこどゆわね。
母:あれ、としょばあはカゴ作りやった。
父:あ、やったやった。
かごじゅうは、これよって、こうやってやんだが。底だげやって、
こうやって木型をしばっておいて、それどおんなじに伸ばしてくる。
でっかさ決めてからやって、なかなかほいきたとはいがねだぞ。
底がこのくれで、高さがひとっぱりとか、ひとっぱりはんとか
決めてから、編むだ。
底縛っておいて、ぐるぐる編む。
昔は長いから、あれぶんなのよりぎんねから、
よりより、こうやっていた。
母:私はやったごどねえ。ヨシコ姉はやったごどある。

博昭:その、これは動物はくわねのか?
母:くわねんねえがな。
父:動物喰うよ。
母:喰うのが?でだばっかしのころ喰うのが?
父:そんねそんね。青いのはなんでも、あの、青草がなくなっと、
これ年中あおいべ。ウサギでもヤマドリでもなんでも喰う。青いもの。ササッパなんど大好きでこれ喰うだ。ヤマドリでもなんでも。こう崖みでえなとこで、雪んどき出てっときは、青葉っぱ無くなっとウサギでもヤマドリでもなんでも喰うだ。
博昭:喰ってっとこ見たことあるの?
父:ヤマドリ喰うから そこをねらって 鉄砲ぶちはあるくだ。崖で すきでべ、そこササとシダとヒロロがていげいあんだ。川ばたは、川のために雪がずずっと落ちて隙間あいてっから、そこをヤマドリを喰うわけ。ヤマドリぶちはそうどこを狙ってそこを歩くだ。
たあだんどごあるったって、いねから、ヤマドリじゅういねえだ。
てえげえ、ヤマドリは沢あるくだ。まったく何にも知らねえだ、、、、、、、

父:こごらには、ヤドリギどって、ホヤじゅうあべえ。ホヤが、ホヤじゅうはそねにあっから。ホヤ喰って水飲むために、沢に降りて水を飲む。
ササとシダとヒロロ喰うんだ。きまってんだ、ヤマドリは。
キジ(雉)じゅうは冬山では、いきでいがんにぇだ。ヨモギの実とか実を食いたがんだ。だがらササッパとかくわねがら雪国は、冬に雪の中でいきでいがんにぇだ。
母:キジ放したってだめだ。

博昭:これ以外に?
父:カサスゲどかユワスゲどか。カサスゲはおらいのあそこにあっただ。いまあっぺがな。杉んどこにあっただ。愛子がいのいっとしりっぽに、広くて、ほうでもねでっかくはなんねが、カサスゲじゅうあったの。
母:ひろいがな。
父:ユワジタにあったの。ユワスゲぶちにあったのはユワスゲんねえが。
母:昔タアネの。
父:おらいの大田の崖のところ。
サケノサのでっくちの下さ行ったら、ユワスゲばあしだ。
母:それは笹巻きまく。ヨシコ姉はほそーいもので。
父:笹巻き?
父:ユワスゲブチじゅうは大田んどこ。あそこ、奈良布の下、ユワスゲがずーっとあんだ。
あそこらの山ってがずーとタアネの田でやったあだ。よぐよぐくっされ田もらったあだ。

博昭:神様に使うか?
父:使わねんねが。シメこしぇえるのは青いまま稲を刈ってやんのはしってんが。

博昭:ネホグシじゅうは、やんねのが?
父:ここらはやんねな。
母:やんねな。
父:-----
母:ミツヨリか?そんじぇねえとこまっこくなんねから。それはやるわや。
それは、うーと、こする、、、、
父:こすり縄んね。別に、名前あんだ。
父:昔は、ワラ仕事やるに、じょーりつくるさ、もとさへえるものは磨きかけて、つるつるにしただ。こういうどこ、ワラふたとこかけて打つ(ぶつ)。しばったがなで、これこしぇーで、それをこしぇえて、
母:学校でなわより競争もあった。
母:ひっちばってな。かあちゃんだちなんの、そーだごどしね。いくひろもこうして、炭焼きんどき。
※父が二階の天井に行き、何か持ってくる。

父:三十年とか、五十年どが、、、こんなもんだな。ほうざらげで、これらはウバヒロロじゅうだ。ひろいがら。ワラで縛っておくだ。オレ取ったではねえ。二束(わ)ある。こんなもんなだ、おらほのヒロロは。
ここらは中のほうは青いどこあるは、、、、ここらは細いものある。
これらはウバヒロロ系統だ。広いのは。
たいしたもんだ。
博昭:写真とっからそのまま置け。
父:わっさしてっこどね。

母:じさま死んで三十三年たってんだが。
父:オレはあんまとった覚えねだ。うっしょの方もヒロロあんだ。サンボダケ出てツチアケビあっとこ。あのうえのほう、いっぺあんだ。にしゃバサマといったどこ。
陽当たりいいから、、、、ヒロロは良い。
博昭:花が咲くだから、種で増えんのが?
父:種でふえっかもしんにぇが、オレはしらねな。
まあ、どこんでもあんだ。ヒロロねえとこねえ。
根はって、ちっとば根はってんでねえだがら。
まあなんだがしらねがこまっけ根いっぺ出て、ずむね、地面に乗っている。
ひっこのぐど、これ、ひっこのべえと思うど、こうだにくっ付いてくる。簡単に抜けねだ。
セツあって、おらいのオヤジだちは「いまのせつんねと、抜けねどか、あど、ぬけなくなるとか、あんま遅くなっとぬけねとか、セツで。彼岸すぎっとぬけねどか、稲刈り前に抜くとかあんだ」
そのころだけだぞ、せてってもらって、抜いた。それだけだオヤジどいっておべえでんのは。

博昭:ハバキは作っながったが?
父:ヒロロで作ったが、ハバキじゅうは、ガバ(蒲)でやって、これで編んだ。
あれはきれいだわいな。サクジイなどはなにやっても上手でやった。
トラジイ様などはよっぽど遅くまでハバキやってだ。

母:いまならスパッツだわや。オノガジイは編むひまなかったから。高いだぞ、ミノじゅうは。オノガジは向こうから買ってた。
父:フクイオヤジがヤスジ、ヤスオンツア。ゲンベどか、ミノ作りしょうべえにやってて、ミノみっつも、よっつも、いつつも作って、シンゴジイが親、あれらなのミノ春先なっとみなのきば(軒端)さずーっとかけてさらしていた。さき雪でちっとさらして、せがら軒端さこうかけて。むこうの方のジサマまみなミノ作りやってで、冬うちにみっつもよっつも作って。
母:アマミノは高い。
父:最後のころはおらいも買っただ。
おらいの菊蔵ジイは本気でやった。おらいのセエオヤジはやんなかったんねがな。
母:やるよなかったべ。手悪いから。
父:おれだちころは合羽じゅうでたから。
向こうは、新しいミノは雨ふっとき、新しくねえのはミノは背負っかた。向こうはホソミノじゅうねがった。
母:にっしゃだち、かあちゃん、オオハラんどき、このくれの合羽こしさまいて、新しくねアマミノだどじき背中ぬれんだ。ひゃっこくなっちまあだ。
父:大岐では、キハッツアン、オンツアジイ、ていげいの人はミノ作ってただ。

父:ヒロロじゅうは、必ず、沢っぱたにあんだ。川まであるわや。ヒロロ。ヤマドリでも青物、ウサギでも何でも喰うのや。ササ、寒中んなっと、オゴンザワ、ウサギぶち行くとソネ際は風でササ出ている。そごさウサギ集まって、木まで喰う。
母:ウサギ喰うものは人間喰われるんねえの。山歩きやんねがら私はわかんね。
父:デゴヤの上のふっつあらしなんのは、雪が無くササが出てる。
あんまり風が強いどこはササ枯れっちまあ。

父:家のまわりに植えたりしねがった?
父:ひでえめあった。水道のホース引くとき。
ヒロロなんのどこんでもある。ヒロロねえどこなんてねえだ。
おらいの植え付けんなかの杉にあっぺ。
いまちっともようと、新芽がでねえだ。古物ばあしで、花終わってから遅く新芽が出て来る。カゴでもなんでも上手な人は細くやって、カツジ兄なんかずっと遅くまでカゴ作ったり、ゲンベ作ったりしてたわ。出稼ぎじゅういがなかったから、あの人は。
カツシロあんにゃは出稼ぎ行ったから。




5月例会終わる

■2008年5月30日(金)夜、福島県大沼郡金山町玉梨の旅館・恵比寿屋にて会津学研究会・例会を開催しました。8月15日発行の『雑誌・会津学』4号の編集状況等について懇談しました。

2008年5月19日月曜日

アサのなかごぶち

■1982(昭和57)年9月17日に祖母・菅家トシ(明治42年生まれ)からアサ挽きの作業中に聞いた話。当時23歳。

■アサの外皮のことを「アサクソ(麻糞)」というが、大岐では「なかご」と言った。ゴウ(郷、野尻郷、昭和村本村の野尻川流域のことをゴウのほう、と言う。大岐は滝谷川上流域で西山地区に近く小文化圏が異なる)のほうでは、カラムシやアサの挽き具を「かなご(金具、金子)」と呼ぶが、大岐では「ひきご(挽子、挽具)」という。カラムシ挽きは水を付けて挽くが、アサはつけない。大きな舟状の「ヲ(麻、苧麻、お)ひきばん」(麻挽き盤)、桧製のヲひきいた(麻挽き板)」を2枚重ね、アサ挽きはブッタテを1本。カラムシは2本。

 <なかごぶち>

 アサのなかごを洗ってぶち(打ち)、洗ってぶって売った。

 つけば(浸け場、アサは乾燥したものを水で戻してから挽く)さ行ってくっと、なかごぶちじゅうした。ごく昔は、それが糸になった。そっから糸を、取ったあだと。ヲ(アサ)を挽いてでたくずの、なかごは、家の前の川(滝谷川、近世は六沢川、あるいは中の川と呼ばれる)の水で洗って、水面からでている石の上でモミブチボウ(籾打ち棒)で打(ぶ)った。ぶって洗い、ぶって洗いした。この石は「ひらっけ ずない いし」(平らな大きい石)だ。

 それを、家ののきば(軒場、軒下)さ、掛けて乾かして、しまって(保管して)おいて、売った。なかご買い(商人)は、アサを買いに来る人とは違い、なかご買い専門の人がいた。

 昔は、ちっとばあ ヲ(アサ)作ったで あいやしめえ。百も二百も三百も。

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※茎のことを「なかご」と呼ぶ場合がある。皮の内側を利用し、外側は金属製の金具でこそぎおとす。利用しない部分の外皮を利用して、石で叩いて(砧、きぬた)乾燥させて売った、という。

 アサの茎の内側のずいの部分はアサガラ(殻)で、乾燥させ屋根葺き材とした。いまでも花の卸市場で盆に「麻柄」として売られている。

■1982(昭和57)年は、22歳で就農し家業の葉タバコ栽培に従事、時折農閑期に栃木県の設備屋(水道工事)に出稼ぎに行く。時間を作り、遺跡の発掘調査に従事する、という生活。この年の3月20日から11月5日まで(3/23、6/5、6/28、7/14、7/15、8/21、11/5)廃校となっていた大芦小学校に集められていた民具を分類し、からむし生産用具の文化財指定のための写真撮影(モノクロ)をした。その際、村の古老にからむしやアサの栽培・生産・織りに使う道具や所作の聞き取りを並行して行っていた。特に大芦の皆川伝三郎氏には3月15日、23日、6月4日、9月9日、10月14日と聞いた。10月14日には「ソナ(sona)は、大芦にはよくいた。巣を取りに行った。今は動物の飼いてはいなくなったなあ」と語ったことが印象に残っている。そな(ソナ)とは、カワセミ(渓流で魚を捕る鳥類)のことをいう。大型のヤマセミ、南方から渡ってくるアカショウビンも仲間だ。

 7月15日、南会津郡南郷村の南郷村開発センターに同村文化財保護審議会委員長の安藤紫香先生を訪ね、先にアサの民具で指定を受けているので助言を受けた。呼び名、地方名を残すことを教示された。南郷村教育委員会は昭和55年3月末に「奥会津の麻織用具と麻製品250点」が福島県重要有形民俗文化財指定を受けている。

 7月30、31日 新潟県岩船郡朝日村三面(みおもて)でセミナーがあり参加。姫田忠義さん、佐々木高明さん、坪井洋文さんらに会う。

 9月9日、大芦集落に五十嵐辰雄さん宅のコノばあ(婆)を伝三郎氏と栗城英夫君と訪ね、話を聞き機織り道具一式を受け取った。17日に我が家で作業がはじまったアサ挽きの話を聞いたのだった。英夫君の父・甚英さんが民具カードを作成している。

 9月27日から10月29日まで金山町の縄文時代中期の遺跡・石神平の第1次発掘調査に参加。冬期間はその出土遺物の整理作業に従事。

 1983(昭和58)年2月21日から3月5日まで奈良国立文化財研究所埋蔵文化財センターの埋蔵文化財発掘技術者専門研修・遺跡保存整備課程という研修に参加した。通常、市町村の教育委員会の担当者が参加するもので、昭和村教委の推薦により個人の資格で参加した。

 9月10日、会津高田町松坂、通称・谷ヶ地(やかぢ)集落の離村式。博士峠の麓の村がダム建設のために移転した。10月3日から25日まで第2次石神平遺跡発掘に参加。縄文時代中期の埋甕二個と石敷炉をもつ「複式炉」住居跡1棟が検出される。沼沢火山の火口湖脇の遺跡。縄文時代前期末の紀元前三四〇〇年頃(いまから5400年前頃)に爆発している。その後、中期から人々の痕跡を残すようになる。

 1984(昭和59)年3月25日に福島県の重要有形民俗文化財「昭和村のからむし生産用具とその製品371点」として指定を受ける。3年間の仕事が一区切りとなった。

 12月13日、新潟県三面訪問。はる書房の古川弘典さんと会う。12月は南郷村教育委員会の南郷村史編纂の石器の実測・トレース図の作成をする。

 1985(昭和60)年12月7日、東京新宿の民族文化映像研究所を訪問。

 1986年4月から民族文化映像研究所の姫田忠義さんらが「からむしと麻」の撮影で来村がはじまる。そこからの流れは『福島県昭和村におけるからむし生産の記録と研究~からむしを通してみた植物と人間の共生」(昭和村生活文化研究会編、発行、1990年3月)の巻末に1990年までを詳述した。

2008年4月15日火曜日

■『会津学』第4号の編集作業がはじまりました


■2008年4月末が、『会津学』第4号(8月15日発行予定)の原稿の締切日となっています。

■2008年4月14日(月)午前、福島県会津の三島町宮下の奥会津書房にて、遠藤由美子編集長、中丸さんと、菅家博昭で、編集日程について打ち合わせが行われました。また、13日に到着した山形県の草刈広一さんのハラミドリヒメギスの原稿も、編集長に渡しました。積雪地帯の山形・会津・新潟の山塊の地形に合わせた形態変化がみられるバッタ(キリギリス)の仲間の調査報告です。力作です。ありがとうございました。

2008年3月24日月曜日

福島県立博物館の公開講座

■2008年4月3日(木)13時30分から、福島県立博物館では木曜の広場は新講座として「会津学講座」となります。第1回は「会津農書」の民俗世界。赤坂憲雄館長、佐々木長生学芸員。

→→福島県博の催事
 会津農書』は貞享元年(1684)に佐瀬与次右衛門によって著述された農業技術書。与次右衛門の経験と旧慣習に基づく、中世から近世初期にかけての会津の民俗が記されています。

■5月8日 風土記・風俗帳の民俗世界
6月5日 会津の民俗芸能
7月3日 会津の山の神信仰
8月7日 磐梯山信仰
9月4日 職人巻物の民俗世界
10月2日 会津の焼畑と火耕
11月6日 森のめぐみと民俗
12月4日 雪と農業
2009年1月8日 会津の市と市神祭り
2月5日 馬をめぐる民俗
3月5日 民具が語る暮らし

暮らしを見つめる

■奥会津・間方(まがた)の人々に学ぶ

 二〇〇八年三月一七日(日)、一八日(月)、福島県会津地方にある三島町で会津学研究会による「春季講座」を開催し、参加された一五名の皆さんと、二日間、人の暮らしのあり方を時間をかけて学びました。

 三島町の間方(まがた)集落で生まれ暮らしている五名の皆さんからお話をうかがい、最終日に福島県立博物館の佐々木長生さんに『会津農書』『大谷組風俗帳』という近世の文献資料と現在の間方の生活を比較・連関して、まとめのお話をしていただきました。
 印象に残ったことをお伝えいたします。

 初日は、間方に生まれ、間方に嫁ぎ今も暮らしている三名の女性(昭和八年生、十年生、二十年生)から「ヒロロ細工」「雪納豆作り」「山の食べ物」について教えていただきました。

 二日目は、間方に生まれ暮らしている二名の男性(昭和●年生、二十八年生)から「集落にある神々」「狩猟(テッポウブチ)」「雨乞い」「魔の山(志津倉山)」について話をうかがいました。

 志津倉山の北麓にある源流の集落である間方集落では、南を向いて、つまり志津倉山(シンザクラやオーベエ)を向いて男は野良でも、山に入っても小便はしてはいけない、と教えられそれを守っている。最近まで「マノヤマ(魔の山)」と呼び、山頂から麓に降りる場所は数カ所しかないため、地元に住む人もたいへん気をつかって山に出入りしている。天狗様が棲んでいるともいう。そのため山に入ったらあまり大きな声を出さないようにしている。またマエツボ(前坪山)にはカシャ(化け)猫も棲み、それが土葬で埋めた死人を喰うので、間方の葬式は暗くなる夕方に行う。埋めた墓にも三本の木を曲げて六脚を土に刺し、弓にしてはねるようにしつらえる。昔は黒松を伐り芯木としてサイノカミも正月十五日にやったけれど、その黒松が無くなり、昔は杉の木も植えていなかったので、サイノカミで火事になったという理由にしてサイノカミは行わないようにし、雪で直径5m×高さ2mのドウを作り集落を上手と下手に分けて鳥追いとした。

 志津倉山で雨乞いをすると雷雲が出て雨になる。また美女峠伝説にちなむメサツ沢というのがある。

 山のモワダの木(しなのき)は六月中旬に伐り、皮を剥ぎ池などで二十日間ほど腐らせ、皮を剥ぎ、乾燥させ保存する。乾燥状態では弱いけれど、水に濡らすと強くなる。荷縄などを作った。葉の長いものと、丸い葉の二種類がある。

 ヤマブドウはこえた土、広葉樹の森でないと育たない。採取をただ続けていくと無くなるから栽培することも考える必要がある。皮は三重になっており、六月下旬から七月十日頃の山の栗の花が咲いたころに採取する。ナタ(鉈)やヨキ(斧)の刃を守るサヤにした。外皮は鬼皮といい、水に浸して形を作り、ソリ引きのときの肩荷縄にした。いまの手提げカゴひとつ作るに三本のヤマブドウが要る。

 マタタビは「ヤマを作る」ことをしておく。それは芽をふたつ残して剪定しておき、春から秋に伸びたツルを採取し、米などをとぐコメトギザルやヨツメザルを編む。

 ヒロロは多年草で、二種あり、ホンヒロロ(ミヤマカンスゲ)は、春から秋に伸びた葉を二百十日頃に引き抜き採取し、根を残す。ウバヒロロ(オクノカンスゲ)は、六月下旬に採取する。雨蓑(あまみの)や背負蓑(しょいみの)、山菜採りのスカリ(腰カゴ)にする。

 二日間、話者に参加者は、ヒロロを縄になう手繰りを教えていただき、稲ワラで納豆つとを作る作業をともに行いました。稲が入ってくる前の時代の縄はモワダという樹皮繊維であり、ヒロロという谷筋の沢沿いに自生する草の葉を利用していたことがわかりました。 また稲ワラを利用した納豆つとには二種類あり、簡単に作れるものは「モノグサ」といい、十二月の下旬に作るセツ納豆用のツトはきちんと編みこんで作るものでした。雪の中にクタダラ(稲ワラのくず、クタダ)をしいて納豆ツトをならべ雪を積みしっかり踏み込んで二日間ほどで納豆になった、という。

 イロリでゆでた大豆を納豆ツトに詰めるときに、一本の5cmほどの稲ワラ(茎)を結んだ「ヨメ」を豆の中に一個入れ、ワラを閉じ、周りを二人で結ぶ。「必ず二人でやるんだよ」と何度も語ったことがとても印象に残っています。正月用のセツ納豆は、家族、つまり母と娘、あるいは母と嫁、、、など家族に作法を伝える仕組みを持っているということが理解できました。縄をなう作業などは、少し教えてもらったら、あとは工夫しながら一人で行う、根気がいる仕事です。その一方で家の行事に関わる作業にはできるだけ人手をかけるように仕向けていることがよく考えられていました。

 私は、この志津倉山の反対側の南麓の昭和村大岐に住むのですが、この山から下りてくる雷雲は必ず雹害をもたらす、としてこの山塊の「ショウハチハヤシ」の空が黒くなったら気をつけろ、という伝承を抱えています。

 またサンボダケ(エゾハリタケ)は、ブナ、トチ、ミズメ(ミズネ)のほか、ハナの木、カエデにも出るが、8割はブナに出る、という。

 会津学研究会ではこの夏に発刊される『会津学四号』に、この春の学びのことも掲載する予定でいます。

(菅家博昭・会津学研究会代表)

 関連→→→会津学講座 

2008年3月17日月曜日

春季:会津学研究会講座(三島町間方の人々の暮らし方に学ぶ)








■2008年3月16日(日)午後3時から開催しました。17日(月)も継続します。
 
 →→→「記憶の森を歩く」に一部紹介

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福島県の三島町間方地域に暮らしている人々の文化。

■2008年3月16日(日)午後、会津学研究会で、間方(まがた)集落の3名の女性の方からお話をうかがいました。とてもすばらしい環境認識、自然認識、、、ヒロロの糸を調整する「こすりなわ」、、、、納豆つとに入れる「よめ」、、、とか、はじめて知ることがとても多くありました。

 ひととおり話をうかがってから、夕食をとりながらうかがった話も、とても良い話でした。「とうごんぼ」(葉)は味噌をくるんで油で揚げる、、、シソが出るまでの用法、、、大岐では焼きめしを包む葉として使っている「とうごんば」と同じだと思いました。

 サンボンダケは、トチ、ミズメ、ブナの3種にしか出ないそうです。

 2日目(3月17日)は男性二人から話をうかがいます。

 「間方は棲みいいどこで、いまんなってみっと、ほんとによかったなあって思う」

■→→→ 奥会津三島編組品振興協議会

2008年3月16日日曜日

2008年3月16日(日)~17日(月)福島県三島町で

■会津学研究会:春季講座のご案内


山に生きる 三島町間方集落に学ぶ

日  時:2008年3月16日(日)・17日(月)

場  所:福島県三島町 桐の里倶楽部(0241-52-2828)

受講費用:大人1000円(参加費は1日、両日参加共)

申込締切:3月14日(金)



第1日目 3月16日(日)13:30~17:00
13:20 集合   三島町交流センター山びこ前(駐車場あり)

13:30~14:30  全国工芸品/三島町工芸品展見学(体験は別途500円)
三島町交流センター山びこ/三島町生活工芸館


※以下から会場は宮下温泉のふるさと荘となりの
桐の里倶楽部です。

15:00~17:00  車座談義①
・山の恵みの手仕事 舟木トメ子さん
・山の恵みの食   間方地区の方々


18:00懇親会「桐の里倶楽部」(希望者にて会費3000円)

・・・・・・・・・・・・

第2日目  3月17日(月)9:00~11:45
9:15~10:15  対談 山を知ること
 菅家藤一氏/菅家博昭(会津学研究会代表)

10:30~11:15  車座談義②
・祈りと習い    二瓶一義氏

11:20~12:00  雨と水の民俗
 佐々木長生氏(福島県立博物館)

主 催:会津学研究会・共 催:奥会津書房

2008年2月17日日曜日

2月21日午前、三島町で。

■2008年2月21日(木)午前9時~12時。福島県三島町宮下 「カノヤキ(焼畑)研修会」が行なわれます。照会は奥会津書房まで。

  三島カノヤキ組研修会
 ○全国のカノヤキ事情 近畿大名誉教授 野本寛一先生
 ○映画上映   「牛蒡野のカノカブ」
 ○事例・質疑  野本昭三氏(牛蒡野でカノカブをつくる)

 同夜、ふるさと荘にて夕食会と会津学研究会例会を開催いたします。詳細は奥会津書房まで18日締切。

■2月21日(木)午後1時30分~5時 三島町宮下・三島町民センターにて、「農林業と木質バイオマス講演会」。会津西部木質バイオマス研究協議会主催のパネルディスカッション。聴講参加無料。

「バイオマスの現状と未来」福島県南会津農林事務所森林林業部林業グループ主任主査鈴木比良氏(南会津町)

「山に雇用を生み出すペレット製造」(株)アグリパワー代表取締役佐藤良治氏(会津若松市)

「農林業素材を活かした自給燃料づくり」NPO法人グリーンエネルギーユーザーズ斎藤光一氏(会津坂下町)

「木質バイオマス活用の展望と課題」会津建築工芸舎代表金親丈史氏(喜多方市)

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■3月16日(日)~17日(月) 会津学研究会 春の講座。主会場は三島町桐の里倶楽部(0241-52-2828)。三島町内で全国工芸品展が開催されており、見学、体験(生活工芸館は別途500円)。申し込み受付(参加費1000円)しています→→→奥会津書房

16日(日)午後3時~5時 車座談義(山の恵みの手仕事、等)

17日(月)午前9時~11時 対談「山を知ること」(三島町間方地区在住菅家藤一氏、聞き手菅家博昭)

2008年1月17日木曜日

ユーチューブでの映像配信試験

■2008年1月17日(木)会津地方は雪です。

■昨年末から会津各地を取材し、編集し、試験的に、ユーチューブに映像をいくつか掲載しています。これは2007年9~11月に会津を2回案内しました。その調査・取材・撮影したものが後に公開された「香箱(こうばこ・香時計とも)」についてのotaラボ(大田花き・花の生活研究所、東京の花卸会社)の映像を見たからです。

■カツラ(桂・樹木)の乾燥した葉がいかに粉砕されていくか(速度)、、、そしてそのための準備の身体技法、、、安定させるためのワラの使用はそのくくり方など、、、よく見ることができます。→→→ otaラボの香時計

■私は各地の表情や、古刹である神社・仏閣を年末・年始に撮影して編集してみました。→→→ 菅家博昭のユーチューブ(GYPJ)

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■会津美里町雀林の法用寺三重塔は会津地方に現存する唯一のもので、へびぶち(蛇打ち)という民俗行事も行われている地域です。塔には昨年のものと思われるセミの抜け殻がまだついていて、正月は大雪でしたが、それ以降雨の日が続いた1月7日の早朝に撮影しました。「尊農」の掲額もありました。→→→ 1月7日撮影 

■喜多方市も取材してみました。アマチュアによるビデオ撮影というのは公開を前提とするととても難しく、三脚を使用しての撮影では半日で100カット、60分程度撮影し、3~5分に編集してみます。時刻表を調べ撮影地点を決めて磐越西線(JR)のディーゼル列車を撮影しました。
 →→→ 2008年1月7日 喜多方市 願成寺会津大仏

 →→→ 2008年1月6日 喜多方市 新宮熊野神社長床

 →→→ 2008年1月4日 大内集落の正月

 →→→ 2008年1月10日 会津若松市の十日市

 →→→ 2008年1月8日の奥会津の雪、、、、昭和村小野川・大岐

2008年1月10日木曜日

例会等のお知らせ

■2008年1月の例会は次の通りです。

■会津学研究会のみなさま

奥会津書房@会津学研究会事務局です。

今年もよろしくお願いいたします。
今年初の研究会は、第3木曜の1月17日となります。
道路事情を勘案して、15:00~17:00までを予定いたしました。
是非ご出席くださいますよう、ご案内いたします。

日時:1月17日(木)15:00~17:00
場所:奥会津書房




■会津学研究会事務局です。
赤坂憲雄氏、佐々木長生氏、新国勇氏がパネリストのフォーラムです。
是非ご参加ください。
日時:1月20日午後1時から3時半
場所:福島市杉妻会館2階 牡丹の間(福島県庁脇)
    024-523-5161

参加される方は、奥会津書房までご連絡ください。