2011年12月31日土曜日

南会津町(田島) 奥会津博物館

■2011年12月31日(土) 福島民友新聞地域ニュース

郷土の歴史に光を
文書や書簡1696点 寄贈
南会津町下潮江の旧家の渡辺文学さん。

渡部力夫さん、樋口弘一さん、東北地方木地師学研究会代表の金井晃さんらが整理作業を行った。下塩沢村検地帳、宗門人別改帳、南山御蔵入騒動関係資料など。



2011年12月28日水曜日

渡辺三省『越後縮布の歴史と技術』(小宮山出版、1971年)


■2011年10月下旬に古書店から8000円で購入した『越後縮布の歴史と技術』。昭和46年(1971)8月1日初版発行。神田神保町の小宮山出版株式会社による発行である。著者の渡辺三省は明治39年新潟県中魚沼郡生まれ、昭和22年同郡岩沢村長。選挙に落選し『小千谷市史』の編纂にかかわる。
■2011年12月27日に本書・894ページを読了。苧麻(からむし)の近世の越後国内の流通について詳述している。このなかで地苧(じそ)への言及がある。
 古老からの聞き取りによれば、明治時代にいたるまで、越後(新潟県内)に相当量の青苧(あおそ、苧麻・カラムシのこと)生産があったことが確認された。地苧についての記録が乏しいのは、生産がないためでなく、これを自家の縮生産の原料として全部使用するからで、他との利害関係が起きないためである。よって奥羽(最上・米沢・会津等)からの移入量のみを問題とし、これをもって縮布の生産量を逆算することなどの誤りなることを指摘した(848ページ)。
 地苧無視の過誤(138~139ページ)。(衣料の)自家用品の原料のほとんどは地苧であったと断定して間違いなく、したがって毎戸栽培の必要があった。
上杉家が会津・米沢へ移封になったために同地に青苧栽培を奨励して、優良品を多量に産出するようになった結果、越後の青苧は減退した、という事実を否定することはできないとしても、このことがあまりにも単純に割り切って結論が出され、「苧(からむし)は上杉公に随きて会津へ行きたり」の一句が決め手のように各所に引用せられ、このことにひとつの疑問をさしはさむものもなかったということにたいしては、筆者(渡辺三省)は異論を持つものである。(略)
上杉の慶長の移封から天和の検地までには、じつに一世紀の時が経過しているといことが、今まで無視されている。天和検地にこれだけの広い青苧畑が確認され、その後の新田にも青苧畑が設けられ、遠く明治・大正まで地苧の生産が継続したという事実に照合してみれば、衰退の原因をそのように単純に割り切ることはできない。縮布の生産に必要な原料需要の絶対量に限度があり、その量が奥羽で生産されるがために衰えたとする説も訂正を要する。なぜなれば会津・米沢から青苧を買うために地苧の生産を停止しなければならぬという論理はありえないからである。
■「からむし焼(やき)」という語句が143ページの明和元年の古志郡荷頃村之枝郷 蘭木村、、、に掲載されている。からむし畑があり、からむし焼きが行われるためにその近くに家作ができない、という広井文書が掲載されている。
■親苧、影苧、子供苧(145ページ)。青苧(あおそ、カラムシ)はおよそ品質により三種類に分けられるが、その主たるものは親苧(おやそ)と呼ばれる。密生した苧麻の中には成長が遅れ、規定の長さにならぬものがあり、これを影苧(かげそ)という。これよりさらに発育が遅れ、大人が処理していては間尺にあわない屑様のものは、子供に挽かせるので子供苧(こどもそ)の名前がある。しかるに品質が優れ、優良縮布に使うのは親苧よりも影苧であり、子供苧はさらに品質がよい。つまり人間でいえば栄養失調・発育不良のものほど、その繊維が繊細・柔軟で優良品であるということである。
※奥会津昭和村では子供苧は「わたくし」と呼ぶ。
■134ページ。『東頸城郡誌』に、苧(からむし)には山苧(やまそ)と自苧(じそ)の区別ありて、山苧は古代より山野に自生するものをいい、自苧は会津苧に対する名称にして、畠に培養して作出するものをいう。山苧は一名エラ苧といい、山地は勿論田圃間の平地まで散生せりという。現在は松苧山の西方傾斜面菅刈登山口に自生し、会津苧も及ばざる良質なり。而して現在は同山北方小松沢という所にも自生し、会津上等品を小松苧というは、この地名に基因すると云い伝う。
■11ページ。苧麻を剥皮製線するさいの、上皮を水中に入れ、葦簀(よしず)の上にのせて、棒でたたきのばして打綿を作り、これを防寒用とした。
 ブイトウ(折さしともいう)というものがあった。これは農民の山着が破れるごとに、最初から意識的に布片の色・形・大小等を考慮せず、丈夫な麻糸で縫いつける。こうして後には原型の布はわからず、全面的に布が三重・四重・五重とかさなり合って、すべて雑巾の連続のようになる。これがブイトウで、こういう衣料が親から子へと数十年のあらい山仕事に堪えることができるのである。このような山着は大正初期ごろまでは、この地方の農民なら誰でも着ていた。
■永原慶二さんの遺作『苧麻・絹・木綿の社会史』(吉川弘文館、2004年)の207ページに渡辺三省『越後縮布の歴史と技術』はこの方面で、もっともすぐれた著作である、と評価している。204ページの『別冊太陽』引用の写真は昭和村で撮影されたものであり、203ページにも昭和村で今日も苧麻(からむし)栽培が行われている、と記述している。

2011年12月3日土曜日

12月13日(火)17時、西隆寺で例会

■2011年12月13日(火)17時から19時、三島町西方の西隆寺にて会津学研究会例会を開催いたします。→ 終了しました。