2008年9月19日金曜日

水車小屋事件

■→→→水車小屋事件 9月17日 南会津町

丈夫な草なんだ。作ったものが長持ちする。




■福島県南会津町今泉に会津鉄道山村道場駅がある。国道でいえば栃木県境の山王峠に向かい、会津田島の河川(大川)の平地がちょうど終わる付近で、ここに奥会津地方歴史民俗資料館があり、茅葺き民家が移築・保存・活用されている。隣接し、うさぎの森キャンプ場や会津山村道場がある。

 2008年9月17日(水)首都・東京の花の卸市場での打ち合わせの帰り道に、この資料館をたずねると、ちょうど湿地植物のガマ(蒲)の葉干し作業が行われていた(写真)。草履などの手仕事用に採取し乾燥しているのだ、ということだった。

 昨年春に会津学研究会の春季講座が只見町で開催されたとき、南会津町田島の渡部康人さんが参加された。今回は奥会津地方歴史民俗資料館に渡部康人さんを訪ね、話をうかがった。

 ちょうど、朝の開館を前に、移築民家ではいろりに薪が焚かれ、掃き掃除が行われ、水車小屋のなか等にガマの葉干し作業がはじまっていた。この立地地域の今泉のTさんという古老も手仕事を民家内で行っており、体験の先生として活躍されており、康人さんに紹介していただいた。ヒロロのことを聞くと、つぎのように返答があった。

「ヒロロも使うけれど、俺はシバクサを多く使った。シバクサの方が強くてミノ(雨蓑)に作っても3年も5年も持つからな。二百十日を過ぎると引き抜くんだが、葉の縁にとげがありそれで手を切るから軍手など手袋をかけて引き抜く。だいたい二カ所に採取場所があるけど、山奥だよ。シバクサはヒロロより作ったものが長持ちするからいいんだ」

■シバクサについて調査中、イワシバと同義かどうかも調査中。

2008年9月8日月曜日

会津学夏季講座終了



■楢枯れと会津学4号発刊、夏季講座

 資源高騰の時代となり、石油を焚く農業が出来なくなった年でもある今年、この6月の岩手・宮城内陸地震により東北も地震への備えが必要であることが再認識された。東北南部の福島県会津地方には会津盆地西縁断層帯が南北35kmにわたり横たわっており、この活断層の活動により形成された丘陵地の樹木に異変が起きている。これまで局所的にマツクイムシにより被害が見られたアカマツの樹林のほとんどが、この夏に枯れた。9月はじめに枯れた丘陵が数十kmにわたり続く光景は樹難の年として記憶される。磐越自動車道で会津若松から新潟に向け進み、この断層帯丘陵に造った会津坂下トンネルの両側のアカマツは枯れているのがよく見える。トンネルを抜け、会津坂下インターから只見川を遡上し柳津町・三島町に入るとミズナラ・コナラの楢枯れが目立つ。2000年に新潟県境から会津にカシノナガキクイムシ被害が入り込み、現在は柳津町・三島町・会津美里町等の楢を中心とした広葉樹林が広く枯れている。宮川流域では植林した杉の一部も枯れ始めている。会津地方の基層文化をささえた森林が低標高地から消滅しようとしていることにたいして誰一人危惧を抱かない時代である。
 この樹林から選び出した木や草を利用して人びとは暮らしを立ててきた。昨年夏に、福島県立博物館は鹿児島県の黎明館と共同で企画展「樹と竹」を開催した。それが縁となり、この夏の終わりに鹿児島県内の民俗学研究者が6名、奥会津の村々を歩いた。

 9月5日、6日と福島県三島町の交流センターやまびこを会場として会津学研究会主催による夏季講座を開催した。「北の民具・南の民具」をテーマとしたが、鹿児島県から来県された方々の研究成果を短く報告していただき間方集落でのフィールドワークや、討論を参会者30名余で行った。進行は佐々木長生さんに依頼した。
 南西諸島のことを含め鹿児島民俗学会代表幹事の所崎平さん、牧島知子さん、米原正晃さん、出村卓三さん、新納忠人さん、川野和昭さんから話をうかがった。所崎さんは神舞と食べ物について、牧島さんは芭蕉布・葛布・芙蓉布など植物繊維を原料として織物について、米原さんは地引き網漁、出村さんは沖永良部島のムン話の分布が集落の境界のマタと呼ばれる窪地に集中していること、川野さんは野牧絵図のオオカミの作喰狩(犬ねらい番所)について話題を提供した。
 赤坂憲雄さん、佐々木長生さん、地元間方の菅家藤一さんを加え、奥会津と南西諸島の違いと共通点を明らかにし、今後地域学研究や聞き書きのあり方が議論された。
 『会津学4号』が8月に発刊され、その巻末にハラミドリヒメギスという奥会津から新潟・山形の山岳地帯の豪雪地帯に生息するキリギリスの生態について、山形県小国町の草刈広一さんからの調査や研究報告も行われた。最終に会津で進行する楢枯れにどのようにして人間は対応したらよいのか?という議論がなされた。小さな昆虫が広く社会の基層文化を変えるほどの威力を持つ時代であることが強く印象に残った。 
 来年5月末に鹿児島県の沖永良部島で地域学の会合を開催することが決まり、会津学研究会からも参加することを決めた。 菅家博昭(農業、会津学研究会代表)

2008年9月3日水曜日

かやぼっち(kaya-botti)




■2008年9月1日午後。立春から数えて210日の日、会津地方の柳津町で、ススキを刈り取る70代の老女がいたので話を聞いてみた。自動車を停めて、作業をしている場所に歩き近づく。

 電動カートで離れた集落から山奥の田んぼに来ている、人は多くなった。この女性が自分で運転して乗ってきた電動カートには「すぐったワラの束がいっぱ(一束)」後部荷台に載っている。縦縞の木綿地、もんぺのようなズボンに長靴、水色の上衣に濃えんじ色の布の手差しを軍手の上に掛ける。紺の図柄の入った1枚の手ぬぐいを頭にかぶり頬を護り、そのうえに、日よけのための市販されている、赤いひものついた麦わら帽子をかぶる。その幅広の布ひもの赤は正面にむけている。長さ50cmほどの木製の白い柄のついた鎌の金属製の刃は幅広で、左手で持ったススキ(かや)の根元を右手に持った鎌の刃をあてて引ききり、その後、穂を根本から落とす。腰に結わえた「すぐったワラ束」から数本、ワラを右手で引き抜いて刈ったススキを結わえる。ワラ束の根本は引き抜く側の右腰にしていて、ささくれだたないように、抜きやすい方に付けている。一連の作業は熟練したものだ。自然と体が動く。




「こんにちは、、、はじめまして」

「???」(作業を停め、帽子を取り、頬被りした手ぬぐいをはずす)



「あの、このススキを刈って束ねて立てたものは、なんて呼ぶのですか?」

「???」



「萱(かや、、、ススキのこと)刈りですか?」

「そうだけんども、、、何でそんなこと聞くのや?」



「呼び名を調べているんです」

「ここは、田んぼだったけど、荒らしてしまったら萱(かや)が生えてきて、その萱を毎年刈り取って、持ち帰って、畑に堆肥にして入れて来年のためにしてんだ。田んぼはワラが入っからな、だげど畑は何も入んねべ。だがら萱入れんだ」



「刈り取って何日ぐらい乾燥するんですか?」

「今日、刈り始めたけんど、くたびれっから(疲れるから)、刈って倒してだけおくんだ、、、、」



「束を組んであの立てたふたつのものは?」

「かやぼっち」



「かやぼっち、っていうんですね」

「そうだけど、ほら、あそこの田んぼにいる親父はよぐ知ってっから、あの人に聞くといい」



「手を止めてすみませんでした。ありがとうございました」

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「おじさん、あれは、カヤボッチって呼ぶんですか?」

「そうだ。今刈り取って、30日くらい乾かしてから昔は背負って帰ったもんだ。あのな、稲刈り前に萱を刈って立てておく、その後、稲刈りをやる。稲刈りが終わる頃に、萱は乾き、軽くなるから背負ってもラクに家に持ち帰るんだ」

「ありがとうございました」

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■仕事がうまく組み合わされている。萱(かや、ススキ)は屋根材、堆肥、冬囲い、動物の飼料などになる万能素材。

■植物を刈り取り、立てて干す。軽くしてから運搬し、そして使う。

■東京新聞2月3日、聞き書きの旅を続ける野本寛一さん

2008年9月1日月曜日

生業とは?

■千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館編『生業から見る日本史~新しい歴史学の射程』(2008年3月刊、吉川弘文館)は、2005年からの共同研究の中間報告として2006年11月18日に第56回歴博フォーラム「新しい歴史学と生業~なぜ生業概念が必要か」の報告集である。

 自然や環境の地球的規模での有限性がはっきりと認識されるなかで、自然と社会を調和させてきた前近代の民衆がもつ知の体系を再検討することが今、もとめられている。日々の生活のなかで生き抜くための生産物だけを自然から秩序だてて獲得してきた民衆知の世界が存在した。浪費や富のための拡大生産を自主規制してきた世界観が存在した(井原氏まえがきより)。

 66ページから野本寛一氏が「生業民俗研究のゆくえ」として生業複合について述べている。会津学に寄稿していただいた会津桐や三島町の農林業のこと、また昭和村の苧麻(からむし)についても言及している。野本氏は69ページで、「朝倉奈保子の「苧の道」(『会津学』第二号、二〇〇六年)は、カラムシの生産と流通に関する貴重な調査報告として注目される」としている。

 また、新しい動きとして、川野和昭の「竹の焼畑と水~栽培と跡地の再生と水」(『季刊東北学』第2号、二〇〇五年)などもアジア的視野のなかで焼畑を紹介している、と評価している。

 川野氏は9月5日~6日の会津学夏季講座の主要な講演者の一人で、鹿児島からアジアに広がる竹の文化について講演が予定されている。