2008年6月8日日曜日

ヒロロ(深山寒菅)のいま  会津学4号掲載予稿

ヒロロ(深山寒菅)の今
福島県昭和村大岐 農業 菅家博昭

雪国の会津の冬でも枯れることがない常緑の深山寒菅(ミヤマカンスゲ)というスゲ類の植物がある。夏は細く長い新しい葉をのばし、冬には地上部の葉の先や、一部は枯れるが根株と一部の葉が残り、地面を冬でも緑色の葉で覆う目立たない草である。
 日本列島に自生するが、会津地方、特に奥会津でも、沢筋の半日陰の水はけのよい斜面に自生し、山体全体でもみられるものである。湿地に生えるのものではなく、陸生のスゲ類であるそれを「ヒロロ(ひろろ)」とよぶ。
 採取・乾燥して縄にしカゴやハバキ、ミノなどに加工してきた。そして、ヒロロ、、、とても不思議な韻を持つ名前だ。大辞林という辞書では「ひろろ・ぐ」として「ひょろひょろする」「ぐらつく」「よろめく」という意味である、と書かれている。野に生える様子を示しているのかもしれないがヒロロという名の意味は不明である。この呼び名は、会津から新潟県にかけて分布するようである。
 会津地方の市町村史などを見ると掲載されている文字数は少ないものの、ヒロロは多くは蓑(ミノ)の材料として利用したと書かれている。
 この草は葉の幅が広いものがあり、ウバヒロロとよび、植物学的にはオクノカンスゲとされている。ウバヒロロに対してはミヤマカンスゲをホンヒロロと呼ぶことがある。
 つまり奥会津地方では、ミヤマカンスゲとオクノカンスゲの2種のスゲ草を総称してヒロロと呼ぶのである。
 ウバヒロロは葉の幅が広く、草丈も長いほか、株からの引き抜き採取時期は六月であり、陰干し乾燥し、その長さを活かした利用法がある。またホンヒロロ、一般にヒロロと呼ぶそれは九月上旬に採取し陰干しする。葉の繊維が弱くなく、硬くなく、引き抜き採取も容易な時期が九月上旬である、という。干すのも緑色を残す工夫をしている。できあがりのことを考えた採取時期の最適時期が種により異なる、という人びとの知識にはとても大切な自然物の利用の仕方の考え方がみられる。一年おきに採取するという隔年利用で株を傷めない工夫、また根を傷めないように引き抜き方の工夫は山菜として食するフキ(蕗)などでも根を残して引き抜く力の入れ方、株元を足で押さえる等の技法が一般的な知識として体得されている。
 ヒロロのような山地に自生する草を採取し、軒下等で干し、天井裏に保管し、縄を綯う、撚る、という作業は主に冬期間に屋内で行われた。
 樹皮の繊維を利用する技術、多年草の草をそのまま利用する技術など、現在でもその数は少ないながら、人びとは山との関係を保っている。また記憶の深部に、人びとが若かりし頃、それはとても貧しかった日々の記憶でもあるが、山から草を採取したことは容易によみがえる。
 野の獣や鳥、、、ヤマドリや野ウサギが冬場に沢の雪の消え間で採餌した植物のひとつとしてこのヒロロは猟師の記憶にも残っている。ヒロロは、山に棲む生きものを雪一面の冬に支えた常緑の植物のひとつでもあった。

 標高七百三十メートルの、福島県昭和村大岐の集落の周囲でのヒロロ(ミヤマカンスゲ)の自生地を観察してみると、水が流れる沢の付近の木立の中であり、水が流れるくぼみの岸の土手のような場所にある。春先には雪解け水では根株が水に一部洗われるような場所だけれども夏場は冠水することが無いような沢の床よりも五〇センチくらい高いような場所で腐葉土が堆積した上に根を上流から下流に伸展したかたちで群生している。根は十センチほどあるが地下茎(根)と地上部の接点の少ししたに白い根が数本出ている。主根は上流側に向かって(あるいは斜面上方に向かって)伸びている。雪に押されても雪解け後に起き上がるような根曲がりの樹木と同じような生え方である。
 この観察している区の一メートル四方のヒロロを二〇〇八年六月八日に数えてみると、百五十株ほどあった。それが幅六十センチほどの古い道の踏み跡に沿って道幅で群生している。しかし藪で日照がほとんど無いような場所には株は無い。地上部が半日陰のような、上空が見えるような隙間の場所の下にはびっしりと密生している。
 新葉が十センチほど伸び、花茎も立ち先端部の雄小穂と、そのしたの雌小穂二から三個あった。茎元の基部は暗赤褐色である。根は腐葉土の上に横たわったように自生しているが、容易に根ごと引き抜ける。葉にはトゲなどは無くざらつくこともなく、しなやかである。昨年伸びたであろう濃緑色の古葉の長さは三十から四十センチメートルほどである。中心の新葉は淡緑色で長さは十五センチほど伸びていた。


ヒロロの根ほぐし
 二〇〇七年九月五日の午後に福島県大沼郡三島町名入の三島町生活工芸館に電話をした。この年の一月十九日に志津倉山の北麓流域の地名を教えていただいた、三島町間方集落の菅家藤一さんに合うためです。翌日、九月六日の午前十一時に訪問することになり、八月中旬の盆に出来たばかりの本『会津学三号』を届けた。

 日本の首都である東京都内の大学四年生の久島さんも今回は同行する、ということで、三島町宮下の奥会津書房に十時四十五分に行き、彼女を乗せて、生活工芸館に十一時五分に到着した。山びこ・どんぐり、、、の前には学生が多くいて都内の美術大学の木工の教室があったようだった。藤一さんから、話は三十分聞いて、お礼を言い、久島さんを奥会津書房に送り、すぐ昭和村大岐の家に私は戻り、かすみ草のハウスを補強する台風対策をした。

 生活工芸館の玄関を入ると、同町役場の五十嵐政人さんがいたので、挨拶して、館内に入り、小柴君に菅家藤一さんの作業している場所に案内してもらう。
 藤一さんは、事務所から抜けた軒下(外)で、野草の整理をしていた。今日は地名を聞くより、いま行っているこの作業のことを聞くことに変更し、いくつか話を聞いた。藤一さんは次のように語った。

「にひゃくとうか(二百十日、立春から数えて)を過ぎたら、山の沢筋にて野草のヒロロを採る」
「昨日五人で三百四十束近く採った」

 ヒロロには二種類あることを、このときにはじめて教わった。
 通常二百十日頃の秋に採る通常のヒロロは「ホン・ヒロロ」。同じ草で違いがあるが六月中旬でも採れるヒロロがあり、それは「ウバ・ヒロロ」と呼ぶ。
 ホン・ヒロロは「ミヤマカンスゲ」のこと。
 ウバ・ヒロロと地元で呼ぶのは「オクノカンスゲ」のことをいう。
 ヒロロは、ヒロウとも呼ぶことがある。
 いずれも見分けるのは素人では難しい、という。

 ヒロロは沢のなかの日陰向きに自生している多年草植物で、引き抜いて収穫する。根株を守るため、根を足で踏んで押さえて、茎葉だけを引き抜く。毎年収穫すると株が弱るので、採る間隔は一~二年あけたほうがよい。
 三島町間方では、ヒロロの山の口(収穫制限)は無い。ただし、人により採り場はだいたい決まっていた。
 ヒロロは引き抜き株を一枚ずつ葉をはがし「ねほぐし」という作業が、今日見た作業だった。それを束ね直して天日で二、三日干してから陰干しにして乾燥させる。根ほぐしをしないと、重なった部分が赤くなる(褐色になる)から、とう。アオ(緑)が損なわれると価値が下がる。
 昔は、二百十日に採ったヒロロを乾燥させ、それを素材として、冬に雨蓑(あまみの)、背負縄(しょいなわ)、荷縄(になわ)にした、とう。
 藤一さんは今、ここ生活工芸館に勤務しており、同館の体験教室等の素材用として野生のヒロロを収穫、根ほぐし、乾燥、の作業をしており、その日に偶然訪問したことになる。私がヒロロをきちんと意識したのはこの日からだった。


奥会津・間方(まがた)の人々に学ぶ
 二〇〇八年三月十七日(日)、十八日(月)、福島県三島町で会津学研究会による「春季講座」を開催し、参加された一五名の皆さんと、二日間、山の人の暮らしのあり方を時間をかけて学んだ。
 三島町の間方(まがた)集落で生まれ暮らしている五名の皆さんから話をうかがい、最終日に福島県立博物館の佐々木長生さんに『会津農書』『大谷組風俗帳』という近世の文献資料と現在の間方の生活を比較・連関して、まとめのお話をしていただいた。
 初日は、間方に生まれ、間方に嫁ぎ今も暮らしている三名の女性(菅家愛子さん・昭和八年生、菅家花江さん・昭和十年生、舟木トメ子さん・昭和二十年生)から「雪納豆作り」「山の食べ物」「ヒロロ細工」について教えていただいた。
 二日目は、間方に生まれ暮らしている二名の男性(二瓶一義さん・昭和五年生、菅家藤一さん・昭和二十八年生)から「集落にある神々」「狩猟(テッポウブチ)」「雨乞い」「魔の山(志津倉山)」等の話を聞いた。
 志津倉山の北麓にある源流の集落である間方集落では、南を向いて、つまり志津倉山(シンザクラやオーベエ)を向いて男は野良でも、山に入っても小便はしてはいけない、と教えられそれを守っている。最近まで「マノヤマ(魔の山)」と呼び、山頂から麓に降りる場所は数カ所しかないため、地元に住む人もたいへん気をつかって山に出入りしている。天狗様が棲んでいるともいう。そのため山に入ったらあまり大きな声を出さないようにしている。またマエツボ(前坪山)にはカシャ(化け)猫も棲み、それが土葬で埋めた死人を喰うので、間方の葬式は暗くなる夕方に行う。埋めた墓にも三本の木を曲げて六脚を土に刺し、弓にしてはねるようにしつらえる。昔は黒松を伐り芯木としてサイノカミも正月十五日にやったけれど、その黒松が無くなり、昔は杉の木も植えていなかったので、サイノカミで火事になったという理由にしてサイノカミは行わないようにし、雪で直径五メートル、高さ二メートルのドウを作り集落を上手と下手に分けて鳥追いとした。
 志津倉山で雨乞いをすると雷雲が出て雨になる。また美女峠伝説にちなむメサツ沢とい
 サンボダケ(エゾハリタケ)は、ブナ、トチ、ミズメ(ミズネ)のほか、ハナの木、カエデにも出るが、八割はブナに出る、という。
うのがある。
 山のモワダの木(しなのき)は六月中旬に伐り、皮を剥ぎ池などで二十日間ほど腐らせ、皮を剥ぎ、乾燥させ保存する。乾燥状態では弱いけれど、水に濡らすと強くなる。荷縄などを作った。葉の長いものと、丸い葉の二種類がある。
 ヤマブドウはこえた土、広葉樹の森でないと育たない。採取をただ続けていくと無くなるから栽培することも考える必要がある。皮は三重になっており、六月下旬から七月十日頃の山の栗の花が咲いたころに採取する。ナタ(鉈)やヨキ(斧)の刃を守るサヤにした。外皮は鬼皮といい、水に浸して形を作り、ソリ引きのときの肩荷縄にした。いまの手提げカゴひとつ作るに三本のヤマブドウが要る。
 マタタビは「ヤマを作る」ことをしておく。それは芽をふたつ残して剪定しておき、春から秋に伸びたツルを採取し、米などをとぐコメトギザルやヨツメザルを編む。
 ヒロロは多年草で、二種あり、ホンヒロロ(ミヤマカンスゲ)は、春から秋に伸びた葉を秋、二百十日頃に引き抜き採取し、根を残す。ウバヒロロ(オクノカンスゲ)は、六月下旬に採取する。雨蓑(あまみの)や背負蓑(しょいみの)、山菜採りのスカリ(腰カゴ)にする。
 二日間、話者から、参加者は、ヒロロを縄になう手繰りを教えていただき、稲ワラで納豆つとを作る作業をともに行った。稲が入ってくる前の時代の縄はモワダという樹皮繊維であり、ヒロロという谷筋の沢沿いに自生する草の葉を利用していたことがわかった。また稲ワラを利用した納豆つとには二種類あり、簡単に作れるものは「モノグサ」といい、十二月の下旬に作るセツ納豆用のツトはきちんと編みこんで作るものでした。雪の中にクタダラ(稲ワラのくず、クタダ)をしいて納豆ツトをならべ雪を積みしっかり踏み込んで二日間ほどで納豆になった、という。

 イロリでゆでた大豆を納豆ツトに詰めるときに、一本の5cmほどの稲ワラ(茎)を結んだ「ヨメ」を豆の中に一個入れ、ワラを閉じ、周りを二人で結ぶ。「必ず二人でやるんだよ」と何度も語ったことがとても印象に残っている。正月用のセツ納豆は、家族、つまり母と娘、あるいは母と嫁、、、など家族に作法を伝える仕組みを持っているということが理解できた。藁で縄をなう作業などは、親に少し教えてもらったら、あとは工夫しながら一人で行う、根気がいる仕事。その一方で家の行事に関わる作業にはできるだけ人手をかけるように仕向けていることがよく考えられている。

 私は、この間方の志津倉山の反対側の南麓の昭和村大岐に住むのですが、この山から下りてくる雷雲は必ず雹害をもたらす、としてこの山塊の「ショウハチハヤシ」の空が黒くなったら気をつけろ、という伝承を抱えています。大岐の北西後背山地が「ショウハチハヤシ」。

 本稿を書くために大岐の父母にもヒロロのことを聞いてみた。特に、四十八年間、日常的に接している猟師でもある父に、私自身がヒロロの文献調査のなかで知った「ヤマドリがヒロロを食べる」という新事実も聞いてみたが、父は知っていた。つまり父のなかでは山中で見聞きした常識であり、それを知らない聞き手である私の話の引き出しかたが足りなかった、わけである。
 白い雪で山野が覆われる冬期間に常緑の植物ヒロロや笹類(ブナ林のチシマザサなど)は、水の力で雪が溶け地面が出ている沢筋や、風の力で雪が吹き飛ばされる尾根の特定斜面などに見える植物であり、それをヤマドリや野ウサギが食べて冬を越す。野ウサギは木の芽や樹皮しか食べないと思っていたが、ヒロロも食べる。また、ヤマドリは樹木に寄生しているホヤ(ヤドリギ)の実を食べ、雪の隙間の沢に降りて水を飲み、そこのヒロロなども食べている、と父は言う。
 人間もヒロロを食べたのか?と聞くと、食べない、という。
 大岐では男はアマミノを作り、女はホソミノを編んだ。
 ヒロロは木立のなかで、倒木などで樹冠部に空間が空き、そこから太陽光が林床に射すような場所のものが充実していたようで、「地福(じふく)」の良い、つまり肥沃な土壌の場所のものが長く、良いヒロロだったようだ。沢といっても湿地に生えるのは短いため、あまり採取せず、オカ(陸、湿地ではない土地)に生えているものを採取した。立春から数えて二百十日目頃、というのは共通している。
 ただ、二種のヒロロは大岐では分けずに採取していたようだ。
 束ねて干して冬にミノやコシカゴを編む。
 野尻川流域は「ゴウ(郷、野尻郷)」のほう、と言って、ホソミノが無かった。ホソミノは荷物を背負う時に使う背当てで、小野川(大岐も含む)で作られていた。野尻川筋ではあたらしいミノはアマミノとして使い、古いミノを背負ミノとして利用していた。
 父は清一(昭和七年生、七五歳)、小野川から嫁いできた母・ミヨ子(昭和八年生)。父は、天井(二階の物置・屋根裏)から一束の乾燥した植物の束を持ってきた。
「尋常高等学校(いまの中学二年で卒業)出て、オヤジにはじめて連れられて博士山の黄金沢の滝のところにヒロロ採りに行った。十四、十五歳の頃だ。これはオヤジが採ったヒロロだ。ホン・ヒロロ(ミヤマカンスゲ)のほか、ウバ・ヒロロ(オクノカンスゲ)も混じっている。葉の幅が広いのがウバヒロロだ」
 オヤジというのは父・清一の親のことで、私から見て祖父。その清次は明治四〇年八月十八日生まれで、私も八月十八日生まれだ。この祖父・清次の親は菊蔵と、明治三十六年に大芦から嫁いできた星トメの次男として大岐に生まれ、昭和五十一年(一九七六)三月七日に七〇歳で死去している。私はそのとき高校一年生。
 このヒロロは、採取されたのは昭和二十一年(一九四六年)頃のことになる。清次は三九歳、その息子の清一は十四歳。いまから六十年ほどまえのもので父が天井裏(屋根裏)に保管していた。
 三島町ではヒロロは根ほぐしという作業をしてから乾燥する。それを父・清一に聞いたところ、「ここらではそんなことしてないな」ということで、祖父の採取したヒロロを持ってきて、根本を見て「抜いたまま乾燥している」ことを確認した。大根葉や凍み餅を編むようにして束ねたヒロロを軒下に下げて乾燥したそうだ。

 話を聞いてみよう。

■二〇〇八年五月三十一日に父・菅家清一(昭和七年生、七十五歳)、母ミヨ子(昭和八年生)より植物ヒロロ(HIRORO、ミヤマカンスゲCarex multifoliaと、オクノカンスゲCarex foliosissima Fr. Schm.)のことを聞く。
 先日、金山町川口高校で授業で話す機会があり、そのときに使ったヒロロを干したものを五月三十一日の朝八時三十分、コタツにあたっている父母に見せる。三島町生活工芸館から入手したもの。雨の寒い日。気温十二度。

父・清一:照だち、こだつ(炬燵、コタツ)取って震えてるようだべ寒くて。
母・ミヨ子:このめえのあったけ日にコタツとった。
父:トラクターのうっしょのダンプ付いているうちに畑さ堆肥三回運んだだぞ。

父:こうだの(ヒロロ)どこにでもある。
ヒロロなんのここらの山ん中さ どこにでもあんだ。
おらいの植え付けの杉ん中の林なんかどこにでもあんべ。
こごらでは、ヒロロのねえどこねえだ。
いまちっともようと、古物ばあしで花咲いてから新芽出てくんだ。
博昭:何に使った?
父:これはミノだわや。ヒロロミノに決まってる。
おなごてえはホソミノ。
おとこてえはアマミノやってだだ。
おらいのセエオヤジはアマミノ、、、、
母:なんでもきれいだ。家のがなはこれより広いぞ。
博昭:いつ頃取んだ?
母:これは二百十日になるころ。
父:あのころヒロロぬきさいったとおもったな。
博昭:どこさ?
父:はじめてヒロロヌキいったのは、オヤジにくっついて、
オウゴンザアの滝んどっからだ。
博昭:なんで、そんな遠くまでいったのや?あ?
父:そこにあっからや。
博昭:裏山、ここにあっぺや。
父:(笑)にしゃ、ヒロロじゅうは、きだちのなかの きおっくらけえったなかの、すきまできべえ。天道様(太陽光)あだっどこ、そこさはいいヒロロできでくんだ。そこさオヤジど、滝の下から沢があんだひとつ。いいヒロロあんだ。滝の下さ、沢あんだ。

博昭:いいヒロロ、悪いヒロロの基準はなんだ?
父:長いのが、いいヒロロや。べらぼうな、そんなごどもわかんねのか?谷地(湿地)っけのようなものはみしけえべ、こごらのがな。
ヒロロねえどごねえだ。どこんでもあんだ。
谷地でもねえが、沢っけにある。
山のすてっちょう、どこんでもあっけど。あれのこえでっとこ、
地福、肥沃のあっとこが長いヒロロできんだわや。

父:ウバヒロロどって、ちっとこれらより、ちっとひれえのや。
これらはいえほうだわ。
博昭:ホンヒロロ(ミヤマカンスゲ)とウバヒロロ(オクノカンスゲCarex foliosissima Fr. Schm.)は取り方は?
父:ウバヒロロだって、なんだってすかすかとるわや。
なかなかひっこぬけなくて、ぽつ、ぽつって抜くのや。
ふわふわしてっから、根までひっこぬけんだ。
そんじぇはうまくねから、足で株を踏んで根を抜かねように抜くだ。
母:一本一本抜くだぞ。たいへんなあだぞ。
父:彼岸のめえとか、取った覚えあんだが。
おらいの林とか、炭窯の下のほうとか、
ちっとてえらなようなどこ。
きだち(木立)のなかのすきたようなとこ。
博昭:いくつのころ行ったの?
父:学校上がったら、学校の頃?
母:高等二年。尋常小学終わってから高等どって二年でる。
父:彼岸の頃行ったとおもってんだ。稲刈り前。
いまは植え付けになったが、おら、よーぐおべえでんだ。滝。
おごんざあの滝の、今の土橋んどっから入っていくど、ちょうどいえだ。
滝の下さ砂防ダムできた。ちっちぇ沢あんだ。
その沢がハタヤマの地蔵様までいってんだ。
オゴンザアとくっついだくれんどこ。
ヒロロ抜きやって。
(左手で親指と人差し指で輪を作り)
このぐらいの束にして、
ワラで丸って、おっけで、これくれいの束(そく)にして背負ってくる。
重てえほどなんで、とるよねえだ。
これカテアミみてえに縄で編んで、ほらいまだと
モチアミみてえにぬきば(軒端)さ下げる。そして干すだわ。
おとこてえは、みんなアマミノ作る。
じさま、セエ爺、オヤジはミノつくってっとこみだごとねえな。

父:毎年ヒロロとんなんんねだ。
博昭:した、何年も持つんねえの。
父:アマミノ(雨ミノ)のは何年も持つ。
にしゃ、きれんだぞ。
毎日、しょっかたなんだから。

母:たゆうさまのほうでは、あゆう、ホソミノが無くて
父:向こうはアマミノよけいでやっただ。

博昭:カゴは作る。スカリって言うんねえの?
父:カゴはカゴだ。そんなこどゆわね。
母:あれ、としょばあはカゴ作りやった。
父:あ、やったやった。
かごじゅうは、これよって、こうやってやんだが。底だげやって、
こうやって木型をしばっておいて、それどおんなじに伸ばしてくる。
でっかさ決めてからやって、なかなかほいきたとはいがねだぞ。
底がこのくれで、高さがひとっぱりとか、ひとっぱりはんとか
決めてから、編むだ。
底縛っておいて、ぐるぐる編む。
昔は長いから、あれぶんなのよりぎんねから、
よりより、こうやっていた。
母:私はやったごどねえ。ヨシコ姉はやったごどある。

博昭:その、これは動物はくわねのか?
母:くわねんねえがな。
父:動物喰うよ。
母:喰うのが?でだばっかしのころ喰うのが?
父:そんねそんね。青いのはなんでも、あの、青草がなくなっと、
これ年中あおいべ。ウサギでもヤマドリでもなんでも喰う。青いもの。ササッパなんど大好きでこれ喰うだ。ヤマドリでもなんでも。こう崖みでえなとこで、雪んどき出てっときは、青葉っぱ無くなっとウサギでもヤマドリでもなんでも喰うだ。
博昭:喰ってっとこ見たことあるの?
父:ヤマドリ喰うから そこをねらって 鉄砲ぶちはあるくだ。崖で すきでべ、そこササとシダとヒロロがていげいあんだ。川ばたは、川のために雪がずずっと落ちて隙間あいてっから、そこをヤマドリを喰うわけ。ヤマドリぶちはそうどこを狙ってそこを歩くだ。
たあだんどごあるったって、いねから、ヤマドリじゅういねえだ。
てえげえ、ヤマドリは沢あるくだ。まったく何にも知らねえだ、、、、、、、

父:こごらには、ヤドリギどって、ホヤじゅうあべえ。ホヤが、ホヤじゅうはそねにあっから。ホヤ喰って水飲むために、沢に降りて水を飲む。
ササとシダとヒロロ喰うんだ。きまってんだ、ヤマドリは。
キジ(雉)じゅうは冬山では、いきでいがんにぇだ。ヨモギの実とか実を食いたがんだ。だがらササッパとかくわねがら雪国は、冬に雪の中でいきでいがんにぇだ。
母:キジ放したってだめだ。

博昭:これ以外に?
父:カサスゲどかユワスゲどか。カサスゲはおらいのあそこにあっただ。いまあっぺがな。杉んどこにあっただ。愛子がいのいっとしりっぽに、広くて、ほうでもねでっかくはなんねが、カサスゲじゅうあったの。
母:ひろいがな。
父:ユワジタにあったの。ユワスゲぶちにあったのはユワスゲんねえが。
母:昔タアネの。
父:おらいの大田の崖のところ。
サケノサのでっくちの下さ行ったら、ユワスゲばあしだ。
母:それは笹巻きまく。ヨシコ姉はほそーいもので。
父:笹巻き?
父:ユワスゲブチじゅうは大田んどこ。あそこ、奈良布の下、ユワスゲがずーっとあんだ。
あそこらの山ってがずーとタアネの田でやったあだ。よぐよぐくっされ田もらったあだ。

博昭:神様に使うか?
父:使わねんねが。シメこしぇえるのは青いまま稲を刈ってやんのはしってんが。

博昭:ネホグシじゅうは、やんねのが?
父:ここらはやんねな。
母:やんねな。
父:-----
母:ミツヨリか?そんじぇねえとこまっこくなんねから。それはやるわや。
それは、うーと、こする、、、、
父:こすり縄んね。別に、名前あんだ。
父:昔は、ワラ仕事やるに、じょーりつくるさ、もとさへえるものは磨きかけて、つるつるにしただ。こういうどこ、ワラふたとこかけて打つ(ぶつ)。しばったがなで、これこしぇーで、それをこしぇえて、
母:学校でなわより競争もあった。
母:ひっちばってな。かあちゃんだちなんの、そーだごどしね。いくひろもこうして、炭焼きんどき。
※父が二階の天井に行き、何か持ってくる。

父:三十年とか、五十年どが、、、こんなもんだな。ほうざらげで、これらはウバヒロロじゅうだ。ひろいがら。ワラで縛っておくだ。オレ取ったではねえ。二束(わ)ある。こんなもんなだ、おらほのヒロロは。
ここらは中のほうは青いどこあるは、、、、ここらは細いものある。
これらはウバヒロロ系統だ。広いのは。
たいしたもんだ。
博昭:写真とっからそのまま置け。
父:わっさしてっこどね。

母:じさま死んで三十三年たってんだが。
父:オレはあんまとった覚えねだ。うっしょの方もヒロロあんだ。サンボダケ出てツチアケビあっとこ。あのうえのほう、いっぺあんだ。にしゃバサマといったどこ。
陽当たりいいから、、、、ヒロロは良い。
博昭:花が咲くだから、種で増えんのが?
父:種でふえっかもしんにぇが、オレはしらねな。
まあ、どこんでもあんだ。ヒロロねえとこねえ。
根はって、ちっとば根はってんでねえだがら。
まあなんだがしらねがこまっけ根いっぺ出て、ずむね、地面に乗っている。
ひっこのぐど、これ、ひっこのべえと思うど、こうだにくっ付いてくる。簡単に抜けねだ。
セツあって、おらいのオヤジだちは「いまのせつんねと、抜けねどか、あど、ぬけなくなるとか、あんま遅くなっとぬけねとか、セツで。彼岸すぎっとぬけねどか、稲刈り前に抜くとかあんだ」
そのころだけだぞ、せてってもらって、抜いた。それだけだオヤジどいっておべえでんのは。

博昭:ハバキは作っながったが?
父:ヒロロで作ったが、ハバキじゅうは、ガバ(蒲)でやって、これで編んだ。
あれはきれいだわいな。サクジイなどはなにやっても上手でやった。
トラジイ様などはよっぽど遅くまでハバキやってだ。

母:いまならスパッツだわや。オノガジイは編むひまなかったから。高いだぞ、ミノじゅうは。オノガジは向こうから買ってた。
父:フクイオヤジがヤスジ、ヤスオンツア。ゲンベどか、ミノ作りしょうべえにやってて、ミノみっつも、よっつも、いつつも作って、シンゴジイが親、あれらなのミノ春先なっとみなのきば(軒端)さずーっとかけてさらしていた。さき雪でちっとさらして、せがら軒端さこうかけて。むこうの方のジサマまみなミノ作りやってで、冬うちにみっつもよっつも作って。
母:アマミノは高い。
父:最後のころはおらいも買っただ。
おらいの菊蔵ジイは本気でやった。おらいのセエオヤジはやんなかったんねがな。
母:やるよなかったべ。手悪いから。
父:おれだちころは合羽じゅうでたから。
向こうは、新しいミノは雨ふっとき、新しくねえのはミノは背負っかた。向こうはホソミノじゅうねがった。
母:にっしゃだち、かあちゃん、オオハラんどき、このくれの合羽こしさまいて、新しくねアマミノだどじき背中ぬれんだ。ひゃっこくなっちまあだ。
父:大岐では、キハッツアン、オンツアジイ、ていげいの人はミノ作ってただ。

父:ヒロロじゅうは、必ず、沢っぱたにあんだ。川まであるわや。ヒロロ。ヤマドリでも青物、ウサギでも何でも喰うのや。ササ、寒中んなっと、オゴンザワ、ウサギぶち行くとソネ際は風でササ出ている。そごさウサギ集まって、木まで喰う。
母:ウサギ喰うものは人間喰われるんねえの。山歩きやんねがら私はわかんね。
父:デゴヤの上のふっつあらしなんのは、雪が無くササが出てる。
あんまり風が強いどこはササ枯れっちまあ。

父:家のまわりに植えたりしねがった?
父:ひでえめあった。水道のホース引くとき。
ヒロロなんのどこんでもある。ヒロロねえどこなんてねえだ。
おらいの植え付けんなかの杉にあっぺ。
いまちっともようと、新芽がでねえだ。古物ばあしで、花終わってから遅く新芽が出て来る。カゴでもなんでも上手な人は細くやって、カツジ兄なんかずっと遅くまでカゴ作ったり、ゲンベ作ったりしてたわ。出稼ぎじゅういがなかったから、あの人は。
カツシロあんにゃは出稼ぎ行ったから。



 我が家がアサの栽培や、からむし(苧麻)の栽培をしていたことから、それがとても身近にあった。そして収集された栽培用具の分類・調査、聞き書きや作業行程の記録を行った。そして、民族文化映像研究所が「からむしと麻」の記録映画の撮影のため三カ年昭和村内の取材や調査に立ち会い、技法の意味を深く考えることがあった。
 植物素材の内皮(靭皮繊維)を利用するのは、刃物を含む道具を必要とし、かつ栽培という行為が伴っている。ところが山林内から採取するヒロロなどは、そのままの縄への加工であり、あるいは簑(ミノ)に編むという加工で、丸ごと利用が基本となっている。栽培という行程を経ない植物は、乾燥させ、丸ごと利用ということで、それは古さを持っているように見える。
野生植物の利用技術として樹皮(サワグルミ、カエデ類、モワダやマタタビ、コクワ、ヤマブドウなど)とともに草(ヒロロ、イワスゲ、ガマなど)の利用、カヤ類(コガヤ、ボーガヤ)があった。

 稲(イネ)の導入により稲藁(いなわら)が生産されることから、多くの生活用具は稲藁の加工品となっているが、古く稲が導入される前には多くの生活用具はヒロロなどのその土地にある植物が山野から採取され利用されてきたものと推察される。もっとも、奥会津の山間地、源流に位置する村々の稲作・米の生産量は低く、言ってみれば「穀物である米の確保よりも、稲藁の確保に重点が置かれた」のではないかと思われる。それだけ稲藁というのは素材としては利用しやすいものであった。

 滝沢秀一著『編布(あんぎん)の発見~織物以前の衣料』(つなん出版、二〇〇五年)は越後(新潟県)で主にイラクサで編む編布について書かれているが、「草そのままを編んで着る習俗は現在でも藁やヒロロ等で作られた民具類には何ほども見られる、とその繊維だけで編んだものがたまたま存在してもよい訳ではないかと、それから私は最も熱心にアミギヌ(編布)の跡を追いはじめた」(六八ページ)
 名古屋大学の渡辺誠先生は『物質文化』二十六号(一九七六年)掲載の論文「スダレ状圧痕の研究」のなかで、アンギンと類似した編み方のスダレ編み圧痕をもつ土器の出土例を全国にわたって四十一カ所をあげ「縄文時代の主要な食糧源として、トチやドングリ等の野生堅果類の比重の高いことを別稿において指摘したが、これに随伴する採取、運搬、乾燥、加工、貯蔵等の各工程において、カゴやムシロ等の編み物の果たす役割は、、、、、きわめて大きい」と述べておられる(二十ページ)。

ヒロロ山ノ口
 奥会津ではどうか?と考えると「どこにでもある」というヒロロは採取制限(山の口開け)は『只見町史民俗編』(一九九三年刊)に「ヒロロ山ノ口」(やまのくち、三十六ページ)の事例があるが、それ以外の会津の市町村史を見ても類例の記載は無く、あまり調査されていない。日常的すぎる草なので調査されない、ということもあったと思われる。通常はヒロロも採取制限(山の口)があり、現在消滅してしまったのか不明であるが、ヒロロは奥会津では、日常的に利用できる草であったようだ。
山の口は、採取制限であり、その植物が充実してから採取する、根絶やしにしないように採取技法を決めている例が多く、また集落で平等に利用できるようにする規約で、トチの実を拾う時期などの制限、カヤ(ススキ)を刈り取る時期の制限などがあった。

 奈良市在住の近畿大名誉教授の野本寛一さん(日本民俗学)の著書、講談社学術文庫から出版されたばかりの『生態と民俗~人と動植物の相渉譜』(二〇〇八年五月十日刊)。一九九四年に青土社より刊行された『共生のフォークロア・民俗の環境思想』を底本として書かれたものです。野本さんには『会津学2号』に桐の原稿を書いていただいたり、会津で講演をお願いしたり、調査(フィールドワーク)に同行したりしました。この『生態と民俗』には野本さんが会津各地の古老から聞いたことも多く書かれている。
 二九九ページから「口あけの民俗」という章で「山の口の実際」として只見町倉谷の草、クルミの実、ヨシ、マタタビ蔓、カヤ(薄)の事例を紹介している。また、
 「山の口」という慣行は全国に見られるものであるが、これを裏から見れば「止め山」となる。「止め山」の期間が一年であれば、「山の口」と呼応して一定のサイクルを形成することになる。それは自然の摂理・循環を基盤としたものであり、環境適応・環境利用の一つの重要な形態だと言えよう、、、、としている。
また「伐り旬と刈り旬」(二九三ページ)で、
 旬は、食の民俗に限るものではなかった。かつて、日本人、わけても山を暮らしの場としてきた人びとは、さまざまな樹木や樹皮を建材・民具素材・衣料などとして利用してきた。それは縄文以来の伝統であり、長いあいだの「伐り旬」と「刈り旬」に関する体験の集積が民俗知識となって伝承されてきたのであった、、、、
 これは、ウバヒロロは六月に抜き取り、ホンヒロロは九月上旬に抜き取るという旬の意味もあり、その時期のその植物を利用すれば抜き取り作業が容易であること、その植物が利用場面で充実した繊維として長く利用できること、そして乾燥させても色が美しいこと、作業中に切れにくいなど、、、の意味を持つ。

 地域の歴史の編纂史書には「蓑(ミノ)」は写真が掲載され、手仕事の特別な意味を持っていたと感じる。たとえばそれは『檜枝岐村史』(一九六九年)の巻頭の写真に掲載されているものを見ると感じることができる。用を保持しつつ美しさを持つのである。
 雪のある冬の季節のミノの着用や、狩猟や野宿の時のミノの利用など、野外でのミノの位置づけは重要であった。ミノの外周部には、ヒロロの広い葉をそのまま活かし、雨や雪を受け流すような構造に編み込む、という工夫は美しいものである。しかし美しいものを作れる人は多くはなかったことが以下の資料に紹介されている。


会津でのスゲ類の利用
 昭和四十六年に刊行された『奥会津南郷の民俗』は会津民俗研究会(山口弥一郎代表)により編まれた本で、本項の執筆者、会津民俗館創設者の渡部圣氏は以下のように報告している。スゲ類について、刊行されている図書のなかではいちばん詳しく書かれており、会津盆地はその地域に自生する多様な植物を使用し、一方山国である奥会津・南会津一帯はヒロロが多用されていることを指摘している。
 
 ミノ この地方の外套類はおもにミノである。会津の平坦部では材質の種類も非常に多くシナ・フジ・ヤマブドウ・オオカ(エエズク)・イネワラ・麻・ヒロロ・イワスゲ・ガバ・ミゴなど多種を用い、作り方も各集落また古い村、地域的に南と北などで大きく差が見られる。岩手県特産と思っていたケラなども会津若松市東山・湯の入集落で採集したこともあったが、奥会津のこの地方の材料はほとんどヒロロに限られていて、雨ミノなどはまったく形は変わらない。

 ショイミノ 背負いミノも首部はU形に一定していて編み方も四本通りの通し編みのなかに、背の途中まで三本くらいの中編みがあるくらいで、まれに編符(あみふ)が麻やシナ皮の場合とがあるが、ほとんどその違いはない。古布や模様を配したものはないが、古くは会津平坦部(会津盆地)の背負いミノに似た半ミノ(雨の日に荷を背負うミノ)・源次郎ミノ(猪苗代)・バンドリ(耶麻地方)・イカミノ(会津若松市門田地区)などに似て、編符の空間がなくびっしりと麻、シナなどで編み込んだものが使用された。
 いまはその形を残していない。この地方では背負いミノをネコミノとよんでいるが、これにはふたつの作り方がある。そのひとつは雨ミノの上に縄を縦としてそれを三寸くらいおきに編符でとめ、すだれ状に作り雨ミノで荷を背負うときだけ取り付け、ふだんは取っておく方法で、実にめずらしい着装方法である。
 もうひとつの方法ははじめから表に出る方は編符で全部分を編みこみ、そのなかに黒い布で家印、年号、鶴亀などを編みこみ芸術的なできばえのものがある。しかしこれらは一般的ではなく、村中に二人か三人くらいしか作れる人がいなかった、という。
 会津平坦部との違いは、肩の部分の先を切ることがなく、雨ミノと同じくのばしておく方法である。雨ミノもネコミノも背にあたる内側は会津平坦部より細かく通しざししてある。それにはヒロロが短いことと先が弱いためであろう。
 その他、胴ミノ・腰ミノ・日よけミノなどはまれであり、シリアテは多いがいずれも材料はヒロロである。

おわりに
 ヒロロに光をあてたのは二十数年前から生活工芸運動を行ってきた間方地区の人びとなど、三島町の人びとである。この奥会津の沢筋に自生している草と人びとの交渉史は、雨蓑の消滅とともに見えないものとなってしまったであろう。運動開始時に長野県生まれの西牧研治さんが、研究員として昭和五十八年から八年間、ヒロロなどの基本調査を行っていたのを、当時友好があったなかで私は見聞きしていた。彼は『生活工芸村便り』にそうしたヒロロの調査結果や三島町の人びとの持つ手技を記しており、時折それをいただき読んだ。地域に暮らす人びとから、自然と人間、山と人間の関わり方について、教わることが多いのはいまも同じだ。
 会津に縁のある花を飾る金藤公夫さんに乾かしたヒロロを渡したところ、知人の首都圏の花屋さんを訪ねてはヒロロ綯いを教えたようで、その感想が寄せられた。
「まず素の状態で見せました。皆さん不思議そうな顔をして手に取って香りを嗅いで、私の顔を覗き込みます」
 世田谷区のパフュームという花屋さんは次のようにブログ(ウェブサイト、ホームページ)にそのときのことを書いている。

 この寒菅(カンスゲ)
 いいニオイがするんです
 イグサのような収穫後の稲穂のような
 懐かしい心の休まるいい匂いです
 こんなニオイの中で眠れたら最高だと、、、、

 昭和村で、ヒロロで作ったミノ(蓑)のことの聞き書きで、野良で、ふかふかのミノの上に寝る、ということが書かれている。この報告書の内容は後半にも梨の木にミノを掛けるなど、風景が浮かぶ、すぐれた聞き書きです。
「畑に出た時、昼休みにミノを敷いて、カサを頭にかぶせて昼寝をするのがなんともきもちのいいものだった」という

 以下、本稿を書くにあたって、てもとに所持している会津地方の郷土誌等書籍でのヒロロの記載分を紹介して終わりたい。


<ヒロロの資料> 
■博士山ブナ林を守る会編『ブナの森とイヌワシの空~会津・博士山の自然誌』(はる書房、一九九五年)にヒロロ(ミヤマカンスゲ)を食草とする蝶・ベニヒカゲの記述がある。
 また会津生物同好会の大須賀昭雄氏による博士山麓(柳津町・昭和村)の植生調査結果では、ヒロロ(ミヤマカンスゲ)の様子を見てみる。場所により草本層の優占種となっている場所がある(③)。〔〕内の数字は植被率、(・)内上側は被度、下側が群度である。
①ブナ・トチノキ林(柳津町大成沢から登山道の水場付近・標高七五〇メートル)
 草本層〔六〇%〕優占種・リョウメンシダ(四・四)、ミヤマカンスゲ(二・三)、以下略
②ブナ・アカイタヤ林(柳津町大成沢より登山道の水場付近・標高七五〇メートル)
 草本層〔七〇%〕優占種・ハイイヌガヤ(五・五)、ミヤマカンスゲ(三・四)、以下略
③ブナ・ヒノキアスナロ林(柳津町大成沢登山口より尾根・標高八六〇メートル)
 草本層〔五〇%〕優占種・ミヤマカンスゲ(三・三)〇.六メートル。
⑥ブナ・チシマザサ林(昭和村博士峠登山口より上の尾根・標高一一一二メートル)
 草本層〔三〇%〕優占種・オオカメノキ(三・三)、ミヤマカンスゲ(+)は少数で被度一%以下。


■ヒロロには、ホンヒロロ(ミヤマカンスゲ)とウバヒロロ(オクノカンスゲ)があります。ホンヒロロは二百十日(九月一日)頃から、ウバヒロロは6月末ぐらいから採取します。採取時期が早いと材料の丈が短く強度も劣ります。また、遅いと材料が硬くなり使いづらくなります。
 ホンヒロロ、ウバヒロロ共に水はけが良く、半日陰の土地に群生します。日当たりの条件によって材質が左右されます。
 山の恵みを絶やさないための知恵。ヒロロは宿根の多年草。採る時は、根まで抜いてしまわないように、足でヒロロの根元をしっかり踏んでから引きます。葉の小さなものは残して、大きなものを抜きます。
電子情報:奥会津三島編組品振興協議会ホームページより
http://www.okuaizu-amikumi.jp/material/index03.html 最終閲覧日:二〇〇八年六月十日


■山口弥一郎著『東北民俗誌会津編』(一九五五年)は、只見村田子倉民俗誌の項に、「ヒロロミノをつけた野良の後ろ姿」という写真を掲載し(八六ページ)、「ヒロロという山草をぬきとっておいて冬にあんだもの。雨の日も、雪の日もこれをまとうて山や野で働く。 野良仕事の際のスゲ笠は山仕事の関係か少し小型で新潟県の小出方面から移入する。しかしミノだけは野生のヒロロで自製したヒロロミノをつけている(一三一ページ)。

■昭和四十八(一九七三)年に出版された三島町の『大石田の民俗』では男ヒロロ、女ヒロロと呼んでいて、ミノを作るのは女ヒロロであり、八月の盆すぎに採集しよく乾かし冬仕事に使う、と記載されている。

■南会津郡の『田島町史』第四巻・民俗編(一九七七年)の百二十三ページに、軒端でのヒロロ乾燥の写真が掲載されている。

■福島県立博物館と鹿児島県歴史資料センター黎明館による『樹と竹~列島の文化、北から南から』(二〇〇七年)の六七ページに福島県立博物館蔵の檜枝岐村の「つけ蓑」が掲載されている。狩猟等山仕事に着用。山ブドウ・ヒロロ(ミヤマカンスゲ)製。五〇×七九センチメートル。
 樹皮製民具の集成である本書には、佐々木長生さんによるモワダ(シナノキ)、シナッカワの糸について詳細な記載がある。

■『只見町史民俗編』(一九九三年刊)福島県南会津郡只見町では、ヒロロは「さまざまの精巧な細工物に用いる。細縄をなう。ミノ草としてミノを作る」とし「ヒロロ山ノ口」があることを記述している。塩沢・長浜・小川・楢戸・只見・叶津・入叶津・蒲生の町内九集落でヒロロ山ノ口があり、特に塩沢では秋彼岸頃であったという(『只見町史民俗編』三十六ページ)。
 また町史編さん委員会『図説 会津只見の民具』(一九九三年改訂版)でヒロロを原料として作られた生活用具を見てみると、
 衣類:かぶりもの:「アミガサ(編笠)」直径四二cm 山仕事の日除けやイバラ除けにかぶる。黒谷から一点・不明地から二点が収集されている。材質はヒロロである。
 衣類:蓑(みの):「ケミノ(毛蓑)」丈一一〇cm 幅五五cm 雨・雪除けと軽い荷を背負うのに使用する。梁取二点、不明二点。「ミノ」として小林一点、福井一点。材質はヒロロ。
 農耕用具:耕作:「マエカケミノ(前掛け蓑)」丈五五cm、幅六〇cm。ヒドロタ(稗泥田)の田ごしらえ時に、泥除けとして着用する。採取地不明一点がヒロロ・シナ皮。大倉一点、梁取二点は材質がヒロロ。
 山樵用具:その他:「シリシキ(尻敷)」ノコギリで伐採するときの尻あてにする。材質はヒロロ。黒谷一点。
 交通・運搬用具:背負い蓑:「ネコミノ(ネコ蓑)」雨蓑と背負い蓑との兼用で、家印や縁起のよい文様を布で織り込む。材質ヒロロ。丈一〇三cm、幅五〇cm。計七点。亀岡二点、梁取二点、十島一点、不明二点。
 手工用具:藁加工用具:「ヒロロスグリ(ヒロロ選り)」

■前掲書をさらに拡充しまとめた、国指定重要民俗文化財『会津只見の生産用具仕事着コレクション』(福島県只見町教育委員会、二〇〇五年)では、佐々木長生氏が次のように解説している。
 自然木の又・棒・根曲がり部分、シナノキ(オオバボダイジュ)・クルミ(オニグルミ)の樹皮、ヒロロ(ミヤマカンスゲ)・ガバ(ガマ)の草本類など只見町の懐深い自然に自生している天然素材を巧みに利用して手作りされたものが多い。また豪雪地帯のため竹が自生できず、その代わりにマタタビやヤマブドウの蔓を利用したものが多数みられるのも特色である。
 コシカゴ(腰籠):ワラやヒロロ(ミヤマカンスゲ)で袋状に編んだカゴを、ひもで腰に結び付けて、採取したゼンマイを入れる。縦四〇センチ、横六〇センチほどの大きさが一般的である。
 ショイカゴ(背負籠):採取したゼンマイが、コシカゴにいっぱいになると、ショイカゴという大きなカゴにつめかえる。そして、空になったコシカゴをつけて再び採取に歩く。ショイカゴは縦六〇センチ、横九〇センチくらいあり、ワラやヒロロなどで袋状に編み込んだもので、これをニナワ(荷縄)で背負って運ぶ。
 マエカケミノ(前掛け蓑):湿田では、泥除けのため鍬にテズラをつけるほか、マエカケミノというミノをつける。これはヒロロで作られていて、ひざ上から腹をおおうものである。
 アミガサ(編笠):仕事中の日除けにかぶる笠。ヒロロやクグを材料とし、アンブ(編符)はシナッカワ(オオバボダイジュの靱皮)で編む。田の草取りやクリ拾い、キノコ採りなどの山歩きにかぶる。山では柴木や蔓にひっかかりにくくかぶりやすかった。スゲ笠よりも丈夫であり、幅もせまいので重宝された。
 ミノ(蓑):雨や雪を防ぐために着用するが、そのほかにも物を背負うときの背当て、休むときの敷物など用途は多様だった。ヒロロで編むが、背当ての部分にはシナッカワや布を織り込んだりする。ミノクビ・アマブタ・背中の順に編んでいく。ミノ作りは冬の男の仕事で、一着作るのに三日ほどかかった。ヒロロは秋彼岸ころ、山から採取しておき、陰干しにして冬まで天井に保管しておき、冬になって湿らして編み込む。完成したら、春の雪上でさらすか、雪解け水に一週間か十日ぐらい浸し、よく乾燥させてから使用する。さらさないと、入梅のころカビが生え、長持ちしないという。

■『下郷町史民俗編』(一九八二年)の二二二ページには「エジコ」として、
 現代風にいえばナップザックである。弁当入れ、鉈・鋸入れ、山菜採りなどにも使われ、なくてはならない運搬具である。わが町だけでも名称はいろいろある。野際新田ではイチコ、枝松ではコシゴ、白岩ではショイコという。袋の上部に網の部分があり、鋸や鉈を入れやすくしたものを特に炭焼きコシゴと枝松では呼んでいる。材料はヒロロ(菅の一種)やイワシバで、これを細くなって編んでいる(七六一ページに写真が掲載されている)。

■『会津舘岩村民俗誌』(一九七四年)は石川純一郎著・舘岩村教育委員会発行で、一〇八ページに手工として「アマミノ:山中の湿地に生えているヒロロ草を抜いて来て軒下で乾かし、背をすっぽり覆うように葉先を脇に出して編む。雨具である」とある。
 被り物として「蓑」。ヒロロで編んだ蓑は寒さや雨を防ぐにはもってこいである。狩猟や伐採などには細い麻紐でもって網を作り、結び目にヒロロを結わえ付け編んだツケミノがもってこいである。伸縮自在なために、行動し易く、野宿などの際は前をかき合わせ、体をすっぽり包むことが出来る。隣村の檜枝岐村ではシカリミノといい、広く利用されている。肩に掛かるアマブタの部分を野葡萄の蔓を剥いだ皮でもって作る。これが二の腕をも覆って袖のような役割もする。

■会津西部の耶麻郡山都町(現在は喜多方市)の『山都町史民俗編』(一九八六年)は、八一六ページに「草類の民具」として、
 山都町で草類で最も民具に使用されているものは、ヒロロであろう。ヒロロは、山の湿ったところに生えており、主に蓑を作る。土用すぎると抜けなくなるので土用前に抜き取る。山から採ってきたヒロロは、青いままで保存するのがコツであり、陰干しにして乾燥させる。
 蓑作りは主に冬に行い、霧ふきをしながら作る。できたら雪を上げてさらすと青みがとれ白くなる。また編み布がしまり丈夫になる。猟師たちが作りかぶる「ミノブシ(蓑帽子)」と呼ばれるかぶり物も、雪がつかなくてよいのでヒロロで作る。
 イワスゲは、女性用の荷背負い蓑を作るのに用いる。また、ハバキの材料とすることもあり、莚(ムシロ)に織るのに用いる。土用過ぎ頃にとる。
 蓑を作るのにフジクロという草を用いる。夏の土用前に抜き取る。ヒロロに似た草で、生の時は葉が広いが、干すと細くなる。
 ガバは主にハバキ(すねあて)を編むのに使用する。
 古くは衣料として用いられたイラの皮(イラソ)は、蓑の編み布や下駄のはな緒に使った。これは十月末から十一月はじめ頃に採る。霜にあたらないと弱いという。モワダ(シナノキ)は水に弱いが、イラソは水に強いので、オソフキの先をよったりするのにも用いられた。

■『昭和村の歴史』(一九七三年)は、「昭和の民俗」は安藤紫香さんの執筆で、一七九ページに、次のようにある。
 雨具及び防寒衣としてもちいられた蓑(みの)も、晴れた時着る農作業用の蓑も、夏の土用にヒロロを刈り取って陰干しにしておき、自製したものである。


■『福島県昭和村 からむしを育む民具たち ~聞き取り調査と実測図集』(からむし工芸博物館編、二〇〇七年)は、羽染桂子さん、日置睦さん、朝倉奈保子さんにより聞き取り調査がなされ、朝倉さんが執筆した。実測図は羽染桂子さん、熊川牧子さん、羽染文子さん、朝倉さんが担当した。
 ヒロロで製作されたカゴとミノが掲載されている。
 ヒロロ、ヤマブドウの樹皮、アサ、黒色の木綿布で化粧(アクセント)を付けている。
 ミノについての記載を紹介する。
 日除けや雨の日、物を背負う時などに着る。材料は長持ちするヒロロ。通常のミノは袖までついている。一カケ(ひとかけ)、もしくは一チョウ(いっちょう)と数える。ミノ作りは農閑期の仕事でちょうど「カタユキ」(春近くになって積もった雪が固くなり、歩いてもぬからなくなった雪のこと。三月頃から)になった頃、できたミノを雪の上に広げ、その上に雪をのせたり、池などに浸したりもした。編んだものを雪水に通すとゆるみがでて、弾力が生まれ、軽くなると同時に丈夫になり、ぼろぼろとくずが出にくくなる。水につけると色がよくなるとも言われている。昔は、池に浸したミノを、家の梨の木によく乾かしていた光景が見られた。梨の木は火事を防ぐと言われていたため、どこの家でも二、三本植わっていた。畑に出た時、昼休みにミノを敷いて、カサを頭にかぶせて昼寝をするのがなんともきもちのいいものだったという。ミノに代わって今はカッパを着るようになったが、現在でも暑い時はミノの方が便利だという人は少なくない。

■奥会津書房『森に育まれた手仕事』(一九九九年)には四二ページからモワダ(シナノキ)・ヒロロ・ガマ細工について掲載されている。三島町入間方の久保田節子さんは、昔のものをほどいて編み方の基本を覚えた、という。
 ヒロロは九月のはじめに抜く。二百十日頃までには抜き終わる。「ヒロロを抜くときは、根元を足で押さえて抜がんなんねえだよ。根がゆるんでしまうと、もう次の年には出なくなってしまうがらな」。抜いたヒロロを雨に当てないように、風通しのよいところに干す。雨に当てると黒くなってしまう。緑の色が残ったヒロロを水で湿らせながら、縄よりをして使う。
 モワダは、六月に切る。山で皮を剥いで中の芯を取り除き、皮の部分だけを下ろす。それを二十日間くらい水につけておく。中の皮を腐らせるためだ。
「水さ浸けだがらいいでなくて、しょっちゅう見でんなんねえのよ。腐ってくっと皮がムクムクむいでもらいでえと、浮き上がってくっからよ。それを逃すと、皮がペトペトになっからな」
 一回に二、三枚重なってむける。一回むくとまた浸ける。三回から四回むける。編むときは、細く裂いて使う。ヒロロとモワダできっちりと編んであるバッグは、手触りがやさしく、持ちやすい。

■南郷村史編さん委員会『南郷村史 民俗編』(一九九八年)の一〇七ページ。
 雨蓑 雨や雪の時の労働・歩行には、ヒロロ(ミヤマカンスゲ)製の雨蓑が使われてきた。現在でも農作業・除雪作業など菅笠をかぶり、雨蓑を着ている姿を目にすることができる。雨蓑を現在でも着用しているのは、南会津郡地方であろう。ゴム合羽は雨にはぬれないが、内部から蒸して汗でぬれたような状態となる。そうした利点から、現在でも冬になるとヒロロで蓑を作る人がいるようである。

■金山町教育委員会編・加藤文弥執筆『金山の民俗』(一九八五年)の一四二ページ。菅笠はスゲで作るので菅笠というが、編笠はヒロロを材料とする。笠布団を用いず、緒と紐で顎の下に結んで被る。被ったところを前後から見れば切妻形の屋根に似ている。軽くてかぶりよいが、大雨の場合は不適当である。雨天の場合の作業にはミノが必需品である。材料はヒロロであるが、雨天用のものと荷を背負う専用のものと二種類ある。雨天用のものは、雨除けと背負い用の両方に使用できるし、冬は防寒用を兼ねることも出来る。


■赤羽正春編『ブナ林の民俗』(高志書院、一九九九年)に佐々木長生さんが「会津地方の樹皮製民具」に書いている。 
ブドウカワによる制作例として、三七ページに福島県南会津郡檜枝岐村の「ツケミノ」(ヒロロ製、肩部ブドウカワ)の写真が掲載されている。
 ヤマブドウの皮は、一般にはブドウカワとよぶが、舘岩村ではサラモカワともいう。製作する物により、樹皮を採取する時期が違う。ブドウカワの上皮はいつでもはげるが、ナツカワ(中皮)は夏の土用ごろにはぐ。
 ブドウカワは細くはいだものを裂いて、これを蓑に編んだり、ハバキに編むほか、背負い袋類・籠類を作ったり、束ねてタワシにしたりする。また、裂いたものを縄になったりするなど、山村ではシナカワ同様の必需品であった。
 ブドウカワは乾燥にも濡れにも強く、また堅く丈夫なためにさまざまな用途に用いられてきた。(略)ブドウカワのハバキは山仕事に用い、藁製の柔らかいものは田起こしなどの野良仕事に使用する。

■会津の北部山岳を越えたところにある新潟県朝日村三面のことを記録した『山に生かされた日々~新潟県朝日村奥三面の生活誌』(刊行委員会、一九八四年)には、
 ヒヨリ(ヒノリともいう。ミヤマカンスゲ・カンスゲ)でミノを作る、とある。「ミノもひと冬に二つ編むね。ミノは、ワラミノと荷かつぐどき掛ける大きいやつ、カケミノね、それ二つあんどぐね。それと荷物かつぐとき背中にあてるやつ、あれもワラだね。セナグチなんて言うども。ミノはヒヨリ(ヒノリともいう)をひねるようにして編んだヒノリミノなんていうのもあったね。今でもミノは山行ぐどきは便利で、使っているね」(一四三ページ)

■ヒロロは栽培されていなかったのか?といえば、新潟県柏崎市高柳町石黒の様子を伝えるウェブサイトを見ると「昔は家の周囲にヒロロを植えていた」と書かれている。
「ヒロロは水をはじき軽く丈夫で箕の優れた用材であった。そのためどこの家でも田の畔(くろ)や家の周りの半日陰地に移植して育てていた。今日でも、家屋敷の周りでよくミヤマカンスゲを見かけるのはそのためである。」
http://www.geocities.jp/kounit/saizikidousyokubutu/yasou/miyamakansuge/miyamakansuge.html
電子情報最終閲覧日二〇〇八年六月十日

■ミヤマカンスゲには走出枝が無いとされてきたが、近年、富山県ブナオ峠や福井県の敦賀以東、白山山麓に走出枝を伴うものが確認され、また新潟県や長野県北部では走出枝を出さず根茎がやや長く地下をはうものがあるなど、細部の分類が話題となっている。

■谷城勝弘『カヤツリグサ科入門図鑑』(全国農村教育協会、二〇〇七年)を参考にした。

■斎藤慧『スゲ類の世界~福島県に自生するスゲ類』(歴史春秋社、二〇〇一年)によれば、スゲ属はカヤツリグサ科の八〇属中のひとつだが、最も種の数が多く世界中に約二千種、日本だけでも二百種以上知られ、福島県内に百三十種ほどが確認されている。
 スゲ類は形態的・生態的に多様に分化して生態的なすみわけがはっきり決まっている。イネ科やキク科の多くの種類が雑草化しているが、スゲ類には雑草化しているものはひとつもない。
 ミヤマカンスゲの方言名はヒロロ(只見その他ヒロラ)といわれ、最も抜けやすい九月中旬頃によく繁茂したものが、里山などで採集された。
 他種のスゲでオクノカンスゲ(ホソバカンスゲもふくむ)も三島町ではウバヒロロ、山都町ではフジゴロウといって蓑などの材料にされた。
 雨蓑にはミヤマカンスゲを使うのが普通だが、他にショウジョウスゲなどを使用。これは水を吸収しないためで、背負蓑には稲藁でも作られた。他にマコモ(カーツギ)、ガマ・ヒメガマ、またミチシバといわれている、農道などによく繁茂しているイネ科のカゼクやチカラシバなども使用された。


■ミヤマカンスゲには走出枝が無いとされてきたが、近年、富山県ブナオ峠や福井県の敦賀以東、白山山麓に走出枝を伴うものが確認され、また新潟県や長野県北部では走出枝を出さず根茎がやや長く地下をはうものがあるなど、細部の分類が話題となっている。



■織田二郎・永益英敏「ミヤマカンスゲ(カヤツリグサ科)の有花茎の着く位置」(日本植物分類学会誌七(二)、二〇〇七年)の抄録

■近縁のオクノカンスゲ(C. folissima F. Schmidt)は全体によく似ているが、新芽の時に鞘が長く、黒褐色に発色するのが特徴である。形態に変異が多く、いくつかの変種が報告されているが、詳細については意見が分かれる。
 ミヤマカンスゲ(C. dolichostachya Ohwi)も変異の多い種である。雌小穂がはるかに細く見えるのが特徴である。その他の主な特徴はカンスゲと共通する部分が多いが、地方によってさまざまな変異が見られる。カンスゲに似た姿をしたものもあるが、葉の幅が広く、柔らかい感じのものは、全く違った姿に見えるものもある。匍匐茎がないのが普通ながら、出るものもある。さまざまな変種が記載されており、現在も地方変異を分ける試みが提案されているが、定まった説はない。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』カンスゲより


■郷土植物
 カヤツリグサ科のスゲ属植物は世界に約二二〇〇種あり、我が国には二五〇種あまりあり様々な環境に生育している。叢生型の草型をもつ多年草である。
 二〇〇七年の信州大学農学部AFC報告第五号には荒瀬輝夫と内田泰三が「切土のり面に植栽されたスゲ属5種の生長特性」でミヤマカンスゲの緑化利用について調査・提言している。
 その地域に自生する草本類や木本類の郷土種を緑化に導入することが重視されてきているが野生植物であるため発芽や生長が不均一で扱いにくく、増殖法も未知であることが多い。そこで緑化対象地域周辺の野生植物のなかからスゲ属植物を選び、信州大学農学部構内の緑化試験地で陸生スゲ類五種で植栽実験を行っている。
 ミヤマカンスゲのほか、コジュズスゲ、タガネソウ、ヒゴクサ、アズマナルコが使われた。野生植物は不均一な環境に合わせて生長を変化させる可塑性が高いので、その環境に合わせて分げつや匐枝の生長を変化させる性質は好ましいとしている。

■糞(ふん)のDNA鑑定
 DNA鑑定を利用した野生動物調査法が開発されている。(財)電力中央研究所環境科学研究所生物環境領域主任研究員の松木吏弓らが開発したもので、食べた餌の残渣(糞)から植物のDNAを抽出し、食べた餌植物の特定をした(電中研ニュース四四一号、二〇〇七年三月)。それによれば、
 調査地に生息している七〇〇種以上の植物からDNAのデータベースを構築。このデータベースと糞から検出したDNAを照合することで、餌植物を種レベルで特定した。秋田県駒ヶ岳山麓のブナ自然林から三月に採取したヤマドリの糞から、ハナイカダ、ツルアジサイ、ミヤマカンスゲ、アキタブキ、オオカメノキの順の比率だった。また糞からその動物種や個体識別も可能としている。糞にわずかに含まれる腸の内壁細胞のDNAを検出するためには傷みが少なく保存状態の良い積雪期に行うことで検出率を高くしている。それと足跡の調査の組み合わせでノウサギについては個体数まで明確にした。
 ヒトの犯罪捜査や親子判定などのDNA鑑定に利用されているマイクロサテライトDNA配列を使用している(松木ら「糞のDNA解析によるノウサギの生息密度の推定」ほ乳類科学44(1)、二〇〇四年)。


■福島県三島町は、生活工芸運動の活動を通して、この古くから生活に根ざして利用してきた自生する土着植物のヒロロの重要性を認識していた。そして継承する大きな役割を果たしている。
 これは、千葉大学の宮崎清さんが昭和五十六年に伝統工芸調査のために訪れた福島県三島町で、野山の材料と伝統の技による生活用具作りを継承・発展させる「生活工芸運動」を提唱。その調査に同行していた西牧研治さんが、研究員として昭和五十八年から八年間、ヒロロなどの基本調査を行った(『広報みしま』平成十九年九月号)。
 平成十五年には、三島町の農民工芸はヒロロを含め「奥会津編み組細工」として国の伝統的工芸品に指定される。
 指定に際して行われた調査等の内容の一部が福島県のウェブサイト、商工労働部の地域経済領域の地場産業に掲載・公表されている。ヒロロの項目を引用し紹介する。


※なお、日本政府の東北経済産業局http://www.tohoku.meti.go.jp/cyusyo/densan-ver3/html/item/fukusima_04b.htm
にも同じ内容で掲載・公開されている。

■福島県三島町では、雪解け時の毎年三月に工芸品展が開催されている。多くの人を集めている。
 また、毎年六月に、三島町は名入の生活工芸館前の広場で、「ふるさと会津工人まつり」を実施している。今年(二〇〇八年)は二十二回目となる。
全国から出展者は百五十小間ほどあり、地元三島町から二十三、昭和村から四であった。ヒロロ、ヒロロ細工、ミノなどは生活工芸館の展示・即売があり、素材としてのヒロロ縄を売っているのは会津地方の出展者(昭和村、三島町等)であった。初日の六月七日(土曜)の来場客はこれまでにない人数であったといい、私がたずねた八日(日曜)も開始時間の九時には生活工芸館前、国道沿い等の駐車場は満車であり、西方の旧小学校跡校庭の駐車場からシャトルバスが往復していた。
 2008年6月8日脱稿