2008年5月19日月曜日

アサのなかごぶち

■1982(昭和57)年9月17日に祖母・菅家トシ(明治42年生まれ)からアサ挽きの作業中に聞いた話。当時23歳。

■アサの外皮のことを「アサクソ(麻糞)」というが、大岐では「なかご」と言った。ゴウ(郷、野尻郷、昭和村本村の野尻川流域のことをゴウのほう、と言う。大岐は滝谷川上流域で西山地区に近く小文化圏が異なる)のほうでは、カラムシやアサの挽き具を「かなご(金具、金子)」と呼ぶが、大岐では「ひきご(挽子、挽具)」という。カラムシ挽きは水を付けて挽くが、アサはつけない。大きな舟状の「ヲ(麻、苧麻、お)ひきばん」(麻挽き盤)、桧製のヲひきいた(麻挽き板)」を2枚重ね、アサ挽きはブッタテを1本。カラムシは2本。

 <なかごぶち>

 アサのなかごを洗ってぶち(打ち)、洗ってぶって売った。

 つけば(浸け場、アサは乾燥したものを水で戻してから挽く)さ行ってくっと、なかごぶちじゅうした。ごく昔は、それが糸になった。そっから糸を、取ったあだと。ヲ(アサ)を挽いてでたくずの、なかごは、家の前の川(滝谷川、近世は六沢川、あるいは中の川と呼ばれる)の水で洗って、水面からでている石の上でモミブチボウ(籾打ち棒)で打(ぶ)った。ぶって洗い、ぶって洗いした。この石は「ひらっけ ずない いし」(平らな大きい石)だ。

 それを、家ののきば(軒場、軒下)さ、掛けて乾かして、しまって(保管して)おいて、売った。なかご買い(商人)は、アサを買いに来る人とは違い、なかご買い専門の人がいた。

 昔は、ちっとばあ ヲ(アサ)作ったで あいやしめえ。百も二百も三百も。

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※茎のことを「なかご」と呼ぶ場合がある。皮の内側を利用し、外側は金属製の金具でこそぎおとす。利用しない部分の外皮を利用して、石で叩いて(砧、きぬた)乾燥させて売った、という。

 アサの茎の内側のずいの部分はアサガラ(殻)で、乾燥させ屋根葺き材とした。いまでも花の卸市場で盆に「麻柄」として売られている。

■1982(昭和57)年は、22歳で就農し家業の葉タバコ栽培に従事、時折農閑期に栃木県の設備屋(水道工事)に出稼ぎに行く。時間を作り、遺跡の発掘調査に従事する、という生活。この年の3月20日から11月5日まで(3/23、6/5、6/28、7/14、7/15、8/21、11/5)廃校となっていた大芦小学校に集められていた民具を分類し、からむし生産用具の文化財指定のための写真撮影(モノクロ)をした。その際、村の古老にからむしやアサの栽培・生産・織りに使う道具や所作の聞き取りを並行して行っていた。特に大芦の皆川伝三郎氏には3月15日、23日、6月4日、9月9日、10月14日と聞いた。10月14日には「ソナ(sona)は、大芦にはよくいた。巣を取りに行った。今は動物の飼いてはいなくなったなあ」と語ったことが印象に残っている。そな(ソナ)とは、カワセミ(渓流で魚を捕る鳥類)のことをいう。大型のヤマセミ、南方から渡ってくるアカショウビンも仲間だ。

 7月15日、南会津郡南郷村の南郷村開発センターに同村文化財保護審議会委員長の安藤紫香先生を訪ね、先にアサの民具で指定を受けているので助言を受けた。呼び名、地方名を残すことを教示された。南郷村教育委員会は昭和55年3月末に「奥会津の麻織用具と麻製品250点」が福島県重要有形民俗文化財指定を受けている。

 7月30、31日 新潟県岩船郡朝日村三面(みおもて)でセミナーがあり参加。姫田忠義さん、佐々木高明さん、坪井洋文さんらに会う。

 9月9日、大芦集落に五十嵐辰雄さん宅のコノばあ(婆)を伝三郎氏と栗城英夫君と訪ね、話を聞き機織り道具一式を受け取った。17日に我が家で作業がはじまったアサ挽きの話を聞いたのだった。英夫君の父・甚英さんが民具カードを作成している。

 9月27日から10月29日まで金山町の縄文時代中期の遺跡・石神平の第1次発掘調査に参加。冬期間はその出土遺物の整理作業に従事。

 1983(昭和58)年2月21日から3月5日まで奈良国立文化財研究所埋蔵文化財センターの埋蔵文化財発掘技術者専門研修・遺跡保存整備課程という研修に参加した。通常、市町村の教育委員会の担当者が参加するもので、昭和村教委の推薦により個人の資格で参加した。

 9月10日、会津高田町松坂、通称・谷ヶ地(やかぢ)集落の離村式。博士峠の麓の村がダム建設のために移転した。10月3日から25日まで第2次石神平遺跡発掘に参加。縄文時代中期の埋甕二個と石敷炉をもつ「複式炉」住居跡1棟が検出される。沼沢火山の火口湖脇の遺跡。縄文時代前期末の紀元前三四〇〇年頃(いまから5400年前頃)に爆発している。その後、中期から人々の痕跡を残すようになる。

 1984(昭和59)年3月25日に福島県の重要有形民俗文化財「昭和村のからむし生産用具とその製品371点」として指定を受ける。3年間の仕事が一区切りとなった。

 12月13日、新潟県三面訪問。はる書房の古川弘典さんと会う。12月は南郷村教育委員会の南郷村史編纂の石器の実測・トレース図の作成をする。

 1985(昭和60)年12月7日、東京新宿の民族文化映像研究所を訪問。

 1986年4月から民族文化映像研究所の姫田忠義さんらが「からむしと麻」の撮影で来村がはじまる。そこからの流れは『福島県昭和村におけるからむし生産の記録と研究~からむしを通してみた植物と人間の共生」(昭和村生活文化研究会編、発行、1990年3月)の巻末に1990年までを詳述した。