■台湾訪問記録 一
「加藤清之助」
二〇一八年二月六日、台湾標準時間二三時五〇分、台湾東部の花連県近海を震源として大きな地震が発生した。日本国内のテレビ報道でも、地震は速報され、七階建てのホテル等が倒壊し、閉じ込められた人々の救出等が報道された。
からむし(苧麻)文化の調査等でたいへんお世話になっている馬芬妹(まふんまい、FB馬藍)さんが生まれ、現在暮らしているのがこの花連市である。馬さんは無事であったが、停電等が続いたようだ。
花連市で馬芬妹さんは父・馬慶龍さん(一九二一年生~二〇〇九年卒)の蔵書から、加藤清之助という人が書いた『苧麻』という本を見つける。その本には「民国三六年五月十五日 於花連市 馬慶龍」と署名がある。蔵書の角印が押されているほか「150元」と書かれている。
このことから一九四七(昭和二二)年五月十五日に百五十元で『苧麻』という本を購入したことが確認できる(註1)。
さてこの『苧麻』は台北の台湾総督府内の南洋協会台湾支部から一九二二(大正十一年)に刊行された。販売価格は二円であった。日本語で表記された本である。
『苧麻』が台北で発刊されてから二十五年目に、花連市の馬慶龍さんが購入され入手した。この間、第二次世界大戦があった。
馬慶龍さんは東京農業大学農芸化学科を卒業しており、一九四五(昭和二〇)年八月に日本の敗戦が決まり、半年後の一九四六(昭和二一)年二月に台湾に帰国した。その後、約二年、花連農高の教師をされている(註2)。ちょうどそのころに『苧麻』を入手されていることになる。農業高校勤務での個人の資料として購入されたものであろうか?
馬芬妹さんは、日本留学後、南投県草屯鎮の国立台湾工芸研究所で台湾藍の復活のための調査・研究、生活工芸の振興のための取組をされていた。そのなかで、一九九六年六月に、日本の生活工芸運動の福島県大沼郡三島町を訪問、そして昭和村も訪問し当時の昭和村農協工芸課のからむし会館等を訪問されている(註3)。
工芸課には三島町西方の遠藤由美子さん(現・奥会津書房主宰)が勤務されており、馬芬妹さんと意気投合した。遠藤さんはからむしを担当しており、馬芬妹さんは台湾で出版された『苧麻』のことを伝え、台湾に帰国後、その複写を遠藤さん宛に送付していた。
遠藤さんらが編集した『カラムシ史料集その一』が一九九九年三月に昭和村教育委員会から少部数出版される。ここに、『苧麻』のいくつかの引用部分が掲載された。また今井俊博のタイヤル族の織物も少し引用紹介された。
一九九九年九月二一日、台湾中部の大地震が発生し、国立台湾工芸研究所等も罹災した。その時の話も象鼻村への往復の自動車のなかで聞いた。藍の畑、沈殿藍のための装置等が罹災した(註4)。
二〇〇〇年夏、馬芬妹さんは二度目の研修で、来日し、日本国内の各地の手仕事(生活工芸)の産地に滞在しながら、直接に体験を通して技法等を学んでいた(註5)。昭和村では小中津川の織姫体験生OGの大久保裕美さん(後のからむし工芸博物館学芸員)が借りていた民家に泊まり込みでからむし引きをされていた。
七月二七日の午前九時から正午まで昭和村役場でからむし工芸博物館の展示計画等のプロジェクト会議があり、大久保さん、遠藤さんも委員であり、馬芬妹さんという台湾の研究者が来村中であることを知らされる。この日に訪問しても良かったのだが、午後二時より村内で花き講演会、七時半より大岐センター(集会所)で昭和花き研究会の定例会が予定されていたので、翌二八日の夜に、小中津川を訪問することとした。
二〇〇〇年七月二八日の午後七時過ぎ、小中津川の野尻川近くにあった民家(大久保宅)で、台湾から来られた馬芬妹さんとお会いし、一時間ほど日本語でお話しをした。台湾でもからむしは栽培されており糸にして織物にしていることを聞いた。大久保さん・遠藤さんが同席された。
私が実際に『苧麻』という本を手にしたのは、二〇〇六年四月二四日に北海道札幌市北区の弘南堂書店より八八四〇円(送料・税込)で購入した『苧麻』が届いた。インターネット等の検索によりようやく発見した本であった。その後、二冊目は神奈川県横浜市のたちばな書房から二〇〇七年二月五日に五六〇〇円で購入した。こちらは日本の古本屋というポータルサイトで検索して見つけたものである。
この間、いくつかの図書館の蔵書でも存在すること等、確認しているが、現在、日本での研究者等の本(引用文献)を見ても、ほとんど、この著作は掲載されていない。また原著そのものは、国立国会図書館デジタルコレクションで自宅のインターネットに接続したパーソナルコンピュータ等端末で、全文を読むことができる。
さて、からむし栽培等の基本文献を集めているなかで、加藤清之助『苧麻』についても、著者の来歴等含め本格的に調査をはじめた。そのなかで、台北市内の大学図書館等で、戦前の日本の研究者、たとえば田代安定の資料が公開されたりしており、二〇一六年秋に台北市を訪問することを計画した(註6)。
二〇〇〇年七月にお会いした馬芬妹さんに一六年ぶりに連絡を取ることとして、遠藤由美子さんに連絡先(電子メール)を教えていただいた。『苧麻』の執筆者である加藤清之助について調査協力を依頼した。
二〇一六年年十一月六日、八日。台湾在住の馬芬妹さんの調査・教示により、詳しい情報がわかってきた。
台湾史研究所の台湾総督府農業試験所職員録で、本籍地が山形県であることがはじめて明らかになった。
一九一八(大正七)~一九一九(大正八)年は農事試験場種芸部の技師
一九二〇(大正九)年は農事試験場嘉義支場の技師。
一九二二(大正十一年)に『苧麻』発刊
一九二三(大正十二年)に『サイザル及び龍舌草』(南洋叢書二四)発刊
一九四四(昭和一九)年は新竹州 州會議員。
『苧麻』例言で謝意を述べている二名について、この職員録ウェブで写真閲覧してみると(ウェブ検索では東郷實はヒットしない)。
東郷實、田中秀雄は、台湾の台湾総督府、農事試験場の職員。
東郷實は鹿児島県出身の農事試験場技師を経て、台湾総督府の調査課長(大正十一年)。後に政治家。東郷実。
田中秀雄(註7)は同僚で、熊本出身。農事試験場技手。種芸部。
加藤清之助は台湾の農事試験場に勤務し、『苧麻』の著作を書き上げたことを想像できる。職員録でウェブ検索では大正七年から九年までの職員(技手)であり、山形県が本籍地であることがわかった。ただウェブ検索ではヒットしない例(東郷實)もあることから、ウェブの職員録の写真閲覧を行い、精査する必要がある。
加藤清之助は、製糖会社に勤務し、台湾から出て、昭和九年には沖縄県南大東島、そして台湾に戻り、大日本製糖の工場勤務、苗栗工場長を経て、この工場がある新竹州の州會議員(昭和一九年)、、、というところまでわかった(註8)。
『苧麻』を読み返してみると、台湾との日本内地の比較事例は「山形県」が多く、山形県生まれで、ある程度、そこでの苧麻との関連があったことが推察される。米沢苧(そ)、最上苧(もがみそ)の青苧(からむし)産地を持つ山形県。会津はその南隣りの産地である。
近世は青苧(あおそ、からむし)と表記することが多いが、明治期は中国大陸からの輸入が増え、中国の読みの「苧麻(ちょま)」という表現が使われたようである。
苧麻の本場の中国大陸を知る植物学者・農学者は、日本国内、特に南西諸島(沖縄等)や台湾統治後は台湾へも「苧麻」作付け・産業化を田代安定などが推進している(註9)。
戦前、日本産からむし(苧麻)品種は、宮崎県の農業試験場に集められ試験研究が進められた(註10)。